拾われた音
お屠蘇気分が抜け、通常勤務に戻った冬の日の乾いた風が吹く夕暮れ、高円寺の駅前商店街を足早に歩いていた佐伯 樹は、ふと足元に目をやった。
「あれ?」
舗装用タイルの歩道端、車道近くに真っ白なワイヤレスイヤホンの片方が落ちている。商店街の光を反射して微かに輝いている。
(誰か、慌てて落としたんだろうな)
樹はそれを拾い上げ、ジャケットのポケットに滑り込ませた。
(家に帰ってから交番に届けよう)
アパートの自室に戻り、樹はグラスについだ冷えた缶ビールを飲み干してから、ポケットのイヤホンを取り出した。新品の自分のものと比べても遜色ない。テーブルに置こうとしたしたとき、わずかに「カチッ」という音と共に、イヤホンから音が流れ出した。耳に当ててみると、まるで誰かが隣の部屋で生活しているかのような、奇妙に鮮明な音が聞こえる。
「ふう……やっと終わった」
女性の、少し疲れたような溜息。続いて、カチャカチャという陶器が触れ合う音、ジャーという水道の音、そして微かに流れるジャズのピアノ曲。
樹は目を丸くして、聞き続けた。
「うん、悪くない」
女性が誰かに話しかけているわけではない。独り言だ。そして、彼女が嗅いでいるであろう、コーヒーの芳ばしい香りすら、音として伝わってくるような気がした。
(なんだ、これ?…まさか、どこかの家の電波拾ってるのか?)
ありえない。でも確かに聞こえる。その夜、樹は何度も試したが、一度接続された生活音は途切れることはなかった。女性がシャワーを浴びる音、ドライヤーの熱風が当たる音、ベッドに潜り込む布擦れの音。そして、静寂。
樹は困惑した。
(音源は、どこなんだろう?落とし主だろうか?仮に落とし主の生活音をが聞こえているとすれば、どういうメカニズムで聞こえるのだろう?)
物事を論理的に考える樹は、説明できない現実に向き合い焦燥感に駆られた。
(これは…盗聴か? いや、そんな単純な話じゃない)
樹は、誰かのプライベートな生活を覗き見している罪悪感と、この現象に対する純粋な好奇心との間で、激しく揺れ動いた。
一方、渋谷のIT企業でウェブデザイナーとして働く日向 茜は、いつものように終電間際に自宅マンションへ帰り着き、バッグの中を漁って青ざめた。
「嘘…右耳用がない」
愛用の高価なワイヤレスイヤホン。朝の通勤中だろうか?今日やる仕事のことで頭が一杯だったときに、右耳用だけをどこかで落としてしまったのだ。
「最悪だ…」
翌朝、警視庁遺失物センターに連絡を入れるも、案の定、届いていない。茜は残された左耳用のイヤホンを耳に入れ、ため息をついた。仕方なく音楽をかけようとした、その時、耳元に、カチッという接続音。そして、聞き覚えのない、男性の生活音が流れてきた。
「よし、この企画書でいける。あとはプレゼン資料の仕上げか…」
ノートパソコンのキーを打つ鋭い音、椅子のキャスターが床を滑る微かな音、そして、男性が時折口ずさむ、古めのインディーズロックの鼻歌。
「え…何、これ?」
茜はゾッとした。イヤホンはペアリングされていないにもかかわらず、誰かの日常の音を捉えている。彼の生活音は、樹のときと同じく、驚くほどリアルで立体感があった。
(この人、誰?どうして聞こえるの?)
