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「生きろ純子」

作者: 柳 子裕

今の日本では、心の病を抱えている思春期の人々が、いかに多いかということが明らかになってきました。そんなことをテーマにしたフィクションです。

  『序章』

 その年の1月、結奈高原スキー場で開かれていた岩田学園・清南高校(しょうなんこうこう)の「スキー教室」、第3日目、早朝の事件だった。

 一人の少女がかろうじて仮死状態で発見されたのは、皮肉なことに滑降禁止エリアに入り込んでいた二人のスノーボーダーのおかげであった。


 枯れたシラカンバの他には、白銀一色の世界


 手つかずの画布のような雪面に、うつ伏せに倒れていた少女の真っ赤なベレー帽に、気づかない方が不思議なくらいの鮮やかな光景だった。


 宿舎では、純子が早朝から姿を消したことから、教員たちだけではなく、ホテルの経営陣も巻き込まれて大騒ぎになっていた。

 引率責任者であった塚越教頭を中心にして、武田市内にある「清南高校」と連絡をとりつつ、山岳救助隊に捜索願を出すべきかと、検討が進められていた。


 学園の立場としては、入学前から問題のあった純子でもあり、新年度の生徒募集の始まるこの時期に、学校のイメージを落とされるような報道はされたくなかったのである。


 現場は、深い山中ではあったが、幸運なことに、ボーダーたちからの電波が届くエリアだったので、山岳レスキュー隊が急行し、北斗大学(ほくとだいがく)附属病院に搬送されるまでには、ドクターヘリの内で胃の中の毒物は排出させることができた。

 幸い純子は、凍傷すら負うこともなく、特別病棟のベッドの上で、意識の回復を待つまでになったのである。

 この朝、純子が使った劇薬は、純子が中学時代に理科室からくすねていたものだった。


 ともかく純子が助かった以上、学校としてはこれ以上、マスコミやネットからの下俗な詮索はされたくなかった。純子の自殺未遂は生徒達にも内密にされ、保護者との相談の結果、しばらくの間、自宅待機をさせることになった。

 こういったときの、学校側の発表としてはよくあることなのだが、

 1年4組の担任である青柳からの

「加藤純子さんは体調不良により少し入院をすることになりました」、と、いう説明に対してクラスメートや、純子と同じ美術部の部員たちでさえも、なんら疑問を持つことはなかった。


 この時期の現1年生たちにとっては、先輩の3年生たちが、新春恒例の「大学入試センター試験」を終えて、国公立大学の2次試験や、各私大の入試に向かっているときであり、次は、自分たちが新2年生になるときの「志望校判定試験」への対策で、周囲への余裕などなかったころであった。



『第一章 純子の初恋』

 純子の中学校時代は平坦ではなかった。

 いわゆる幼少時のお受験コースから名門の英明中学に入ったものの、中二のとき、今どきの女生徒としては遅かった感もあるが、新任理科教師の中田に初恋をした。

 中田は地元の高校を卒業後、国立大のなかでも教員系としてはハイレベルな文理大学の出身だったから、それだけでも生徒の尊敬を集めていたのである。

 もっとも、この文理大よりも高いレベル大学の卒業生は、田舎の教師稼業などは見向きもしない、と言った方が、この大学への、より適切な評価ではあるが。


 秋も終わりが近づき、木々の葉も落ち切ろうとしていたころ、純子は、中庭の淀んだ緑色の小さな池の傍らで、中田が職員室から渡り廊下を通って、理科室のある特別教室棟に戻るときを待って、自分の気持ちを精一杯込めた手紙を中田に手渡した。

 その便箋の中にはラフな描写ではあったが、男女らしきカップルがいたわりあっているようなスケッチを添えていた。

 純子と中田の年齢差は、中学生と教師であっても10歳くらいであったから、今どき、芸能人でなくとも違和感のない差でもあった。

 しかしながら、純子にとって、その後はまさに予想外の顛末となったのである。

 中田は、純子の手紙を受け取ったこと自体、自分は管理職や教育委員会から処分を受ける対象となるのではないかと不安になり、一人の女生徒からの思いなど受け入れる余裕などなかったのである。

