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第20話 医療崩壊都市・トキソイドクライシス 15

 グロブリンを打ち込んで数分。


 患者の痙攣は一時的に収まり、弓なりに反り返っていた背筋はベッドに沈んだ。


 ICUにいた誰もが、ほんの一瞬だけ胸を撫で下ろした。


 だが、それは長くは続かなかった。


 呼吸器のリズムが乱れ、患者の顎が再び震え始めた。


 硬直が戻り、手足が突発的に跳ねる。


 モニターが赤く跳ね、アラームが絶叫した。


 丈二が低く唸った。


「……嘘でしょ、せっかく効いたと思ったのに……」


 片山は苦々しく吐き捨てた。


「一時凌ぎの時間を稼ぐのが精一杯か」


 患者の喉から泡を含んだ呻きが漏れ、白目が覗いた。


 看護師が吸引に走るが、痙攣で腕を払われ、吸引カテーテルが手から落ちた。


 緊張が室内全体を締め付けた。


 その中でも、阿羅業だけは微動だにせず、患者の創部を睨んでいた。


 鉄筋で裂けた下腿の創口。包帯越しに、膿と血の臭気が漂う。


 彼は低く呟いた。


「……源になる病巣が、まだ生きている」


 片山が顔を上げる


「源?」


「毒素を生む巣だ。……創部きずの奥で菌が毒素を生んでいる。中和抗体で血を浄めたとしても、病根が残れば毒はまた全身に流れ込むだろう」


 丈二が巨体を揺らし、荒い声をあげる。


「でも、どうすんのよ? 抗生剤を打ったって効くまで時間がかかる! このままじゃ……」


 阿羅業の瞳が、冷たい光を帯びた。


「……切除するしかない」


 短く、しかし鋼鉄のように重い言葉だった。


 誰もが息を呑んだ。


 片山は視線を床に落とし、低く言った。


「……壊死組織除去デブリか」


「このまま壊死組織を残せば、彼は死ぬ。全部削ぎ落とす。膿も、腐った肉も、躊躇なくな」


 阿羅業の声は冷徹だった。


 看護師が恐る恐る問いかけた。


「こ、ここで……ですか?」


「そうだ。やらなければ、死ぬ」


「……アフリカの戦場の野良手術の真似事ですか」


「違う」


 阿羅業の瞳が氷のように光った。


「戦場でも、細菌兵器の犠牲者でも、命を拾う道はこれしかなかった。腐敗は切り落とす。人を救うためなら容赦はない」


 看護師が青ざめ、震える声を出した。


「そ、そんな……ここはICUです、手術室じゃ……」


 丈二が苦笑し、肩を揺らした。


「やっぱりアンタ、言うことが怖いわね……でも嫌いじゃない」


 片山は静かに頷いた。


「やってくれ、阿羅業。今ここでやらなきゃ、この患者は持たない。ここで仕留めろ」


 阿羅業は無言で立ち上がり、滅菌トレーに手を伸ばした。


 冷たい金属が掌に馴染む。


 その刹那、室内の空気が張り詰め、全員の鼓動が聞こえるほどの沈黙が訪れた。


 メスを握った阿羅業の顔は、さっきまでの古文書に向かっていた陰鬱な学者の貌ではなかった。


 戦場で屍を解体し、命の断面を見続けてきた医の外道――


「神醫」と呼ばれるにふさわしい冷酷な執刀者の貌だった。


 無影灯の光がICUの一角を白く照らした。


 阿羅業は滅菌手袋をはめ直し、メスを握った。


「左下腿三頭筋部を消毒、滅菌ドレープ」


 即座に指示が飛ぶ。


 泥に汚染された包帯を剥がすと、腐敗臭が一気に立ち上り、室内の空気がざわついた。


 看護師が震える手で消毒液ポビドンヨードを創部に塗布する。


「創縁、やはり壊死してる。膿も深いな」


 阿羅業は刃を入れ、壊死組織を容赦なく切り取った。


 メスが皮下、筋組織を割り、吸引器が膿を啜る。


「メトロニダゾール500、静注開始」


 片山がオーダーを飛ばす。点滴が滴り落ち、患者の静脈へ流れ込んだ。


 刃が肉を裂く音が、モニターの警報と混ざり合った。


 壊死組織が削ぎ落とされ、そこからも滲み出る膿が吸引器に吸い込まれていく。


 赤黒い血がガーゼを濡らし、その度に丈二の巨体がわずかに身震いする。


 切除は続き、病的壊死組織が剥がれ、健常な筋肉の赤が顔を覗かせた。


「ここまで削ぐ。……止血鉗子を!」


 金属音が響き、ガーゼが次々に血を吸った。


 やがて膿の臭気が薄まり、創部は呼吸するかのように新鮮な赤い血を滲ませた。


 阿羅業の声は冷徹だが、確信を帯びていた。


「これで、毒素の根は断てた」




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