茜は、理由が分からないまま、現実を受け入れるしかなかった。
樹と茜の、奇妙な「生活のデュエット」が始まった。
樹は、イヤホンを耳に当てる時間が次第に増えていった。彼の耳には、茜が朝、忙しなくトーストを焼く音、パソコンに向かってキーボードを叩くリズミカルな音、同僚との電話でのプロフェッショナルな声。そして夜には、疲れてソファに沈む音。
「…あー、もう無理。お腹すいたけど動きたくない」
茜の正直すぎる独り言を聞くたびに、樹はクスッと笑ってしまい、自分も集中力が途切れて、少し息抜きをする。
一方の茜もまた、知らぬ間に「音の彼」の生活に依存していた。彼の音は、茜の生活とは対照的に、もっと静かで、内省的だった。彼は夜遅くまで、ペンを走らせたり、紙をめくったりする音が多い。どうやら彼は、何かを書き、創造する仕事をしているようだった。
ある土曜日の昼。樹のイヤホンからは、テレビのバラエティ番組の賑やかな笑い声が聞こえてきた。
(今日はオフなんだな)
樹は、ふと、彼女が週末の昼に見ている、そのテレビの画面を自分も見てみたいと思った。そして、樹が自室のテレビの電源を入れると、偶然にも、聞こえてくる笑い声と、樹の部屋のテレビの音が、完全に一致した。
「…まさか、この番組を見てる?」
樹は思わず呟いた。すると、彼のイヤホンから、茜の「え、そっちも見てるの?」という独り言が、驚くほど近くで聞こえた。
二人の間には、距離を越えて、音だけが繋がっていた。
樹は、イヤホン越しに聞こえる生活音に、奇妙な安らぎを感じていた。知らない誰かが、静かに食事を作り、夜に読書をし、朝にはアラームを止める。
(こんなに誰かの生活って、あったかいものなんだな…)
それは覗き見ではなく、どこかで日溜りの匂いを感じるような、淡い繋がりだった。
同じ頃、茜も思っていた。
(この人、すごく静かに生きてるんだ…)
カタカタと淡々と仕事をする音、夜にカップ麺を啜る音、短く笑う声。名前も知らないのに、その生活の揺れに心が触れていた。
二人は、音を通して、相手の人間性を深く理解し始めていた。
ある夜、樹は仕事で行き詰まり、ため息をつきながら自分の部屋で昨日開けたワインの残りを飲んでいた。
「ハァ…こんなんで、本当にやりたいことが出来るのかな」
その時、茜のイヤホンからは、まるで樹の溜息に呼応するかのように、「チーン」という電子レンジの加熱終了の音が流れた。ワインのあてのスルメが温まったのだ。
そして、数秒の後、樹のイヤホンに、小さな、しかしはっきりとした音が聞こえた。
「…私も、頑張ってるよ」
それは、茜が、「音の彼」である樹に、届くはずのない独り言として、静かに話しかけた声だった。
樹は、その言葉にハッとした。彼は確信した。彼女もまた、この奇妙な現象に受け入れている。そして、彼の存在を意識し、語りかけているのだと。
樹は、もうこのままではいられないと思った。この奇妙な繋がりを、現実の世界で結びつける必要がある。彼が持っている情報は、茜の生活音だけ。朝早く出勤し、夜遅く帰宅する。パソコンを多用する仕事。朝食はトーストとコーヒー。最近、ジャズのピアノ曲をよく聞いている。そして、最後に聞いた、彼女の声色。
樹は決断した。彼女が聴いていると感じたときに、彼は一人呟いた。
「俺の名前は、佐伯 樹。イヤホンの右側を拾いました。明日、高円寺警察の遺失物センターへ、届けます。メモを添えておきますので、いやでなければ読んでください。……もしあなたがイヤホンの落とし主でしたら」
そして、その呟きどおり、樹は右耳用のイヤホンをティッシュでよく拭いた後、SサイズのZiplocに入れ、遺失物センターに届けた。実は、直接手渡す方法を呟くことも考えたが、相手の気持ちを考えて、上の方法に決めたのだった。
茜は樹の独白を聞いた。そして思った。
(え、返してくれなくてもいいのに……)
茜は、今までにもイヤホンを失くしたり、壊したりしていた。それに、イヤホン越しに聞こえる「音の彼」の生活音に救われてもいた。仕事帰りに泣きそうな日もあったし、ひとりの夜がすごく苦しい日もあった。でも、イヤホンを耳に当てると――そこに誰かの生きてる音があった。一人でないように感じた。
数日後、高円寺警察の遺失物センターのカウンターで、茜はフリーザーバッグに入った右耳用のイヤホンを受け取った。バッグの中には二つ折りにされた紙片も入っていた。
係の警察官は生真面目そうに言った。
「その紙は、これを届けた方から、あなたへのメッセージだそうです」
茜は震える手でメモを開いた。そこには、樹の筆跡で、言葉が綴られていた。
「このイヤホンは、あなたを『静か』にさせませんでしたね。もしよければ、今度は『音楽』を聴かせてもらえませんか? 高円寺北口商店街の、珈琲店『ル・アンブル』で、今週土曜日の15時に。 音の彼より」
茜は、メモに書かれた「静か」という言葉に、胸が熱くなった。彼は、彼女が自分に語りかけた独り言まで、すべて聞いていたのだ。彼女の耳には、今もまだ、拾い主である樹の、トントンとテーブルを叩いて考え事をしているらしい、控えめな音が響いている。
茜は、戻って来た右側イヤホンをそっとケースにしまい、メッセージを握りしめた。
(ええ、音楽を聴かせてあげる。あなたの好きな、古いインディーズロックを)
土曜日の午後3時。茜は、高円寺の珈琲店の扉を開けた。彼女のポケットには、左右揃ったイヤホンを収めたケースが、静かに納まっている。
(終)