源通資
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元久2年7月8日(1205年7月25日) |
官位 | 正二位、権大納言、淳和奨学両院別当 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇→後白河院および後鳥羽天皇→後鳥羽院および土御門天皇 |
氏族 | 村上源氏久我流 |
父母 |
父:源雅通 母:美福門院女房(藤原行兼または藤原長信の娘) |
兄弟 | 雅縁、明雅、通親、雅平、通望、通資、藤原実守室、三条殿 |
妻 | 藤原長輔の娘、源俊光の娘 |
子 | 雅親、守通、雅清、唐橋通時、勝海、道禅、道順、惟明親王妃 |
源 通資(みなもと の みちすけ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。村上源氏久我流、内大臣・源雅通の二男。官位は正二位・権大納言、淳和奨学両院別当[1]。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 保元3年(1158年)4月6日、叙爵[2]。
- 長寛3年(1165年)5月9日、侍従[3]。
- 永万元年(1165年)12月30日、昇殿。
- 永万2年(1166年)1月12日、従五位上。
- 仁安3年(1168年)8月4日、正五位下[4]。
- 仁安4年(1169年)1月11日、阿波権介を兼ねる。
- 嘉応元年(1169年)4月16日、左少将。
- 嘉応2年(1170年)11月9日、従四位下[5]。
- 嘉応3年(1171年)1月18日、丹波権介を兼ねる。
- 承安2年(1172年)1月23日、従四位上。
- 承安5年(1175年)1月23日、美作介を兼ねる。同年4月27日、父・雅通の喪が明けて復任。
- 治承2年(1178年)1月5日、正四位下。
- 養和元年(1181年)11月28日、左中将に転任。
- 養和2年(1182年)3月8日、加賀権介を兼ねる。
- 寿永2年(1183年)12月10日、蔵人頭。
- 元暦元年(1184年)10月、禁色。
- 文治元年(1185年)6月10日、参議。左中将は元の如し。
- 文治2年(1186年)2月30日、周防権守を兼ねる。
- 文治3年(1187年)1月23日、従三位。
- 建久元年(1190年)7月17日、権中納言。同年12月14日、正三位。
- 建久4年(1193年)11月21日、勅授帯剣を許される。
- 建久6年(1195年)4月7日、従二位[6]。
- 建久8年(1197年)12月15日、左衛門督を兼ね、検非違使別当。
- 建久9年(1198年)9月12日、大嘗会の御禊次第司御前長官。
- 正治元年(1199年)6月22日、権大納言。
- 正治2年(1200年)1月5日、正二位[7]。
- 建仁2年(1202年)10月26日、淳和奨学両院別当[8]。
- 元久2年(1205年)7月8日、薨去。
任内大臣の有無
[編集]元久2年(1205年)、藤原隆忠が右大臣に転任したあと内大臣は不在となっていた。そこで同年6月17日に通資は内大臣に任ぜられるよう願い出たという[9]。この時、後鳥羽院は病を治してから願い出るよう伝えたのである[10]。しかし、それを任大臣の勅許を得たと通資は判断して世間に公表したということであった[10]。同月19日には八条院が通資を内大臣に任じるよう後鳥羽院に迫ったが、後鳥羽院は先ず病を治すよう主張して任内大臣を勅許しなかったという[11]。
結局、内大臣に任ぜられることなく通資は同年7月8日に薨去してしまったのだが、家人や雑人は「内大臣殿」と称していたという[12]。そして同月10日、通資の遺族は亡き通資を久世荘に葬送したのである[13]。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『尊卑分脈』には承任大臣宣旨と注記がある。
- ^ 暲子内親王御給。
- ^ 源俊長が右京権大夫を辞しての挙任。
- ^ 朝覲行幸の賞。
- ^ 建礼門院当年御給。
- ^ 兄通親が前年に稲荷祇園行幸の行事で賞されたことの譲り。
- ^ 前年の朝覲行幸の賞。院司。
- ^ 内大臣右大将であった兄通親が突然薨去したため。
- ^ 『明月記』元久2年6月17日の条。しかし通資は任内大臣を願い出た途端に病になってしまった。この話を藤原定家は縁戚になっていた藤原実宗の子・公定から伝え聞いたという。
- ^ a b 前掲書。
- ^ 『明月記』元久2年6月19日の条。
- ^ 『明月記』元久2年7月8日の条。
- ^ 『明月記』元久2年7月10日の条。