第97話 帝都暴走 17
加奈子と阿羅業が、武蔵野の病院につく頃には空は、夕暮れを抱え込んでいた。
風は生ぬるく、空の底から灰色の雲が垂れ下がっている。
正門に「精神医療センター」と刻まれた銘板は古く、鉄の門扉は半ば錆びていた。
加奈子と阿羅業が、捜査車を降りた。
靴の底で砕ける小石の音が響いた。
広い構内に人影はない。
ただ、遠くの棟の方向から救急車の残響のようなサイレンが微かに聞こえてきた。
正面玄関のガラス戸の前に、
黒いシャツの男が立っていた。
萩枝刑事。
シャツの襟を立て、煙草の火を小さく灯している。
加奈子が歩み寄る。
「……状況を報告して」
萩枝は煙を吐いた。
「紋田が、急変してた。看護職員が見回りに来たときには、もう心肺停止。医者が蘇生を試みたが、戻らず逝っちまった。医療機器は正常に動いていた。不審な点は……ない、ということらしいわ」
最後の一言を言うとき、彼の声が少しだけ震えた。
阿羅業が顔を上げた。
「死体は?」
「搬出済みだ。検視も終わり、病室は、今、空だ」
「入れるかな?案内してくれ」
萩枝は小さく頷き、先に立って薄暗い廊下を歩いた。
足音が、床のリノリウムに吸い込まれていく。
壁には、消毒液の匂いとこびりついた古い血痕の匂いが混ざっているように感じた。
廊下の突き当たりの紋田の病室の前で、萩枝は足を止めた。
ドアを開けると、蛍光灯の白が鈍く光り、ベッドだけがぽつんと残っていた。
誰もいない部屋なのに、まだ人の気配が残っていた。
シーツの皺、
床に散ったペンのキャップ、
机の上の紙片の山。
加奈子が近づいた。
「……何、これ?」
机の上には、数十枚の紙が重なっていた。
赤・青・緑のフェルトペンのインクで、無数の文字列――
A、G、C、T。
そして意味のない数字。
阿羅業が手を伸ばし、指でなぞった。
指先に、乾いたインクの感触。
「これは……ただの落書きじゃない。塩基配列だ。書き込みの端々に、DNAコードの断片が散っている」
「紋田の……?」
「そうだ。奴は死の直前まで何かを書き残していた。だが、これは遺伝子情報じゃない。おそらく英字を、組み合わせて何か意味をもたせている……おそらく暗号か」
「暗号?そんな馬鹿な!紋田は思考能力を完全に失っていたはずだ……」
萩枝が驚いて言った
阿羅業はかまわず、紙を束ね、ファイルに挟む。
「回収する。きっと、こいつが、奴の最後の言葉だ」
加奈子は頷き、机の上の残骸を封筒に入れた。
彼女の指先が、わずかに震えていた。
病室を出る二人を、萩枝は黙って見送った。
廊下の蛍光灯の光が、彼の顔の皺を鋭く浮かび上がらせた。
背中に寒気が走った。
手のひらの汗が冷たい。
俺にも見当のつかない何かが、動き出している――そんな確信が、喉の奥にこびりついた。
加奈子が遠ざかる。
阿羅業が、その後ろ姿の影を踏んだ。
足音が消えたあとも、萩枝の耳にはモニターの電子音が警告音のように、鳴り続けていた。
――ピッ……ピッ……
あの音が、まだこの病院のどこかで続いている気がした。
萩枝は思わず首筋を押さえた。
そこに触れた自分の指の震えが止まらない。
「……何を、見つけたんだ、あの二人は……。俺は何かとんでもない過ちを犯したとでも言いたいつもりか……?」
独り言が、冷たい廊下に落ちた。
その声はすぐに壁に吸い込まれ、
ただ消毒液の匂いだけが残った。