 中田は悩んだ末に、その手紙を純子の学年主任に渡して相談したのだった。

 次の週の水曜日の放課後、純子は学級担任の志村から、誰もいない教室に呼び出されて、丁寧に開封されたあとの手紙を返されることになる。

 志村が言うには、

「きょうは来てくれてすまなかった。ありがとう。実は君たちの年齢で、若い男性教師にあこがれる気持ちはよく分かるのだけれどね。私たちはどの生徒にも公平に接しなくてはいけないのです。中田先生の場合、担任はもってはいませんが、理科教師としてまだまだ修練を積む時期でもあり、そのうえ先生にとっては、慣れないサッカー部のご指導や遠征の準備などで大変にお忙しいのです。もちろん加藤さんのお気持ちは青春時代の貴いものだと思いますよ。それから・・・・・・」

  「こんなことまで言っていいのかと迷っていたのですが、先月、都内の高校の教員が、家出して来た女子中学生にわいせつな行為をしたという記事が、新聞に載ったことはご存知ですか。ですので、本校の教師たちにも、特に女生徒との関係を疑われるような状況を作ってはいけないと、教育委員会から学校長を通じて厳命が下っているのです。そんなわけであなたの手紙はとても良い文章だと思いますが、今回は引き取ってもらえないだろうか」と、いうことだった。


 純子は、自分の手紙が中田以外の何人の男に読まれたのかと思うと、顔から火が出るような恥かしさが湧きだし、その後、中田への思慕の思いは反転して、燃えるような恨みとなって抑えきれなくなったのである。

  そして、その恨みが、ついに本当の事件になってしまったのだ。

 理科室の薬品庫は、通常は施錠されていなくてはならないはずだ。純子は一学期の授業のあと、そのカギを理科準備室の教師用の机の引き出しにしまうようにと、中田から手渡されたことがあった。

 こういったカギ類も、本来ならば、その都度、事務室のキーボックスに返却すべきものなのだが、中田は空き時間を使って「教材研究」の領域を超えた実験に没頭していたので、一日中そのカギは準備室においておいた方が都合よかったのである。

 また普通の中学校などでは使用しない劇物などの薬瓶も、中田が棚の奥の方に入れていたことも純子は知っていた。

 さて新米教師というのは、まず生徒を疑わないものであって、まさか純子から過酷な復讐を受ける羽目になるとは夢にも思っていなかった。

 2学期の期末テストの前後というのは、各教科の担当者にとっては、試験問題の作成とその採点に追われる時期であり、各学級担任は教科担任からあがってきたクラスの全科目の成績伝票を受け取って、自分のクラスの通信表などの書類作成に追われる時期であることは、部外者にも想像できるであろう。

 それだけでなく、職員親睦会の幹事たちは、忘年会会場の予約や出し物の準備もしなくてはならない。部活動の指導も休むことはできず、追記すれば「教職員労組」の係活動もなくなるわけではない。

 大学病院の女医さんのように、一年を通して「教員免許がなくてもできることは一切いたしません」などとは言っていられないのである。


 まさしく、そんな年も押し詰まった放課後、校内の非常ベルが鳴り響き、消火栓の赤ランプが点滅し、事務長が校内一斉放送のマイクに飛びついた。

「理科室で火災発生、火災発生、先生方は消火器を持って理科室に急行してください」と、訓練通りに懸命に繰り返した。

 それは純子が理科室の薬品庫から「メタノール」を取り出して、理科室や準備室の机や床に撒き散らして、火起こし用の大型ライターで放火したのであった。

 純子は真っ先に、火災感知器の真下から放火したのだったが、それは、より早く火災報知器が作動するように図ったのではなかったのか。

 また自分自身のスカートの下には、ショートパンツを履き、上半身にはTシャツまで仕込んでいたことは、まるで、いざとなれば制服を脱ぎ棄てられる準備でもしていたかのようだった。


 まさしく放火自殺に見せかけた理科教師へのとんでもない嫌がらせというべき事件だった。


 中田は危険物質の管理不足だとして、厳重な注意を受け、翌年からは、道内とはいえ、とても遠距離にある公立校に配属されることになった。


 公立校への再任用という、寛大な措置がとられたのは、そのときの植松校長が、『学校職員とPTA代表の親睦会』という宴席で、『英明中』の教育振興会の会長を引き受けてくれていた道議会議員の長崎に、ほとんど髪の毛もない頭を下げて頼み込んだからだったというのは、後からの噂だが、その夜、泥酔して、帰りのタクシーに乗り込んで行ったという植松校長の姿からも信ぴょう性の高い情報だった。


