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闇に咲く桃花  作者: しんいち
一章 勝又 江利香

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最終話 満点の星達

「桃花っ……! 待って……お願い……!」


境内に、私の声だけが反響する。夜の帳が降りかかったような静けさだった。風ひとつ吹かず、ただ冷気だけが頬を撫でていく。


桃花が、ゆっくりと振り返った。


その仕草には、感情というものが欠けていた。まるで、精密に組まれた人形が首を動かしたかのように……ただ傾け、ジッと私を見つめる。


「……もうやめて。健児は……もう戦えない。分かるでしょ? 見て……見れば分かるよ。あんた達なら……彼を、元に戻す方法くらい……あるんでしょ?」


自分勝手だと分かっていた。


だけど……健児をこんな風にしたのは、私なのだ。私が引き金を引いた。だからこそ、せめて……


罪悪感に縋るように、私は言葉を投げた。


すると桃花は、すっと手を下ろし、こちらへ歩いてきた。ザリッ……ザリッ……と、砂利を踏みしめる音が、異様に耳に残る。ひと足ごとに、何か大切なものが削られていくような、そんな音だった。


目の前まで来ると、桃花はすっと笑った。


それは……人の笑みではなかった。熱も、優しさも、理性さえもない。ただ氷でできた仮面が、歪んだ線を描いている。


「エリカさん……君は、本当に……どうしようもない女だね」


針のような声だった。


胸の奥に突き刺さって、そこから冷たい液体がゆっくりと全身へ染み出していく。


「元に戻す方法……そんな物ある分けないだろ。あんな醜く変わってしまった人間なんて死ぬ以外ないんだ。

そもそも、あんな醜い化け物を生んだのは君のせいじゃないか!


昨日までは怯えて僕に助けを求めていたのに。今度はその仇を、救えときた。全く君は……その身勝手な我が儘で何人殺したんだ?そんな君に『頼める』資格が、あると思うのかい?」


「……ちが……」


唇が震える。言葉は口の中で凍りついたまま出てこない。


桃花の目が、すっと細くなる。


その口元に浮かぶ笑みは、まるで闇が擬態したかのようだった。


「散々いたぶってあんな姿に堕ちてしまった人間を、かわいそうだから助けるって……偽善者ぶるにも程がある……?でもね、そんな君のこと……僕は嫌いじゃないよ」


「……え?」


鼓動が乱れる。意味が、理解できない。


「だって……君みたいな人間がいるおかげで、僕たちは『餌』に困らないからね」


「なに言ってるのあんた……え、餌ってなによ?」


まるで谷底に向かって落ちていくような感覚だった。


すると桃花の瞳が、じわりと赤に染まっていき、ボンヤリと光を放つ。あの、死害……健児と同じ瞳が私を追い詰め断罪していく。


「そうだよ、エリカさん。僕たちは、人間の罪を食べて生きている。嫉妬、強欲、怠惰、色欲、暴食、憤怒、傲慢……その業の果てに生まれる『死害』を、僕たちは糧にしている」


「糧ってなによ!あんた本当に何者なのよ」


息が詰まる。肺が、空気を拒んだように、冷たく重く沈んでいく。


「『何者?』 じゃあ教えてあげるよ」


桃花は笑った。


その声には、音ではなく、ただ寒さだけがあった。


「僕は『鬼』だよ。君たち人間の悪意を喰らうために造られた、人工の鬼。人間が作り出し、人間が育てた、君たち自身の影さ」


その言葉は、呪いのように脳に染み込んでいった。


「君たちはいいよね。なにかあれば他人のせいにして、自分の手は汚さず、ただ、被害者の顔をして泣いていればいい。でも、そんな君たちの『身勝手な感情』はね……とても美味しいんだ」


「やめ……やめて……」


耳鳴りがした。世界が歪む。寒さが骨に染みて、立っているのがやっとだった。


「怒りは、熱く。嫉妬は、刺すように。憎しみは、鈍く重い。……どれも、本当に格別だよ」


桃花は口元をぬるりと吊り上げた。獣よりも、人よりも、はるかに冷たい表情で



血の底から響くようなその声が、私の思考回路を寸断した。


「特にエリカさん。君のように『醜い』心を持った人間がいると、とても助かるんだ。君のような人が作った死害はとても上質でね……、僕たちは、飢えることはない」


飢えることはない……その言葉が、凍てつく刃となって私の内臓を抉る。理解が追いつかない。感情が、恐怖の津波に飲み込まれていく。彼は、さらに私を深淵へと突き落とそうとする。


「そうそう!君はこう思っていただろう。『償いをしたい』って。まあ……誰に対してか分からないけど……でも、そんな事をして意味があるのかなぁ?


