第86話 帝都暴走 6
夜の八時過ぎ、毎夜のように古い医学論文に眼を通していた、阿羅業の元に宅急便が届いた。
送付者は郭英志。
阿羅業は片手で頁を繰りながら、もう一方の手で段ボールのテープを引き裂いた。埃と紙の匂い。
中には、薬液の入ったアンプルが丁寧に詰められていて、そのラベルは無造作に貼られていた。
「anti SERUM for Loxosceles, Phoneutria. spp.」――抗血清ドクグモ、ブラジリアンワンダリングスパイダー用。
黒い活字が冷たく光る。
封筒の奥に、紙切れ一枚。
墨で走り書きのように――。
「不肖の娘の悪事の罪滅ぼしになるとは思えぬが、予備は南米から大量に仕入れた。役にはたてると思う。郭英志」
字面に、年季と疲労がにじんでいた。
片山が扉の外から鼻先だけを突っ込み、陰影の中で箱を覗き込んだ。瞬きひとつで済ますように、低く漏らした。
「これか……」
阿羅業はアンプルを一つ取り上げ、指先に載せた。ガラスの中を透明な液が揺れる。乱反射した光に液が虹色に輝いて、彼の古傷のある頬に映った。
「郭か……」
「まさか、マラリアの次は、南米の毒グモってことかしらねえ?」
丈二が唸る。
巨体の影がドアを塞いだまま、部屋の空気が濃くなった。
救急搬送要請を知らせる警報音が甲高く鳴った。
受話器を執った、片山の顔色が変わった。
受話器の先から告げられた言葉は簡潔だったが、壁を壊すような重さがあった。
「三次救急搬送患者来ます、新宿区神楽坂、料亭『こと平』、七十歳の男性客が飲食中に意識不明。重症の急性中枢神経疾患の疑い。患者は国務大臣・鍬形崇真氏。秘密保持要請あり。至急、受け入れ準備を……」
片山が受話器を置くと、部屋に沈黙が落ちた。だが、沈黙は相互に言葉を投げ合う前触れに過ぎない。
「これか!」
阿羅業が、アンプルを軽く握り締める。ガラス越しに液が小さく震えた。
「わからない」
片山が吐き捨てるように言った。
「だが、受け入れを急げ。とにかく鍬形を今死なせるわけにはいかん。後任の大臣に、破傷風トキソイドの製造特例承認を取り消したりされたら、大変なことになる」
阿羅業は、アンプルを懐にしまいながら、窓の外を一瞥した。
市民のテロ活動で焼き討ちにされた建物群が、今も燃えている。
街の炎の影が遠くで揺れていた。
立ち上がった彼の顔には、決意というよりも諦観に近い色が乗っていた。
「搬送車はもうすぐ来る。ER《救急治療室》に入れるぞ。誰でもいい、手の空いてる奴は全員ERに来てくれ」
片山が指示を出す。
「鍬形の加療については、秘密保持を忘れずに、外部には漏らすな。そして、全力を尽くそう」
ER室の空気が殺気づいた。
阿羅業はふと、封筒の中の郭の字を見返した。墨の濃淡に、老いた男の誠が滲んでいた。怒りとも哀れみともつかぬ何かが、胸の奥に落ちた。
「奴らは次に何を仕掛けるか分からん」と片山が呟く。
「郭は……おそらく知っているのかもな。だからこれをヒントとして送り付けてきた。これでもきっと、あいつにとっては、煉脈連に対する命懸けの裏切り行為でもあるんだろうな」
と阿羅業。
彼はコートの胸ポケットを手で押さえ、アンプルの冷えを掌で確かめるようにして言った。
「何にせよ、鍬形と俺たちは、今や相身互い。我々が命を守り続けるためには、奴が出した、特殊薬物の特例承認が必要だ、どんな状態でも鍬形の命は救う!」
廊下の向こうで、救急車のサイレンが近づいてきた。近づく音は、夜の闇を切り裂いて入ってきた。