第68話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 21
六本木の研究室で達郎は、最期のRNA活性化を施こすために、蚊の蛹と相対していた。
夜明け前の無菌実験室に、安全キャビネットの殺菌灯が白く光を撒いていた。
ステンレスの器具が整然と並び、冷却装置が低く唸っている。
柘植達郎は、その中央で微動だにせず顕微鏡を覗いていた。
試験虫体が、透明な飼育槽の中でわずかに震える。
体表を流れる微細な血管に、RNAを導入した痕跡が光っていた。
指先でマイクロピペットを操る。
流し込むのは、王立研究所から盗み出されたタイガーモスキートのcDNAから転写されたRNA。
今やそれは、羽斑蚊の遺伝子構造を塗り替え、
未知の脅威を孕む新種の生物体を誕生させようとしていた。
「これが……最後の注入だ」
声が震えていた。
研究の末に、RNA活性化による新種虫体の生誕、それがこの瞬間なされるはずだった。
柘植の額に汗が滲む。
反応を示す数値が、ディスプレイの上で跳ね上がる。
蛹の外皮がわずかに動いた。
――英国王立研究所でcDNAライブラリーのみ存在していた、悪魔の蚊、タイガー・モスキート。
新種の悪魔が今、ここに誕生する。
その時だった。
机の上の携帯が震えた。
音は出していない。
ただ、無機質な振動がガラスの液晶画面を叩いた。
画面には、短い文字列。
送信者は、広瀬綾香。
【流産しました。入院しています】
その一行が、それまでの心の昂ぶりを、全てを奪った。
手が止まった。
視界の端で、蛍光灯が揺れる。
次の瞬間、ピペットが床に落ちた。
「……嘘だろ……」
呼吸が荒くなり、胸の奥で何かが壊れる音がした。
綾香――彼女の中には、自分の子がいた。
それが、今この瞬間、消え去った。
命を創る男が、命を失った。
膝が砕けるように折れ、実験台に手をつく。
指先が震え、白衣の袖が赤く汚れた。
それは涙ではなく、こぼれた培養液の赤。
命を象徴する色が、皮肉にも床を染めた。
柘植は、無言で立ち上がった。
白衣を脱ぎ捨て、ロッカーの鍵を回す
必要なのは車のキーと免許証だけ。
誰かの声が聞こえたような気がした。
いや、それは自分の中の声だった。
――行け。彼女のもとへ。
今すぐに。
研究所の扉を乱暴に押し開ける。
廊下の照明が彼の背を追いかけるように点灯していった。
カードキーを投げ捨て、エレベーターのボタンを何度も押す。
脈が乱れ、息が詰まり胸が痛む。
頭の中では、綾香の笑顔と、超音波モニターに映った我が子の胎嚢が、何度も何度も重なった。
「教えてくれ、これは……罰か?俺が、調子に乗って神の真似なんかしたからなのか……」
低く呟き、唇を噛みしめた。
千切れた唇の血の味が、達郎の意識を現実にもどす。
ロビーの自動扉が開く。
冷たい風が、頬を打つ。
夜明け前の東京は、濡れたアスファルトが鈍く光っていた。
背後の暗がり。
エレベーターの影から、ひとりの女が姿を現した。
李雪蘭。
高いヒールの音を消し、滑るように後を追う。
その顔には、哀しみでも驚きでもなく、
観察者の冷ややかな微笑みがあった。
ガラス扉の外に消える柘植の背を見つめながら、
彼女は携帯を耳に当てた。
「……計画は最終段階に入りました。タイガーモスキートの蛹の遺伝子導入は、確認済みです。当初の想定どおり、実験は成功するでしょう」
雨混じりの冷風が、彼女の頬を撫でた。
風は、柘植が走り去った方向へ吹いていた。
李雪蘭は微かに目を細め、口の端で、ほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。
「さよなら、柘植先生。あなたは――最後まで、頑張ってくれた。タイガー・モスキートの虫体さえあれば、私たちは貴方に用はないの。銀座でお祝いは……なしね」
遠くで、雷鳴が低く響いた。
タイガー・モスキートの孵化器の中で、
ひとつの蛹が破れ、
新しい翅が、静かに震えていた。