第89話 帝都暴走 9
阿羅業は、アンプルのガラスの中で、光を反射して鈍く光る抗血清に運命を託す。
「……郭、お前の賭けに乗ってやるぞ」
阿羅業の声は低く、誰に向けたのかも分からないほど静かだった。
彼は注射筒に薬液を満たし、気泡を抜く。
透明な液が針先にひと滴、わずかに光る。
重症患者には、抗血清4本の投与量が必要だ。
「静注だ。ライン開けて」
綾香が頷き、リンゲルのラインを調整する。
シリンジが接続され、内筒を引く。シリンジの中で二つの液がゆっくりと混ざった。
毒と抗毒が同じ血の路で邂逅する――。
彼はシリンジの内筒を静かに押し出した。
注射筒の内筒が下がる。
液が流れ込み、鍬形の青白い顔に、わずかな色が戻り始めた。
「血圧、85から120に上昇!」
看護師の声が上ずる。
阿羅業は答えず、呼吸器の波形を見つめた。
人工呼吸の音が一瞬揺れ、ゆっくりと、まるで深い眠りから目を覚ますように、
呼吸が変わった。
モニターのラインがわずかに跳ね上がる。
静かな電子音が、久しく失われていた「生還」を告げた。
阿羅業は、シリンジを抜き取りながら呟いた。
「……効いてるか」
その瞬間、鍬形のまぶたがわずかに動いた。
誰も息を呑んで鍬形を見つめた。
呼吸器の音だけが、時間を刻む。
まぶたが震え、乾いた唇が言葉にならない声をだす。
次の瞬間、目が開いた。
その瞳には、まだ権力の色がなかった。
ただの、恐怖と安堵が入り混じった人間の目。
窓の外では、朝が完全に開けていた。
淡い光がガラス越しに差し込み、機械の金属面を照らしていた。
阿羅業はゆっくりと立ち上がり、
白衣の袖をまくり直した。
*
静かな病室に器械の電子音だけが響く。
呼吸器モニターの波が穏やかに揺れ、
補液の滴がゆっくりと落ちてゆく。
ベッドの上で鍬形崇真は目を開けた。
かさついた薄い唇が、微かに動いた。
「……ここは……」
低い声が返った。
「まだこの世だ。どうやら、あんたは三途の川を渡り損ねたらしい」
阿羅業がベッド脇に立っていた。
白衣の袖を無造作にまくり上げ、
その手にはまだ徹夜の救命処置の余韻が残っている。
鍬形はしばらく、
その顔を見上げることができなかった。
人を見下ろすことしか知らなかった目が、初めて“下から見る”角度を知った。
「阿羅業……俺を、助けたのか」
「別に、俺が助けたんじゃない。あんたの命を奪い損ねた女がいて、その、罪を償おうとした女の父親がいた。ややこしい話だが、俺は、それを繋いだだけだ」
鍬形の目が一瞬だけ曇った。
「……小夜と名乗った娘か?仲居の……」
阿羅業は頷いた。
「娘が盛った毒に、親父の血清が勝った。そして、あんたは生き延びた。あんたを助けた血清は、たまたまもらった南米からの授かりものでね。日本では一切手に入らない。次に誰かが刺されたら……終わる」
言葉を切り、阿羅業は白衣のポケットから小さな封筒を取り出した。
中には、一枚の書類。
「一つ頼まれてくれないか。あんたの命を拾う手伝いをした代わりに、埼京医大病院に“抗PhTx3血清《ファルトキシン3》”の製造特例承認を出せ。あんたの署名が要る」
鍬形は、しばらく沈黙した。
窓の外を見つめる。
民衆暴動で、焼け落ちたビルの谷間に白い煙が漂い、
崩れた残骸が朝の光に晒されていた。
「一国を滅ぼしかねん……毒物関連製剤の製造を、貴様の学内施設で認可しろと?」
阿羅業は、淡々と答えた。
「そうだ。人を救うための毒を、俺は使う。だが、救うための許可が降りぬ国なら、俺は国ごと殺す覚悟もある」
その言葉に、鍬形の喉がかすかに鳴った。
彼の胸に、全身に残る痛みが、
そのまま阿羅業の声の重みになって響いた。
沈黙が流れた。
数秒、いや、もっと長い時間。
鍬形はゆっくりと起き上がり、
机の上のペンを取った。
震える手で、紙の上に文字を書く。
署名が終わった。
鍬形は、サインの上に手を置いたまま呟いた。
「……昨夜、俺を救わなければ、お前はこの国の敵にならずに済んだかもしれん」
阿羅業の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「俺は、たとえ、国賊、敵といわれても構わない。命を救うのに、味方も敵もない」
鍬形は視線を落とした。
白紙だった男の瞳に、わずかに光が戻った。
それは、一個の人間の光だった。
「……あんたの要求、通そう。できるだけの命を助けてくれ」
阿羅業は頷き、書類を受け取った。
ただ、一つの成すべき義務を果たした人間の無言の安堵の表情を見せた。
「――有難う、大臣……」
窓の外に、朝の光が強く差し込んだ。
都市の煙がゆっくりと薄れ、
遠くで鳴っていた救急車のサイレンがだんだんと近づいてきた。
救いを求める、命の音だった。