 一方、純子への学校の対応だが、純子の父が、道内の政党や企業の有力者と連携を取ったおかげで、むしろ、お見舞いを言ってもらえたほどだった。


 さて、純子には、とんでもないことをしてしまったという後悔の念が沸き起こってきた。

 恋文を職員室で回覧されてしまったという、おまけ付きの大失恋をしたとはいえ、中田に対する思慕の情は不変であったことに、今更ながら気付いたからだ。



『第二章 発病と高校受験 』

 中田が去った後、新年度になり、純子は今まで通り通学して、授業を受けて、何事もなく帰宅している毎日の様には見えたが、本人は空漠とした毎日だった。

 何を見ても聞いても、心が動くことはなかった。

 授業には出ていたがミニテストの結果からも実力が付いていないことは、各授業者から担任の志村にときおり伝えられていた。

 しかし、道内のハイレベルな高校へ、より多くの合格者を送ることが至上命令だった志村にしてみれば取るに足らないことであり、それよりも、自分自身の英語の授業レベルや進度が、学習塾などよりも見劣りするなどと、保護者から突き上げられないようにと祈る方が第一であった。


  5月の校内模擬試験のときであった。

 純子はシャーペンを持ったまま、何かに憑かれたように動けなくなっていた。頭痛や腹痛をこらえているわけでもなく、なにもできないのである。理由はわからないが、これ以上その場にいることができないような、あたかも何ものかによって、自分自身が排除されるような気持ちに襲われた。

 たまたま試験監督をしていた国語の教師の毛塚が、なにぶんにも進学志望校を決めるための模擬試験中であったので、迷ったあげくに、

「大丈夫ですか。保健室で休みながらテストを続けてもいいのですよ」と、そっと声をかけたが、

「私、なにも悪くありません」といって純子は席に居続けた。

 いつ試験が終わったのかも気づかず、雲の上にいるような気分だった。

 しかし、その日は、道を間違うこともなく無事に家にたどり着いていた。


 翌朝、純子は身支度をして通学バッグを持ったところまではよかったが、家から出られない不思議な気持ちになっていた。

 どうしても体が前に動かないのである。父も、パートの母も、姉の正美もすでに出発していて、最後にカギをかけて登校するのが、いつもの純子の役目だった。

 昨日のテスト中のように、頭痛でもなく貧血気味でもなかった、学校をさぼりたいという理由もなかった。もしそういう気分になるとしたら、去年の2学期末の自殺未遂の直後だったろうに、今になってこんな精神状態になるとは。

 その動けない原因が自分でもわからなかった。


 学校に電話をすることはずる休みをするようで気が引けるから、というよりも、電話をかけることすら、だるくておっくうな感じに襲われていた。

 しかたなく、ベッドに横たわろうと、バッグをおいてシューズを脱いでフロアに上がろうとするときにはまったくスムーズに体が動いていた。

 だからと言って学校を休めるという安堵感などは湧き上がってこなかった。

 純子は「どうしたんだろう私、どうして学校のほうに体が向かないの」と自問したが答は見つからなかった。

 そのまま一日中、自室からは出ずに好きな音楽を聴いたり、キッチンのおやつをつまんだりして過ごしていた。

 しかし、バッグを開けて教科書や宿題に目を通す気にはならなかった、というよりも、やはり、それもおっくうな感じに包み込まれていた。

 この時のことは『大脳が、体に対して‟行動せよ‟という命令を出せない状態だった』という表現が正確でもないが、後になってからいえることだった。


 その日の欠席のことは、家族に知られることはなかった。純子が隠したというよりも、言うことすら気だるい感覚にとらわれていた。

 翌日は土曜日だったが特別授業のある日だった。しかし、登校しようとして玄関に立つと同じ気分に襲われた。

 純子は、歩いて数分のコンビニまで行って、いつものようにドリンクを買ったとき、登校できるかどうかを判断しようとして、そこまでは行ったのだが、やはりそれ以上は学校の方向に体が動かなかった。


 自宅に帰ってからは、これは何かの病気かも知れないと思ったものの、かかりつけの内科でもないし、大変な抵抗はあったが「精神科かしら」と思って、電話帳を広げたものの、どのクリニックにも「要予約」の活字が付されていた。

 そんなとき、自宅から10分ほどの所に、去年から新しいクリニックができていたことを思い出した。「横田クリニック」といって「神経内科」などが専門のようだった。その院長は、慶応大学卒の神経内科の権威だという評判を聞いていたこともあった。