そんな事をしたって君の罪は消えないし、誰も帰って来はしないんだよ」


心臓が、まるで狂ったように早鐘を打ち始めた。全身の血が凍りつき、皮膚の下で何かが蠢くような悪寒が走る。震えが、止めどなく全身を蝕んでいく。


「良くさぁ!人は過ちを悔いて、それを抱いて生きていく……。そんなことで罪の償いに本当になるのかな?それはただの自己満足なんじゃないの。小説やドラマで描かれた『偽善』を模倣してるだけじゃないのかな」


彼の言葉は、私の魂を直接掴み、捻り潰すようだった。偽善。自己満足。その響きが、私を嘲笑う。


「僕はね、償いなんてモノがあるとしたら、それは相手に『殺される』事だと思っているんだよ。


死ぬ瞬間まで恐怖に顔をひきつらせ、痛みで絶叫して上げ、目の前で消えて上げる。それこそが相手への償いになるんじゃないのかな。


もちろん自殺なんて論外だよ。あんなものただの逃避だからね。エリカさん、どう思うかな?」


脳裏に、死の光景が鮮明に浮かび上がった。


焼きつくような恐怖。肌を裂くような痛み。そして、喉が裂けるほどの絶叫……。


それが「償い」だというの?


身体が震える。止まらない。心の奥底から、何かが崩れ落ちていく。魂の支柱のようなものが、音もなく砕けていく感覚。


それでも、私は残った力を総動員して心を奮い立たせる


震える足に力を込め、血走った目で桃花を睨みつける。喉の奥から、かすれた声を絞り出した。


「お……お前、いい加減にしろよ……っ。

殺されることが償いなんだって言うなら……なんで、私を助けたのよ!」


言葉がつっかえながらも、私は訴える。


「最初に会った時……あの時、健児に殺されてれば済んだじゃない! それで良かったんでしょう!? どうなのよ……!」


それは私の、精一杯の抵抗だった。


そんな必死の問いに、桃花は肩を震わせ、堪えきれず吹き出した。


「アハハハハッ……ばれちゃった」


目を細め、愉快そうに笑いながら、彼は軽く手を挙げる。


「ごめん、ごめん……邪魔しちゃって。せっかくの『償い』のチャンスだったのにね。

でも、仕方ないんだ。僕、そういうふうに『作られた』からさ。死害から人間を『救え』って、そう教え込まれてるんだよ」


桃花は片目を細め、いたずらを自白する子供のように首をすくめた。


「ある種の条件反射……そう、本能みたいなもんだ。

頭で考えるより先に、体が勝手に動いちゃうんだよ。……でも、ちゃんと救ったよね?

『君の命』……確かに、僕がね」


言葉の最後に、彼は私の顔すれすれにまで身を寄せ、囁くように言った。

その声音は、まるで私の絶望を味わうことに快感を覚えているかのようだった。


悔しさに、唇を噛みしめた。怒りが全身を駆け巡る。

喉元まで罵詈雑言がこみ上げてくる……けれど、もう意味はない。

目の前にいるのは、人ではないのだから。


私が何も返さないと悟ると、桃花は満足そうに鼻を鳴らし、ゆっくりと振り返った。


「じゃあ……健児くんに、とどめを刺してあげようか。

流石にそろそろ、終わらせてあげないとね。かわいそうだから」


桃花は静かに健児の元へと歩み寄る。

その足取りはまるで看取る者のように穏やかで、優しささえ滲んでいた。


「健児くん、お待たせ。……止めを刺してあげるね」


膝を折るようにして健児と視線を合わせた桃花は、柔らかく微笑みかける。


「うん……正直、君はそこまで強くなかったかな。でも……そうだな、もし来世があるのなら、また僕に挑みにきてよ。その時はもっと楽しませてね。期待してるから」


しかし健児からの返答は、もうなかった。

虚ろな目がただ桃花を映しているだけだった。


桃花はそっと立ち上がり、片手を健児の方へと掲げる。


「……顎門(あぎと)


