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最も強く揺れた小田原では、天守の瓦や壁が落ち<ref name="town.oi" />、[[小田原城]]三の丸の藩校集成館が倒壊した<ref name="大地動乱の時代p10" />。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、被害が出た家は544戸。死者も24人出た。箱根、[[根府川]]関所にも被害が出た。[[箱根]]など341か所で山崩れが起こり、真鶴([[真鶴町]])にも被害を与えた<ref name="town.oi" />。真鶴湊では[[津波]]による引き波がみられたが被害はなかった<ref name="大地動乱の時代p12" /><ref>相田勇 (1992): 「1853年嘉永小田原地震の津波」『地震学会講演予稿集』 No.1, p.83.</ref>。江戸城でも大手門の渡櫓内の壁がすべて落ちた<ref name="大地動乱の時代p13" />。[[東海道]]は道路や関所などが被災したため1週間ほど通行不能となった<ref>『[[#大地動乱の時代|大地動乱の時代]]』 11頁。</ref>。 |
2023年2月2日 (木) 20:42時点における版
小田原地震(おだわらじしん)は、神奈川県西部の小田原市周辺で発生する地震である。フィリピン海プレートの一部にあたる伊豆半島と、日本列島のプレートとが衝突して沈み込めないため、小田原市周辺では地震が発生しやすいと考えられている[1]。過去に数回発生しており[2]、再来周期はほぼ73年である[2]。小田原市周辺で過去に発生した主な地震としては、寛永小田原地震(1633年)、慶安小田原地震(1648年)、天明小田原地震(1782年)、嘉永小田原地震(1853年)などがあげられる。1645年(正保2年)、1647年(正保4年)、1870年(明治3年)にも発生したとされているが、いずれも小被害である。さらにこれらの地震に、相模トラフ沿いで発生した元禄地震(1703年)および関東地震(1923年)を加えると、平均で70年程度の周期で地震が起きていることになる[1]。本記事では、江戸時代の地震に於いては発生時の元号を冠し区別している。
寛永小田原地震
寛永小田原地震 | |
---|---|
震源地 | |
本震 | |
発生日 | 1633年3月1日(寛永10年1月21日) |
震央 | 神奈川県西部 |
座標 | 北緯35度12分 東経139度12分 / 北緯35.2度 東経139.2度 [3]。 |
規模 | M7.1 - 7.2程度(M7.0とも) |
最大震度 | 震度7:神奈川県小田原市など(推定) |
津波 | 小田原で最大11.9m(ほか熱海市など) |
地すべり | あり |
被害 | |
死傷者数 | 死者150人 |
被害地域 | 日本 神奈川県西部(小田原市など) |
| |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
寛永10年1月21日(1633年3月1日)[4]に発生。マグニチュード 7.1-7.2[5](7.0とも)。小田原で最も強く揺れ、小田原城矢倉、門塀などに被害が出た。民家倒壊も多く、150人が圧死により死亡。箱根で山崩れが起こる。海に近い熱海や網代で津波の被害が出た[2]。
慶安小田原地震
慶安元年4月22日 (1648年6月13日)に発生。マグニチュードは7.0程度。小田原城破損。死者1人。箱根で落石。領内で潰家が多かった[6]。
天明小田原地震
天明小田原地震 | |
---|---|
震源地 | |
本震 | |
発生日 | 1782年8月23日(天明2年7月15日) |
震央 | 神奈川県西部 |
座標 | 北緯35度24分 東経139度06分 / 北緯35.4度 東経139.1度 [7] |
規模 | M7.0程度 |
地すべり | あり |
被害 | |
被害地域 | 日本 神奈川県など |
| |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
天明2年7月15日(1782年8月23日)[8]。マグニチュード 7.0程度(7.3[2]とも)。月初めより前震あり、被害は大きく、小田原城の櫓、石垣に被害が出る[5]。民家は約一千戸が倒壊し、江戸でも死者。箱根山、大山、富士山で山崩れが発生した。熱海で津波が有ったとの記録がある[9]。なお、宇佐美龍夫(1984)らは震源は足柄平野にあり小田原地震には該当しないとの見解もある[10]。一方、都司嘉宣は震源域は海底下まで伸びていたとしている[9]。
