東京工芸大学短期大学部
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(東京写真短期大学から転送)
東京工芸大学短期大学部 | |
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大学設置 | 1950年 |
創立 | 1923年 |
廃止 | 1997年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人東京工芸大学 |
本部所在地 | 東京都中野区本町2-9-5 |
学部 |
写真技術科 写真応用科 画像技術科 |
東京工芸大学短期大学部(とうきょうこうげいだいがくたんきだいがくぶ、英語: Tokyo Polytechnic University, Junior College Department[1])は、東京都中野区本町2-9-5に本部を置いていた日本の私立大学である。1950年に設置され、1997年に廃止された。学生募集は1993年度まで。翌年度より東京工芸大学芸術学部の設置により短期大学は学生募集を停止し、1997年8月5日 正式廃止[2]。
概要
[編集]大学全体
[編集]- 学校法人東京写真短期大学(東京写真大学開設後、学校法人東京写真大学への改称を経て、学校法人東京工芸大学に改称)により運営されていた日本の私立短期大学。1950年、東京写真短期大学として独立の短大として設置されたが、東京写真大学(現・東京工芸大学)の設置後は東京写真大学法人直轄の短期大学として東京写真大学工学部との併設となる。「東京工芸大学短期大学部」に改称後も、依然、学科は3学科体制となっていた。実質的に「東京工芸大学短期大学部」の名称であった期間は極めて短く、旧「東京写真大学短期大学部」の後継として、かつての「東京写真短期大学」を承継し、その伝統的な基幹学科の同写真学科の卓越性から、日本で『写大』の略称を引き継いだ。永年に亘って写真界を統率し、同大学の略称は、写真界では現在も『写大』で通用し、日本の写真のスタジオ写真/コマーシャル写真のプロ写真家・営業写真家の大半が『写大』の関係者を主に構成され続けた。改称・総合大学化した「東京写真(短期)大学」は、現在の「東京工芸大学」となるも、その核たる学的領域は、「東京工芸大学芸術学部写真学科」であり、基幹学科として存続し続け発展し続けている。
建学の精神(校訓・理念・学是)
[編集]- 東京工芸大学短期大学部の学是は「美と真実の探求」となっている。これは写真家のための日本初の私学の教育機関として創設者杉浦仙之助の理念であり、写真美学と自然科学的真実の併立にあり、感性と知性の併立として、写真芸術と写真の理論の双方の教養の養成を目途とすることにあり、現在の「東京工芸大学」の名称の「工」と「芸」の融合に継承され続けている。
教育および研究
[編集]- 写真や映像に関する専門教育が行われていた。写真技術科は、報道・商業・ポートレート・造形写真など幅広い分野で活躍できるカメラマンやアーティストを養成するというねらいがあった。写真応用科は、「写真科学」・「応用写真」さらにテレビ・映画などを専門的に研究する内容のものとなっていた。画像技術科は、画像表現技術や画像再現技術〔とりわけ写真製版術(印刷工学科の基幹野)〕などに関する諸科目を学ぶ学科ものとなっていた。
学風および特色
[編集]沿革
[編集]→「東京工芸大学 § 沿革」も参照
- 1923年 杉浦六右衛門により、小西写真専門学校を創立。
- 1926年 東京写真専門学校に改組。
- 1944年4月 東京写真工業専門学校に改組。
- 1950年 新学制により東京写真短期大学(とうきょうしゃしんたんきだいがく)として開学。
- 写真技術科
- 写真工業科
- 1953年 写真工業科を専攻分離する。
- 写真工業技術専攻
- 写真製版技術専攻
- 1961年 学科改組が行なわれる。
- 1966年 東京写真大学(とうきょうしゃしんだいがく)に学名変更し、東京写真大学短期大学部を開設。
- 1977年 学名変更に伴い、東京写真大学短期大学部を東京工芸大学短期大学部に学名変更。
- 1982年4月 東京工芸大学女子短期大学部を開設。
- 1993年度をもって学生募集を終了。翌年度より東京工芸大学芸術学部に移行。
