十五話目 山の中の神社
車窓を流れる景色は、私の内にある嵐とは裏腹に、ただただ無関心に過ぎ去っていった。
懺悔の念に囚われた私の心には、反省と後悔が渦巻き、そのどちらであるのか判別することさえできなかった。
いっそ、このまま死んでしまえたら。そうすれば、この苦しみから解放され、思考することも、感じることもなく、ただ安らかな虚無に抱かれるのではないか。
そんな誘惑が、暗い水底から這い上がってくる。だが、私にはその勇気すら持ち合わせていない。
やり直したい……。強く願うのは、今のこの想いを抱いたまま、私が道を踏み外したあの瞬間に戻ること。そうすれば、きっと…。しかし、そんな空虚な願いもまた、車窓の風景と共に流れていくだけだった。
しばらくの間、車は高速道路をひた走り、やがて車線が変わり、パーキングエリアへと滑り込んだ。
沈黙を続ける私を案じてか、仙道さんが優しい声で語りかけてくる。「大丈夫ですか?」促されるまま車を降り、パーキングエリアの建物へと足を踏み入れた。
店は、この時間では当然のように閉まっていた。仕方なく、私たちはコンビニへと向かう。何か買い出しをすることになったのだが、私にはどうしても食欲が湧かない。
そんな私を見かねてか、仙道さんは少しおどけたように、いくつかのお弁当を指差した。
「エリカさん、これなんてどうかな? このお弁当、色々入ってて美味しそうじゃない。もし食欲ないなら、こっちのパスタサラダなんてどう? あっさりしてて良いと思うんだけど。」
彼の気遣いが、凍りついた私の心に微かな温かさをもたらした。
結局、私が選んだのは、冷たい紅茶と、サンドウィッチ。そして、仙道さんが「美味しそうだから」と、半ば無理やり勧めてきたサラダだった。
彼は私がそれを受け取ったことに、わずかな安堵を浮かべたようだった。会計を済ませると、私たちは再び車へと戻った。
車に乗り込むなり、仙道さんは「エリカさん、少しだけ待っていてくれるかな」と私に断りを入れると、スマートフォンを手に、どこかへ電話をかけ始めた。
私はその間、買ったばかりの紅茶をゆっくりと口に運ぶ。冷たい液体が乾いた喉を潤し、張り詰めていた心がじんわりと解き放たれていくようだった。
ホッと一息ついた頃、電話を終えた仙道さんが車に戻ってきた。
「桃花くんたちは、無事に撤退できたみたいだね。少し遅れるから、着いたらすぐに『名取』を行ってくれってさ」
仙道さんの言葉に、胸の奥で息を潜めていた不安が、ようやく小さく霧散する。彼のことだから無事であろうとは信じていたが、やはり「無事」という確かな言葉を聞くと、心底安堵した。
その時、仙道さんが改めて私に向き直り、「エリカさん、ちょっといいかな?」と、真剣な声で問いかけてきた。そして、差し出された彼の手に、見慣れない布きれがあるのを見つけた。
それは、目隠しだった。
「……なに、これ?」
私の視線が不信感に染まるのを、彼は見て取ったのだろう。仙道さんは、静かにその理由を話し始めた。
「これから行く場所なんだけど、ちょっと特別な場所でね。他人に場所を特定させるわけにはいかないんだ。もし、その場所が知られてしまうと、君の記憶を消さなければならなくなる。
私は、そういうことはあまりしたくないんだ。
だから、少しの間だけ我慢してくれるかな? ここからなら、1時間くらいで着くと思うから……」
「ねぇ! 変なことする気でしょ?」
私は、ほんの少しだけ冗談めかして見せた。それは、張りつめた空気から逃れたい一心で放った、拙い空元気だった。しかし、仙道さんは心底驚いたような顔で、慌てて否定する。
「何を言ってるんだよ! 私はこう見えても神職なんだぞ。そんなことするわけないだろ!」
彼の焦った顔を見て、私は思わずくすりと笑みがこぼれた。
「ウソ! わかったよ。記憶なんて消されたくないもん。寝てるから、着いたら起こしてね」そう告げ、私は後部座席でそっと横になった。
平静を装って振る舞ったものの、心の中は正直……怖くてたまらなかった。記憶を消されることではない。この後、一体何が待ち受けているのだろうか。どうか、これがただの悪夢で、早く目覚めてほしい。そんな切なる願いを抱きながら、心身ともに疲れ果てていた私は、すぐに深い眠りの淵へと落ちていった。
しばらく経った頃、仙道さんの声が、深い夢の底から私を引き戻した。
「……リカさん、エリカさん、エリカさん」
重い瞼をこじ開けると、車は細い山道を走っているようだった。しかし、外は漆黒の闇に包まれ、どこを走っているのか皆目見当もつかない。まるで冥府へと続くトンネルを延々と進んでいるかのようだ。