嘉永小田原地震
嘉永小田原地震 | |
---|---|
嘉永小田原地震の震度分布 | |
震源地 | |
本震 | |
発生日 | 1853年3月11日(嘉永6年2月2日) |
震央 | 神奈川県小田原市付近 |
座標 | 北緯35度18分 東経139度09分 / 北緯35.3度 東経139.15度 [11] |
規模 | M6.7 |
最大震度 | 震度7:神奈川県小田原市など(推定) |
被害 | |
死傷者数 | 死者24人 |
被害地域 | 神奈川県を中心とした関東地方 |
| |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
嘉永6年2月2日(1853年3月11日)[12][13][注釈 1]。マグニチュード6.7程度。推定されている各地の震度は、6から7が小田原(特に東南部)・塚原・金子、6が布川・中沼・関本・山田・矢倉沢・最乗寺・高尾、5強から6が川村・中日向・巣雲川・仙石原[14]で、江戸でも震度4から5程度の揺れであったとみられている[15]。本震は午前10時過ぎ頃に発生し、10分から15分の間に2度の地震が起こったと考えられている[16]。本震後も余震が続いたが翌日夕方4時頃に最大余震があり、さらに被害が出た[17]。
最も強く揺れた小田原では、天守の瓦や壁が落ち[2]、小田原城三の丸の藩校集成館が倒壊した[16]。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、被害が出た家は544戸。死者も24人出た。箱根、根府川関所にも被害が出た。箱根など341か所で山崩れが起こり、真鶴(真鶴町)にも被害を与えた[2]。真鶴湊では津波による引き波がみられたが被害はなかった[17][18]。江戸城でも大手門の渡櫓内の壁がすべて落ちた[15]。東海道は道路や関所などが被災したため1週間ほど通行不能となった[19]。
各地の震度は以下の通り。(いずれも推定)
震度 | 地域 |
---|---|
7 | 小田原 塚原 金子 |
6 | 布川 中沼 関本 山田 矢倉沢 最乗寺 高尾 |
5 | 川村 中日向 巣雲川 仙石原 |
2007年の地震
地震の概要
神奈川県西部地震 | |
---|---|
震央の位置 | |
本震 | |
発生日 | 2007年(平成19年)10月1日 |
発生時刻 | 2時21分00.0秒 (JST) |
震央 |
日本 神奈川県西部 北緯35.135度 東経139.071度(北緯35度08分06秒 東経139度04分16秒 / 北緯35.135度 東経139.071度) |
震源の深さ | 14 km |
規模 | マグニチュード (M)4.9 |
最大震度 | 震度5強:神奈川県 箱根町 |
津波 | なし |
地震の種類 | スラブ内地震 |
余震 | |
回数 | なし |
被害 | |
死傷者数 | 軽傷者2名 |
被害総額 | 不明 |
被害地域 | 神奈川県西部、静岡県伊豆地方など |
出典:特に注記がない場合は気象庁による。 | |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
2007年(平成19年)10月1日午前2時21分に、神奈川県西部を震源とする、M4.9の地震が発生した。神奈川県箱根町で震度5強を観測した。
気象庁は「神奈川県西部の地震」と呼称している。それほど規模は大きくない地震だったが、震源が比較的浅かったため、震源付近では大きな揺れが観測された。震度5強という強い揺れではあったが、大きな被害は発生しなかった。
また、この地震は、緊急地震速報の一般向け提供が始まる約6時間前に発生した[20]。関東地方で発生した大きな地震であっため、テレビ局は各局で臨時ニュースを放送した。
被害
小田原市では、地震によって病院のエレベーターが停止した[22]。鉄道等が運転を見合わせるといった事態は起こらなかった(線路の点検を行った鉄道会社はあった)うえ、道路に関しても、一部の区間等で少しの間通行が規制された程度で、原子力発電所にも影響はなかった[22]。
各地の震度
震度4以上の地域は以下の通り[23]。
震度 | 都道府県 | 観測点 |
