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{{基礎情報 武士 |
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|氏名 = 畑時能 |
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| 時代 = [[鎌倉時代]]末-[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]] |
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| 改名 = |
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| 別名 = 六郎左衛門 |
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| 戒名 = |
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| 墓所 = |
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| 官位 = |
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| 幕府 = [[南朝 (日本)|南朝]] |
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| 主君 = [[新田義貞]]→[[脇屋義助]] |
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| 氏族 = [[秦氏]]?、[[多治比氏]]? |
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| 父母 = 畑胤時、久納養哲娘 |
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| 兄弟 =畑能速 |
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| 妻 = 正室:井上経長の娘? |
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| 子 = 畑時純、畑能速 |
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| 特記事項 = |
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'''畑 時能'''(はた ときよし、[[正安]]元年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]<ref>『畑時能の古戦場を偲ぶ』</ref>([[1299年]][[10月10日]]) - [[興国]]2年/[[暦応]]4年([[1341年]]))は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]・[[南朝 (日本)|南朝]]方の武将。六郎左衛門。[[畑胤時]]の次男。母は[[久納養哲]]娘。子に[[畑時純|時純]]<ref>「妙心寺史」</ref>、或いは[[畑能速|能速]]<ref>「丹波志」</ref>。兄に[[畑時継|時継]]。[[新田義貞]]の側近で、後代に[[新田四天王]]の一人に数えられた。 |
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[[畑氏]]の出自は『姓氏家系大辞典』では[[秦氏]]、『苗字尽略解』では[[多治比氏]]とされるなど諸説ある。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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[[武蔵国|武蔵]][[秩父郡]]出身。義貞に従って各地を転戦し、[[延元]]3年/[[建武 (日本)|建武]]5年([[1338年]])、義貞が[[藤島の戦い]]で[[平泉寺]]勢力に敗死すると、義貞の弟[[脇屋義助]]に従い、[[坂井郡]][[黒丸城]]、[[三国湊城|千手寺城]]、[[鷹巣城 (越前国)|鷹巣城]]を転戦、足利方の[[斯波高経]]と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、[[浄法寺山#鷲ヶ岳(福井県)|鷲ヶ岳]]に郎党16騎で立て籠った。高経は、[[平泉寺]]が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現[[福井県]][[勝山市]]伊知地)へ3千の軍勢を差し向けた。興国2年/暦応4年(1341年)10月22日、斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、3日間苦しんだ後に亡くなったという。 |
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現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として勝山市指定史跡となっており、「畑ヶ塚」が立っている。 |
現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として1981年(昭和56年)4月7日に勝山市指定[[史跡]]となっており、「畑ヶ塚」が立っている<ref>[https://www.city.katsuyama.fukui.jp/soshiki/25/712.html 「勝山市の文化財」]勝山市公式HP</ref>。 |
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== 注釈 == |
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*『妙心寺史』 |
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*『丹波志』 |
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*[[兵藤裕己]]校注 2015「畑六郎左衛門事」「鷹巣城合戦の事」『太平記(四)巻23(西源院本)』[[岩波書店]] pp.35-46 |
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*『[[太平記]]』(巻二十二 畑六郎左衛門事) |
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2020年8月24日 (月) 10:33時点における版
時代 | 鎌倉時代末-南北朝時代 |
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生誕 | 正安元年9月15日(1299年10月10日) |
死没 | 興国2年/暦応4年10月25日(1341年12月4日) |
別名 | 六郎左衛門 |
幕府 | 南朝 |
主君 | 新田義貞→脇屋義助 |
氏族 | 秦氏?、多治比氏? |
父母 | 畑胤時、久納養哲娘 |
兄弟 | 畑能速 |
妻 | 正室:井上経長の娘? |
子 | 畑時純、畑能速 |
畑 時能(はた ときよし、正安元年9月15日[2](1299年10月10日) - 興国2年/暦応4年(1341年))は、南北朝時代・南朝方の武将。六郎左衛門。畑胤時の次男。母は久納養哲娘。子に時純[3]、或いは能速[4]。兄に時継。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。畑氏の出自は『姓氏家系大辞典』では秦氏、『苗字尽略解』では多治比氏とされるなど諸説ある。
生涯
武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し、延元3年/建武5年(1338年)、義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹巣城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党16騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ3千の軍勢を差し向けた。興国2年/暦応4年(1341年)10月22日、斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、3日間苦しんだ後に亡くなったという。
現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として1981年(昭和56年)4月7日に勝山市指定史跡となっており、「畑ヶ塚」が立っている[5]。
登場作品
小説
- 『子守りの殿』(南條範夫)