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第67話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 20


 雨粒が細くなり、工場の外壁はぬめるように光っていた。


 古い鉄骨の錆の臭いが鼻を刺した。


 萩枝は無言でポケットを探り、一本の鍵を取り出した。


「裏口の鍵だ。古いがまだ使える」


 榊原は一瞬、眉をひそめた。


「どこで――」


「聞くな。こういうのは聞かねぇ方がいい。行くぞ」


 二人は、錆びたフェンスを回り込み、裏手の通用口へ回った。


 看板の灯は消えていた。


 ガラス窓に貼られた"操業停止"の紙が雨に濡れてはがれかけている。


 榊原が鍵を差し込む。


 錠に錆がこびりついているのだろう、鍵穴が固く回らない。


 力をこめた瞬間、やっと鍵が回った。


 二人で、渾身の力を込めて扉を引くと、低く重い音を立てて中が開いた。


「誰もいねえな」


 中は暗闇が漂っていた。


 湿った空気の奥に、消毒液と油の混じった匂いが漂っている。


 榊原は小型のマグライトを取り出そうとした。


 その時、胸ポケットの携帯が鳴いた。


「ッ……」


 甲高い着信音が、無人の工場に響いた。


「馬鹿、音を出すな!」


 萩枝が低く唸り、榊原の手元を掴んだ。


 次の瞬間、萩枝の手がすばやく動いた。


 榊原の携帯を奪い取ると、指で電源を切り、無造作にポケットへ押し込んだ。


「音は命取りだ。俺が預かっとく」


 榊原は息を呑んだが、言い返さなかった。


 わずかな違和感を覚えながらも、歩みを進める。


 廊下は冷たく、照明の蛍光灯は外され、配線のコードが垂れ下がっている。


 壁のスイッチを押しても、ブレーカーが落とされているらしく電気は来ない。


 無音の闇。


「……誰もいない……」


 榊原がつぶやいた。


 通路の先には、鉄格子で仕切られた檻が並んでいた。


 中は空だ。


 床には、折れた注射器と錆びた鎖。


 天井の蛍光灯に光が戻らぬ限り、ここで何が行われていたのか分からない。


「実験台監禁用の檻だな」


 萩枝が低く言った。


「培養槽も、実験機材も、全部撤去されてる。証拠隠滅が早ぇ……」


 榊原の喉が鳴った。


「クソッ……一歩遅かったか!」


 拳で壁を殴った。


 鈍い痛みが骨に響く。


「おい、こっちに倉庫室がある。見てみるか?」


 萩枝が指差した。


 通路の突き当たりに鉄の扉があった。


 榊原は無言で頷き、取っ手を引いた。


 倉庫の中は広い。


 薄暗い照明の中、麻袋とドラム缶が積み上げられていた。


 袋のラベルには、英語の文字が並んでいた。


 Ammonium Nitrate。肥料用硝酸アンモニウムだ。


 榊原は舌打ちした。


「…………しかし、ずいぶんと、量が多いな」


 次の瞬間、背後でガシャリと音がした。


 金属の擦れる音。


 振り返った時、扉が閉まる瞬間だった。


 鍵の外れる音が、冷たく響く。


「おい! 萩枝さん!? 開けてくれ!!」


 返事はなかった。


 代わりに、扉の向こうから小さな火花が走った。


 ライターの擦れる音。


 そして、炎の気配。


「……な……に、してるんですか!?」


 榊原の叫びが、鉄壁に吸い込まれた。


 萩枝は丸めた紙屑にライターの火をつけて、松明のように持ち上げた。


 その時であった。


 萩枝が榊原から取り上げた携帯の画面が光り、着信メッセージが表示された。


 萩枝は顔をしかめてそれを足元に放り、火のついた紙屑を、倉庫の外壁に置かれた燃料缶に投げ込んだ。


 炎が、缶から吹き上がり、一瞬で壁を舐め、壁伝いに広がり走った。


 硝酸アンモニウム自体は常温では安定した物質だが、酸化剤であり高温にさらされると性質が変わる。


 加熱で分解反応が複数同時に進み、温度や圧力、混入物次第で発熱反応が優勢になれば爆発的挙動を示す。

 

 さらに、不純物や添加物、溶融状態での窒素酸化物や水蒸気の混在は、爆発感受性を高めるのである。


 硝酸アンモニウムは高熱環境では、熱と圧力が重なれば、火薬にも勝る爆発物となる。


 萩枝は、雨の中をゆっくり歩き出した。


 背後で、倉庫の金属が軋む音がした。


 そして――爆音が、背後から聞こえてきた。


 夜が裂けた。


 白い光が周囲の世界を呑み込み、


 地面が揺れ、雨が逆巻く。


 榊原慶介は、声をあげる間もなく爆炎に呑まれた。


 硝安が炎を孕み、鋼鉄を溶かし、空気を裂く。


 熱と爆風が榊原の全身を、魂ごと焼き千切った。


 ゼロクラウンを走らせて避難した萩枝は、遠くの橋の上で止めて、爆光に照らされた煙を見上げていた。


 雨が、また強く降り始めた。


 その顔に、罪悪の色はなかった。


「……悪いな、坊主。お前の先走った使命感のお陰で、俺の老後が守られたよ。これで泡渕から謝礼金がたんまりいただける……」


 再び走り出したゼロクラウンは闇の中に消えていった。


 その背を照らすのは、


 八つ目科学金町工場の火柱だけだった。

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