 いままでの純子には無関係な診療科目だったが、「精神科」という看板がないだけ、世間体も悪くなくて入りやすい気がしたのである。

 それに、純子自身、精神が不具合なわけでもなく、気持ちや神経が落ち着かないような症状なのだから、余計に「神経内科」の文字が刺さった。

 次の日、そのクリニックに向けて、自宅を出たのは正午前だった。クリニックに着くと「受付は12時30分まで」というプレートがあり、受付の女性スタッフからは、「12時を回っていますので、時間外扱いになります」ということだった。時間外というのがどれだけの料金を指すのかもわからなかったが、言うなりにして待つしかなかった。

 ちょうど午前の患者の流れがほとんど終わり、純子は数分で診察室に呼ばれた。

 男性の院長は50代くらいであろうか、役者でいえば「松平健」のようにどっしりとした体形で、その体つきと同じく、診察の所作も落ち着いていた。先ほどの不慣れそうな受付嬢もそうだったが、医師に付き添っている看護師たちの年齢からみても、まだ開業したばかりの医院であることがよく伝わってきた。

 医師が言うには「勉強もハードになってきた学年でしょうし 心も不安定な時期ですから、とりあえず気持ちが落ち着くようなお薬を出しておきましょう。それでしばらく様子を見てください」ということになった。

 ちょうど連休前の土曜日でもあり、連続して学校を休めたことは、ありがたかった。

 しかし、週明けの火曜日、頭が荒縄で締め付けられるような痛みが襲ってきた。もちろん、その日までは薬は飲んでいたものの、今までとは違う症状だったのだ。

 この時、純子は、自分の病気はいわゆる『心の病気』などではなく、脳の神経という肉体の異常なのだと直感した。

 先週受診した『横田クリニック』に電話すると、わざわざ院長が出てくれて、

「う~ん、実は、あなたの場合、精神科の領域になるかもしれません。大学病院に長く勤務された先生がやっている『星愛クリニック』を受診してみたらどうですか。すぐに紹介状が書けないので申し訳ないですが、そこは予約制ではないから、今日中に診てもらえるかもしれませんよ。それに、わたしもセカンドオピニオンが欲しかったところです」と丁寧に紹介された。 

 ネットで調べてみると、大学病院のある隣町の新興住宅街のなかに、開業したばかりのクリニックのようだった。不思議なことにその診療時間は『午後5時から午後10時』と載っていた。

 夕食後、純子は友人のひとみの家に行くという名目で家を自転車で出た。体は多少だるいものの、なぜか病院には向かえる自分が不思議だった。


『星愛クリニック』についたのは、夜の7時近かったが、広い待合室には、椅子やソファーはあったかもしれないが、床が見えないほどの満員状態だった。

 ぐったりと横になった患者たちと、その付き添いの家族らしき人々で異様な状況だった。

 これで出血をしていたり、うめき声でも立てていたりする状態だったならば、さながら野戦病院のような光景だと純子は眼をみはった。

 純子が診察室に入ると、小柄な院長は、社長室にあるようなどっしりとした横長の大型机に背筋を伸ばして座っていた。

 診察室でありながら治療器具にあたるものは皆無だった。血圧測定などの道具も、電子カルテを映すモニターなどもなかった。つまり、問診だけでの治療なのだろうと純子は思った。

 その医師は名札も付けてはいなかったので、名前などわからなかったが、医師は、この数日間の純子の状態をしばらく聞いた後で、

「学校を少し休んだらどうですか。たしかに勉強も大事でしょうけれど、今のあなたにとっては、自分自身を休ませることが最大のミッションですよ」ということで、3週間休めるようにと、『診断書』を書いてくれた。薬は今のものを飲みきるまでは様子を見るようにとのことだった。

 診察室を出た後の純子は、

『私ってそんなに重いの、目の前にゴロゴロしている無力な人間たちと同じわけはないはずよね』と思うと、今度は悔しさが噴き出してきて、待合室にあるトイレのドアを思いっきり蹴飛ばした。