- 1997年8月5日 正式廃止[2]。
基礎データ
[編集]所在地
[編集]- 東京都中野区本町2-9-5
象徴
[編集]- 東京工芸大学短期大学部のカレッジマークはヒマワリをイメージしている。
- 大学歌は平井康三郎作曲、勝承夫が作詞している。東京写真短期大学以来の建学の理想を謳い上げている。
- シンボルマークは、イエローとシアンブルーと混合色のグリーンの3原色の輪。
- スクールカラーはイエローとシアンブルーと混合色のグリーン。
教育および研究
[編集]- 美学、写真美学、色彩工学、写真化学、写真技術、写真史、応用物理、応用光学実験講義、光学、機械工学、画像処理、作画、色彩印刷論、ドイツ語、英仏語、実習、大型カメラを駆使した撮影実習、ライティング、物撮り、人物画、デッサン
組織
[編集]- 教務、諮問機関、就職課、図書館、写大スタジオ、写真現像作画処理暗室、写大ギャラリー、学生課、体育館
学科
[編集]- 写真技術科:入学定員は100名。
- 写真応用科:入学定員は70名。
- 画像技術科:入学定員は70名。
専攻科
[編集]- なし
別科
[編集]- なし
取得資格について
[編集]附属機関
[編集]- 写大ギャラリー
研究
[編集]- 写真史、オリジナルプリントの蒐集と研究、写真美学の研究、銀塩写真の退色の研究、日本写真学会との共同研究
学生生活
[編集]部活動・クラブ活動・サークル活動
[編集]- 東京工芸大学短期大学部で活動していたクラブ活動
- 体育系:
- 文化系:
学園祭
[編集]- 東京写真大学短期大学部の学園祭は「写大祭(中野祭)」と呼ばれ隣接の「女子美大」などと交流を深め、写真展を中心に催事を開催し、スタジオを含め、学内を完全開放し、中野坂上地区の著名な祭礼の一つとなっていた。
大学関係者と組織
[編集]大学関係者一覧
[編集]→「東京工芸大学の人物一覧」を参照
施設
[編集]キャンパス
[編集]- 大学開学後も、大学本部建物とは併置した、併設のキャンパスをもっていた。
対外関係
[編集]系列校
[編集]社会との関わり
[編集]- かつてカメラマンという雑誌に、当短期大学の広告が出ていたことがある。
- スタジオ写真、コマーシャル写真の分野に卓出した人材を永年に亘り輩出させ、『ポートレート写真は東京写真短期大学、ドキュメント写真は日本大学芸術学部写真学科(日芸)』といわれるほど、「静物写真・物撮り・人物写真・風景写真」の領域に卓越した写真家を輩出し、前衛的な報道写真・戦争写真の分野を比較的に不得意とした。
- 学風は1960年代1970年代の全共闘時代活躍した『日芸』の前衛的学風のように社会政治活動に活躍するよりも、比較的地味なスタジオ写真やコマーシャル写真のような保守的な分野をその主たる活動領域としていた。
- 『写大』の学生は、主として商業写真などの伝統な分野で永年の匠の技の分野に活躍の場を求め、伝統的写真作家として育ち、且つ、写真製版の分野では卓越した技術者として画像技術の前衛に立った。このような「写大」の気風は、『着実さと永年に永続する画像創造とその伝統に支えられた写真術の技術者』の養成機関であり続け、非常に地味で堅実なものであった。
卒業後の進路について
[編集]就職について
[編集]編入学・進学実績
[編集]- 全学科を含め、東京工芸大学への編入者が多かった。ほか、早稲田大学へ編入学した学生もいた。
参考文献
[編集]- 『全国学校総覧』
- 『短期大学一覧』
- 『全国私立大學・短期大學入学案内』(昭和27年度用:日本私立大學協會 日本私立短期大學協會共編)
- 『日本の私立短期大学』(日本私立短期大学協会発行:1980年)
- 『進学年鑑』(『私大コース』シリーズ別冊)
- 『全国短期大学高等専門学校一覧』(文部省高等教育局技術教育課監修)
- 『短期大学教育』第49号(日本私立短期大学協会発行:1992年)
- 『短大蛍雪』(全国短大&専修・各種学校受験年鑑シリーズ。旺文社)
- 『全国短期大学受験要覧』(廣潤社)
- 『全国短期大学案内』(教学社)
- 『全国短期大学受験案内』(晶文社)
- 『全国短期大学案内』(梧桐書院)
脚注
[編集]- ^ History of Tokyo Polytechnic University(英語)より。2014年9月10日閲覧。
- ^ a b 平成23年度『全国短期大学高等専門学校一覧』266頁より。