---|---|---|
5強 | 神奈川県 | 箱根町湯本 |
5弱 | 神奈川県 | 小田原市荻窪(旧2) |
4 | 神奈川県 | 真鶴町真鶴 |
静岡県 | 熱海市泉・東伊豆町奈良本 |
神奈川県湯河原町や真鶴町では、一部で震度5弱を観測したと推定されている。[24]
脚注
注釈
出典
- ^ a b 小項目事典, ブリタニカ国際大百科事典. “小田原地震とは”. コトバンク. 2021年4月7日閲覧。
- ^ a b c d e f “神奈川県西部地震”. 大井町で想定されている地震. 神奈川県大井町 (2010年3月31日). 2011年7月29日閲覧。
- ^ 国立天文台『理科年表 令和3年』丸善、776頁。
- ^ 『大地動乱の時代』 134頁。
- ^ a b 石橋克彦、「小田原付近に発生した歴史地震とその地学的意義」『地学雑誌』 1993年 102巻 4号 p.341-353, doi:10.5026/jgeography.102.4_341
- ^ 国立天文台『理科年表 令和3年』丸善、777頁。
- ^ 国立天文台『理科年表 令和3年』丸善、785頁。
- ^ 『大地動乱の時代』 136頁。
- ^ a b 都司嘉宣(1986)、「天明小田原地震 (1782-VIII-23) の津波について」『地震 第2輯』 1986年 39巻 2号 p.277-287, doi:10.4294/zisin1948.39.2_277
- ^ 宇佐美龍夫他「天明の小田原地震 (1782-VIII-23) について」『地震 第2輯』第37巻No.3、日本地震学会、1984年9月、506-510頁、doi:10.4294/zisin1948.39.2_277、2012年9月27日閲覧。
- ^ 国立天文台『理科年表 令和3年』丸善、790頁。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ 『大地動乱の時代』 8頁。
- ^ a b 『大地動乱の時代』 11頁。(「図1-1 嘉永小田原地震による震災地の震度」参照)
- ^ a b 『大地動乱の時代』 13頁。
- ^ a b 『大地動乱の時代』 10頁。
- ^ a b 『大地動乱の時代』 12頁。
- ^ 相田勇 (1992): 「1853年嘉永小田原地震の津波」『地震学会講演予稿集』 No.1, p.83.
- ^ 『大地動乱の時代』 11頁。
- ^ “一般向け緊急地震速報スタート”. 2019年8月9日閲覧。
- ^ 神奈川県西部を震源とする地震について(第1報) (PDF) 内閣府
- ^ a b c “神奈川県西部で震度5強”. 2019年8月9日閲覧。
- ^ “気象庁|震度データベース検索 (地震別検索結果)”. www.data.jma.go.jp. 2019年6月30日閲覧。
- ^ https://www.data.jma.go.jp/svd/eew/data/suikei/200710010221_361/200710010221_361_304.html
参考文献
- 石橋克彦『大地動乱の時代 - 地震学者は警告する』岩波書店〈岩波新書 新赤版 350〉、1994年8月。ISBN 978-4-00-430350-3。
- 国立天文台 編『理科年表 第85冊(平成24年)』丸善出版、2011年11月。ISBN 978-4-621-08438-0。
関連資料
- 植竹富一、野口厚子、中村操 「天明相模の地震及び嘉永小田原地震の被害分布と震源位置 (PDF) 」『歴史地震』 第25号、2010年、39-62頁。
- 宇佐美龍夫 「嘉永6年2月2日(1853年3月11日)の小田原地震」『東京大学地震研究所彙報』 第52冊第2号、1978年3月15日、333-342頁。
- 坂田正治 「小田原地震について (PDF) 」『防災科学技術』 防災科学技術研究所、第61号、1987年12月26日、15-17頁, NAID 110004875332。
関連項目
外部リンク
- 小田原地震(嘉永6年2月2日)〔1853年3月11日〕 - 東京大学地震研究所図書室(旧「和古書類目録データベース」内)
- 生きている伊豆の大地(3)神奈川県西部地震 - 火山学者 小山真人(『伊豆新聞』2009年8月2日掲載)
- 【温故地震】M7級の小田原地震 16世紀にも発生、70年周期か 都司嘉宣 産経ニュース 記事:2015.11.23 閲覧:2019.2.5