「あと5分くらいで着くんだけど、そこから階段で少し登ったところにある神社に行く予定だよ」仙道さんは、まるで世間話でもするかのようにあっさりと説明した。
しばらくすると、車は駐車場とは呼べないようなわずかなスペースに停まった。仙道さんは車を降りるなり、すぐに懐中電灯を点けて私を振り返る。
「ここから神社に上がるんだけど、気をつけてついて来てくれるかな」。
彼の光が指し示した先には、上へと続く階段の入り口があった。
古びた鳥居、そしてその先に続く闇の中の階段……。それは、昨日肝試しに行った廃神社の光景と恐ろしいほど酷似していた。まるで昨日の悪夢を再現されているようで、私は思わず彼の腕を掴んだ。
「と、となり一緒に歩いて良い?」
仙道さんは少し照れたように「もちろん」と応え、私たちは暗闇へと続く階段を上り始めた。
普段の私なら、こんな場所をそれほど恐いとは思わないはずなのに。一歩、また一歩と進むにつれて、昨日の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡る。仙道さんの腕を掴む手に自然と力が入り、手のひらにはじんわりと嫌な汗が滲んだ。
長い階段を上り詰め、古びた鳥居をくぐり抜けると、広々とした空間が広がっていた。公園ほどの広さはあるだろうか。闇に包まれ、その全容を掴むことはできない。その広場の中央、懐中電灯の光に照らされた一角に、それはひっそりと佇んでいた。
朽ちかけたというにはあまりに重厚な社。昨日肝試しで訪れた廃神社とは比べ物にならないほど、堂々とした威厳を放つ古社が、人里離れた山中にぽつんと建っている。常用されていないのか、社務所らしき建物も、御札やおみくじを販売する気配も、どこにも見当たらなかった。
「今からあの中に入るんだよ」仙道さんが簡潔に告げた、その刹那……。
「仙道殿!」
背後の闇から、低い、それでいてはっきりと彼を呼ぶ声が響き、私の肩はびくりと跳ね上がった。
「なに!?」
驚きに仙道さんの陰に身を隠すと、闇の奥からゆらゆらと赤く揺れる火の玉が現れた。声の主は、間違いなくあれだった。
火の玉は、まるで生き物のように蠢きながら、ゆっくりと形を変えていく。そして、見る見るうちに猿の姿を象り、やがては巨大な赤黒い炎の塊となった。
「狒々王……」
私の口から、乾いた囁きが漏れた。かつて桃花が呼び出した、あの炎の猿。なぜ、こんな山奥に?困惑で思考が停止しかけている私を他所に、仙道さんはまるで旧知の友に話しかけるように穏やかな口調で応じた。
「狒々王、どうかしたのか?」
「はい!まもなく、我が主がご到着かと」
「本当かい?それはちょうど良かった。エリカさん、少しだけ桃花くんを待とうか?」
彼は私に優しく問いかけるが、私はただ、眼前の異形を見つめながら、こくりと小さく頷くことしかできなかった。
桃花を待つ間、私は仙道さんの背中に身を寄せ、恐る恐る狒々王を見守った。時折、その青白い瞳が細められ、私と視線が合う。まるで嘲笑うかのようなその視線に、私の背筋はぞくりと粟立った。
そんな私の怯える姿が面白かったのだろうか、仙道さんがくすくす笑いながら声をかけてきた。
「あれ?エリカさんは一度、『狒々王』には会ってるよね。桃花くんがそう言っていたし」
「はい……でも、何なんですか、あれは。どう見てもヤバいでしょ」
「ヤバいって……」
仙道さんはさらに笑みを深め、説明を始めた。
「あれはね、山の守護者だよ……俗には山神様なんて呼ばれる、ありがたい存在なんだ。火の神として崇められることもあって、神話では火之迦具土神とも呼ばれているそうだよ。だから、エリカさん、怖がっちゃダメだ。ちゃんと拝んであげないとね」
彼は冗談めかして話を締めくくった。
「神様……?」なぜ、そのようなものがここに……。私の思考は混乱の泥沼にはまり込んでいく。その時!
「おっ!来たみたいだね」
仙道さんの声が響き、私も彼と同じ方向に視線を向けた。彼が見上げていたのは、満天の星空だった。
煌めく美しい星々。しかし、私の目にはまだ、何も捉えられない。「ほら、あそこ!」仙道さんが指し示す。私はその指の軌跡を辿るように、夜空の一点に意識を集中させた。
星々が、まるで瞬くように消えたり、また現れたりしている。それは、巨大な翼がはためく動きだった。徐々に、その姿が鮮明になっていく。それは『黒い鳥』。
大きいなどという生易しい形容は、もはや意味をなさない。ゆうに10メートルはあるかと思われるほどの、とてつもなく巨大な鳥が、悠然と、そして静かに、私たちのもとへと近づいてきていた。