第63話 医療崩壊都市・熱病地獄の戦慄 16
埼京医大付属病院は三次救急を標榜している。
眠らない街、新宿と言われ始めたのはいつの頃からだったろうか。
夜が更けるころには、それでも、街の灯はぽつり、ぽつりと、明かりを落として街は暗くなる。
三次救急を受け入れているこの建物は不夜城の如く灯が灯っている
赤色灯が路を裂き、重症患者搬送ゲートの自動扉が開くたび、消毒液の匂いと共に生と、生の終わりが入り乱れる。
ここの医師たちは眠らない。眠ることを忘れた人種なのかもしれない。冷徹に脈を取り、機械の音と会話する。
誰もが自分の死と他人の死とは違うものだと感じている。
三次救急病院はその幻想の終着駅。どんな権力者も、どんな金持ちも、ここに運ばれれば一人の"患者"にすぎない。
寿命という財産を失えば、誰もが冷たく冷えて、二度と起つことはない。
徹夜で三次救急にあたる医師たちは、命という患者の財産を守るために、自分の命を削り夜通し働く奴隷なのかもしれない。
赤嶺丈二も、奴隷の一人として、ERセンターの勤務についていた。
廊下の床はストレッチャーのタイヤ跡で黒ずみ、酸素ボンベと心電図の警報音が途切れることなく鳴り響く。
ベッドが足りなくなれば、。看護師たちは半ば走りながら患者を移し替え、医師の怒号と悲鳴が交錯していた。
マスク姿の涌嶋加奈子は、眉間に深い皺を寄せた。
医療の現場は、すでに戦場のそれだった。
「……ちょっとした無間地獄でしょ」
背後から、聞き慣れた低い声がした。
白衣の袖をまくり上げ、額に汗を滲ませた丈二が立っていた。
巨体の影が廊下に落ちる。
マスク越しでも、疲労と憤怒が混じった呼吸が聞こえた。
「看護師が三人壊れた。代わりはいない。今流行っている劇症型の熱帯熱マラリアの症状悪化は早い。昨日まで熱だけだった患者が、今朝には心肺停止ってこともしょっ中なのよね」
丈二の声には、医者というより戦士の響きがあった。
彼は、救命室の奥を指差した。
「見て。輸液ラインも薬も足らないわ。 抗マラリア薬は、今夜は在庫ゼロ。予防薬は奪い合い。今日だけで四件、薬を求めて暴れた奴が出た。医者も患者も、もう限界を超えてる」
加奈子は目を閉じた。八つ目科学の金町工場がマラリアの爆発的感染の元凶なのか。だとすると、マラリア蚊は次から次へと街に放され、収束の余地はなくなる。
しかし、八つ目科学が、中国系半グレの支配下にあることは知らない警察にとっては、何の意図をもってマラリアの感染症テロを引き起こしているのが謎であった。
上層部が八つ目科学の追及に及び腰である理由も、そこであった。
沈黙が落ちた。
二人の間を、担架の車輪の音がゆっくりと横切っていく。
ストレッチャーの上の患者は痙攣していた。
額には汗と血、口からは泡。
看護師が酸素マスクを押し当てる。
加奈子は呟いた。
「……助かりそう?」
丈二は首を振った。
「もう心臓が持たない。三時間が限界だ」
それは、刑事と医師という二つの立場を越えた"敗北宣言"だった。
誰もが戦っている。だが、勝てない。
敵は見えず、数もわからない。
病院の窓の外では、雨がまだ止まない。
その雨の向こう、東の夜空が赤く染まりはじめていた。