その一声と共に、桃花の掌に黒く禍々しい球体が現れる。雷光を帯び、空間を震わせるように脈動していた。


彼は別れの言葉を告げる。


「じゃあ、健児くん……お別れだ。待たね」


そして……


「喰らいつくせ!」


その言葉を合図に、黒い球体から無数の腕が伸びる。闇から生まれた手が健児の身体に食らいつき、無惨に引き裂きながら球体の中へと引きずり込んでいく。


肉が裂ける音。骨が砕ける音。

目を背けたくなる惨状の中で、その健児の視線が、ふとこちらに向いた。


それは怒りだった。悔しさに満ち、呪詛を刻んだ眼差しだった。

その視線が私の心を貫いてくる。


……私はただ、黙ってそれを受け止めた。


やがて数本の黒い手が健児の頭を掴み、ゆっくりと引きちぎっていく。

その瞬間だった。彼の口元が、ほんの僅かに吊り上がる。


それは笑みだった。

不気味な、意味を測りかねる微笑み。もしかしたらこの先、私に訪れる運命を見透かしたような。


次の瞬間、健児の頭部もろとも、その存在は球体の中へと完全に呑まれていった。


痕跡など一つも残らなかった。

ただそこには、音一つない静寂だけが残されていた。

虫の鳴き声さえ聞こえぬ、完璧な無音の世界が、あたりを支配していた。


静まり返った境内に、桃花の声が穏やかに響いた。


「じゃあ、エリカさんとも……ここでお別れだね」


私は無表情のまま、彼に視線を向ける。


「まぁ……なんて言うのか……頑張って生きてよ」


その声は、初めて出会ったときの桃花そのものだった。

どこか飄々としていて、少し無責任で、子どものように無垢で……だけど、不思議と親しみのある、あの声。


「どうやって……」


掠れた声が喉の奥から漏れた。蚊の鳴くようなかすかな問いかけに、桃花は答えず、ただ肩を軽くすくめてみせた。


そして、私の横にいた仙道さんに向かって言った。


「仙道さん、行こっか。喉乾いちゃった。コンビニでジュース買ってこうよ」


無邪気なその言葉に、仙道さんはふっと小さく息を吐き、私の肩をポン、ポン、と二度叩く。そして境内に設置されていた照明の明かりが、一つ、また一つと落とされていった。


闇が境内を包み込む中、桃花と小夜、仙道さんの三人は鳥居へと向かって歩き出す。

私は、ただその背中を目で追い続けた。


やがて鳥居の前で、桃花がふと振り返る。

そして声を上げた。


「エリカさん、またね!」


だが、もうその顔は見えなかった。

夜の闇に溶けたその表情が、笑っていたのか、悲しんでいたのか……私には分からない。


私は結局、別れの言葉を返さなかった。

それが、彼らの姿を見た最後となった。


境内に一人残された私は、健児が消えたあの場所へと歩を進める。

わずかに残るかがり火が、パチパチと音を立てて揺れ、ぼんやりと周囲を照らしていた。


私は空を仰いだ。

満天の星々が、暗く深い夜空を艶やかに彩っている。

その美しさに、胸の奥が締めつけられる。


涙が頬をつたい、ぽろぽろとこぼれ落ちる。

止まらなかった。理由もなく、ただ涙が溢れてくる。


「ウワァァァァァァァァァァァァァァ……!」


喉の奥から叫びがあふれ出した。

声を張り上げて、私は泣いた。


力が抜け、膝から崩れ落ちる。

私は地面に手をつき、健児がいたその土を、強く、強く握り締めた。


これは安堵の涙ではない。悔しさ、後悔、悲しみ、喪失……。

だけど、もう何の涙なのか、自分でも分からなかった。


「ウワァァァ……あん……あん……!」


子どものように、どうしようもなく泣きじゃくった。

流れた涙は、土に吸い込まれ、何ひとつ痕を残さなかった。


そして今……


私は生きている。

償うこともできず、死ぬ勇気もないままに。

ただ、普通に生きている。


もう戻らない過去を引きずりながら、今日も、呼吸をしている。


 ――そして、物語は、静かに幕を下ろした。


~Fin



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