冷蔵庫戦記
本作は、私の別作品『放課後駄弁ジャーズ』第18話に登場した“冷蔵庫と会話するオカン”という一幕をもとに、野島という一人の青年がその出来事にどう向き合ったのかを誇張して描いたスピンオフ短編です。
本編を未読の方でも読める内容となっておりますので、どうぞお気軽にお読みください。
※登場人物の母も「野島」姓ですが、本作では主人公の青年を「野島」として表記しています。
母のことは「母」または「オカン」として登場しますので、ややこしく感じたらすみません。
ある静謐なる夜のこと。
時刻は深夜1時を少し過ぎた頃合い。
野島家の台所にて、ひとつの戦いが幕を開けた。
その日、野島は尿意に導かれ、眠気を引きずりながら廊下を進んでいた。
用を足し終え、自室に戻ろうとしたとき、キッチンから話し声が聞こえてきた。
それは、母の声――いや、静かな怒声であった。
「……あんたは黙ってばっかりやね!」
(オカン? 誰と喋ってんねやろ?)
台所のあるリビングの扉の隙間から漏れる光。
そっと覗くと、キッチンに立つ母の姿。
そして、彼女の視線の先にいたのは冷蔵庫だった。
「冷たい子やね……まあ冷蔵庫やし当然か!」
自らのツッコミに笑いを漏らす母。
野島は恐る恐る声をかけた。
「……オカン、何してんの?」
母は振り返り、突然の息子の登場に少し驚いた表情を見せたあと、にっこりと笑った。
「この子は聞き上手やから」
どうやら母は、夜な夜な溜まったストレスを発散する為に仮想フレンドに愚痴を零していたらしい。
「オカンそれ冷蔵庫やで?何も聞いてへんやろ別に」
野島がそう返すと、母は深く溜め息をついた。
「この子に比べて、あんたはすぐ口挟むからあかんねん! はよ寝ぇ!」
その一喝は、野島の心に深く刻み込まれた。
それ以来、彼は冷蔵庫を見るたびに胸がざわついた。
あの銀色の装甲、無言の佇まい、そして母からの信頼。
すべてが、自分にはないものだった。
ーーーー
次の日、野島は友人の松崎に一連の出来事を打ち明けた。
「お前、冷蔵庫に嫉妬してるやん」
松崎の一言にハッとした。
たしかにそうだった。
母の視線、母の信頼、すべてが、あの銀色の家電に向けられていた。
「俺、冷蔵庫より評価低いん?」
そう呟いたとき、松崎は即答した。
「そらそうやろ。冷蔵庫って衣食住の“食”を支える最重要家電やで?
それに比べてお前は衣食住の何にも寄与できてへんやろ」
あまりに的確な現実。
あまりに冷蔵庫っぽい冷たさ。
松崎はいつもストレートに核心をついてくる。
野島もそんな彼を気に入っていたが、今回ばかりは嫉妬の対象である冷蔵庫と重なって顔を顰めてしまう。
(……俺、家電以下なんか?)
そのとき、松崎がふと真顔で言った。
「でもな、お前には“表情”があるやん」
「表情?」
「聞き上手ってな、表情も大事やねん。驚いた顔、悲しい顔、うなずき…
そういうリアクションを冷蔵庫の横で出し続けたら、オカンの視線もちょっとずつお前に向いてくるやろ」
(!!…表情で、冷蔵庫に勝つ?)
「ほんで“アンタ、ええリアクションするやんけ”って思われたら、勝ちやん」
その瞬間、野島の中で何かが点灯した。
LEDランプではない。
もっと人間的な、熱を帯びた決意だった。
「俺…“あったかい冷蔵庫”になるわ」
気づいたら、言葉にしていた。
松崎は相変わらず無表情のまま言った。
「うん。なんかキモいけど、頑張れ」
ーーー
あの放課後の会話が、野島の背中を押した。
冷蔵庫に敗北したままでは終われない。
“冷蔵庫越え”という、戦いに挑むために。
そして野島の訓練が始まった。
無言でその場に佇む練習。
母の話に対して、自分ができる最前のリアクション。
驚き、悲しみ、共感の表情を鏡の前で繰り返す。
ついにその日が訪れた。
冷蔵庫の横に立ち、母の愚痴を聞く。
最初は母も“何でそこに立ってんねん顔”をしていたが、途中からは呆れたように、野島がそこに立ち続けることを黙認した。
野島は時に冷気に震えながらも、耐え続けた。
ーーー
台所は、まさに戦場だった。
深夜、母が愚痴を放つその瞬間、戦端は開かれる。
野島は、冷蔵庫の右斜め前方45度の位置に立つ。
そこが母の視界、つまり“表情射線”の最適角であることは、幾度ものシュミレーションの末に導き出された戦術的配置だった。
冷蔵庫も無言で立つ。 その銀色の装甲は、光を反射し、母の視線を柔らかく受け止めている。
無音、無臭、無表情。それこそが最大の武器だった。
「…ほんまあの人、人の話聞かへんねん」
ついに母の愚痴が放たれる。
野島は即座に“共感の眉”を展開した。
眉間にわずかな皺、口角を下げ、目を細める。
「アンタ何、変な顔してんねん」
(くっ……この表情ちゃうかったか……!)
野島が動揺している間も、冷蔵庫は動かない。
そこに“動かないことの強さ”がみえた。
野島が表情を変えるたび、冷蔵庫は変わらぬ沈黙で応じる。その静けさが、母の心を包み込んでいる。
負けじと野島は次の一手に出た。
「うんうんホンマやな!」と頷き、時折「確かにそれはひどいなあ……」と囁く。
だがその声は、母の耳に届かない。
「リアクション被せ気味やし、うっさいねん。はよ寝え」
いや、届いていたようだが、逆効果だったようだ。
この戦場では常に野島は後手であり、冷蔵庫の“静音モード”が、空間の主導権を握っていた。
(……やっぱり、こっちも“無音”で応じるしかないな)
野島は声を捨てた。
表情と姿勢、そして“呼吸”だけで母の愚痴に寄り添う。
冷蔵庫の隣で、もう一つの“静けさ”が芽生え始めた。
母はふと呟いた。
「普通に怖いねんけど」
それは当然の反応だった。
冷蔵庫の横に立って、何も言わずに見つめてくる息子。
母の内心は“怖い”と“心配”がせめぎ合い、化学反応を起こして“キモイ”になっていた。
(怖いってなんやねん…俺じゃアカンのか……いや!)
野島は決意する。
この戦いに終わりはない。
いつかきっと“母の視線”を冷蔵庫から完全に奪い取るその日まで――
これは、人と家電の、果てなき戦いの戦記である。
果てなき戦いと言いつつ、この戦いはこの日だけで終わってます。