 破損があれば、弁償させられるかもしれないと、あとから不安に思ったくらいのキックだった。

 診断書もバカにならない料金だった。手持ちの小遣いで足りたのはよかったが、さて、これをどんなタイミングで親に見せるかどうかと、上の空での帰宅だった。


 その夜、純子が帰ってきたのは午後10時近かった、さすがに母親からは小言をいわれたが、それは背中で聞き流して自室に入ったとき、姉の正美がノックもせずに入ってきた。

「純子、どこに行っていたの」と詰問した。

 同時に、純子がたった今、机の上に投げ出した『聖愛クリニック』の封筒に押された黒いスタンプの『診断書』の文字が正美の目に飛び込んだ。

「星愛クリニックって、精神科じゃない。マジ何なのよ」

「・・・・・・・」

「ほんとに、どうしたのよ。夜だって、電気をつけたままぼんやりしているようだし、なにか精神的にあったんじゃないの」

「・・・・・・・」

「あんたなんか心臓に毛が生えているくらいの度胸があるんだから、普通の病気なんかじゃないわよね」と、本気で心配しているとも、冗談ともとれるようなセリフで突っ込んできた。


 純子たち姉妹は、厳しい父母のもとに育ち、姉の正美が家庭内では一番心許せる家族だった。

 純子はこの1週間の体調の異常さや、気持ちの重さの変化について、初めて医師以外の人に語り始めた。

 30分ほど、じっくりと聞き終わった正美は、同じような症状でリストカットを繰り返したり、悲しいことに、自ら命を絶ったりした同年代の女性たちがいることを思い出したが、純子に言い出す勇気はなかった。

 父と母、特に父は、子どもの日常生活にも厳格な性格で、都内の一流高校から東京大学法学部を経て官僚になっているのだが、おそらく父には、純子の症状などは、勉強から逃げたいといった怠けものにしか映らないであろうと正美は判断した。

 しかしながら、こうしたときには、家族の理解がもっとも大切であることを、同級生とのつらい死別のあと、精神衛生のパンフレット程度のものを、正美が読んで知っていたおかげで、純子にとってはその後まで続く救済策の開始点となったのである。


 その夜の話に戻るが、正美からの「純子、とりあえず休みなさいよ。お母さんには私が何とか言っておくから」という声に、純子は初めて救いを聞いた気がした。

 神仏など存在しないとまで言い切る純子であり、幼少時代に父母に甘えた経験の記憶も薄かった純子だっただけに、いまは正美を頼るしかないと信じた。

 それほど、この数日間は孤独にさいなまれていたのだと、改めて気づいたのであった。


 一方、正美にとっての問題は、父の長期間の出張が多いために、家庭内は母が主に取り仕切っていたのだから、とりあえず母にどうやってわからせるかであった。


 その後、自室に戻って母親への説明の仕方を考えた。

 日本は近年自殺大国と言われてきた。

 そして、その原因が公開されるようになり、まさしく純子のような症状こそ、自死の大きな原因になっていることが広く分かってきたのだが、それを生々しく母に伝えるべきか・・・。

 3時間もまどろんだであろうか、日の出が早くなった時期とはいえ、まだ夜も明けぬうちに母を起こした。

 ひと眠りしてすっきりした正美は、母のさくらに数時間前の純子との会話をそのまま説明した。

「やっぱり・・・、あの子はそんな症状だったの。あなたたちが幼いころ、私も仕事があった日には、風邪くらいだったら熱があっても一人で家において、自分たちだけで、病院に行かせたこともあったわね。だから純子は自分で治すしかないと、思いこんでいるのかもしれない。いまさら、気が付くなんて母親失格だわ。どうしてもっと愛してあげられなかったのかしら。

 それに、仕事人間として勝ち残ってきたようなお父さんにはすぐには理解してもらえないでしょうね。夕べ、純子はひとみちゃんちに行くといっていたから、お相手には、よろしくということでメールを送ったのよ。そしたら純子は最近学校を休んでいてひとみちゃんも理由はわからないっていうことを聞いていたの」

 正美は母がすんなりと理解してくれたことにはほっとしたが、問題はこれからだった。


 まさに思春期の女子でもあり、最悪のケースも想定しつつ、病気の根治は遠くとも、病と共存していく心構えと、周囲からの理解と援助の体制を作り上げなくてはいけないと決意した。


 さて、この時期となると中学3年生にとっては多少の病気があろうとも、進学や就職の準備を怠るわけにはいかない。

 とりあえず『英明中』の卒業だけはさせて、なんとか高校に入れることが当面の課題であった。

 その3週間の欠席のあとも、純子の欠席日数は増えていった。

 しかしながら、中学校の場合には、高等学校とは違って、その年度の欠席日数が多かったとしても、保護者が希望すれば、進級や卒業が可能であることを、正美は以前から知っていた。

 もちろん、近くの中学に電話して確かめるという周到さもあった。

 と、なると、高校入試のための5教科の学力を補っていけばよいのだが、気持ちの上での無理は絶対に禁物であり、そうでなくても夜中に刃物でも持ちだすような心配があった。

 さて、5教科の学力と言っても、本来の学校教育的な学力ではなく、所詮は、受験の合否ラインを突破する知識と技術に過ぎないのだと正美は以前から思っていた。

 第一希望校の「清南高校」の合否ラインは、高めに予想しても75%、これを超えればよいわけである。

 純子の場合、得意な英語・国語で点数を稼いで、理・社で合格予想集団の平均をとり、欠席のために遅れがちで苦手な数学は、総合点の足を引っ張らないように、という方針で過去問中心の対策をとった。

 数学については、中学時代から得意だった正美が受け持った。最後に出題されがちな、立体図形に三平方の定理が絡んでくるような複雑な問題は捨てることにしたが、それまでの問題では、つまらないミスをしないようにと、特に計算練習の特訓は毎日怠らなかった。もっとも、純子が、数学の制限時間内で、最後の問題までたどり着けることは、まずなかっただろうけれど。

 理科と社会などは読解力があり、こまめな努力ができる純子にとっては、教科書と参考書に戻れば十分だった。

  英語はイギリスに留学経験のあるさくらが指導したので、中学教師の拙い発音などとは、比べものにはならないくらいほど上等なものだった。試験後の、純子の感触では英語は満点だったそうだ。そんな家族ぐるみの作戦が功を奏して、純子は清南高校にまんまと滑り込めたのであった。


『第三章、 高校に入学して』

 入学後も、不眠の症状は不安定であり、ときおり、大脳自体を締め付けられるような、あの激痛が襲ってきた。

 医師からは「気持ちを楽に持つように」と勧めてくれてはいるものの、純子はそういうことでは治りそうもない病気だと、いつも思っていた。

 同様に、そういった症状の人に対しても、「リラックスしましょう」とか「些細なことは忘れましょう」とかアドバイスしても、効果などあるはずがない、とも。


  特に『強迫(きょうはく)症状』を持つ患者に対して、「割り切るしかないですよ」などという精神科医もいたが、それができれば、薬もいらないはずだ。もっとも、そんな医師が処方する薬だって『気休め』にしか思えないこともあった。

 この『強迫症状』というのは、例えば、家を出るときに、ガスの元栓は閉めたかな、とか、裏口のカギは閉めたかな、などと気になって、再度室内に戻るようなことが、1度ならず何回も襲ってくるような症状であり、もし周囲から見られれば、不思議な繰り返しの行動と思われるような症状である。

 他の例としては、タクシードライバーが、運転中に「今、人を轢いたのではないか」など気になってしかたなくなるような症状もあるそうだ。


 さて、純子は、心身がけだるくて、学校を休んだ日には、終日、なにもできずベッドにあおむけになってボンヤリとしているだけだった。

 たまたま、民放の番組を観ていたときのことだ。

 うつ病で生活保護を受けている渡辺という男性が、自分の事業を発展させたくて相談に来ていた。その番組は、そういった事業家を援助する番組だったのだ。

 その渡辺が「週のほとんどは寝ていることが多くて、週末に2日ほど、何とか取引先と連絡を取っているような有様です」と述べたときだ。

 番組の出演者の一人で、織田信長のような顔つきの医師が、信長でさえ、そこまできつくは言わないだろうという口調で「俺だって、毎日寝ていたいよ」と、渡辺を馬鹿にするように突き放していたシーンがあった。

 純子は「渡辺さんは、怠け者だから寝ているわけではない」と、怒りが込み上げてきた。

 まさに、自分の経験から「グーグーと寝ているのではなくて、起き上がる気力がないのですよ。むしろ、ぐっすり眠れたならば、どんなに楽になれるだろうに」と、そのDr.信長に進言したかった。


 9月のある日のこと。残暑は厳しく、教室でも、室温が36℃近くに上がった日、純子は授業中に具合が悪くなったために保健室に移動した。

 養護教諭の田崎からは「加藤さん、ベッドで休んで回復したら、冷房がよく効いている隣の図書室で休むのもよいかもしれませんね」と提案してくれた。

 この養教の田崎は、近年、話題になっている青年期の心の疾患についても、よく研修を受けていて、この日の純子に対しても、周囲の生徒から遠ざけて、一人にさせる方が良いかもしれないと、判断したのだった。

 もちろん、家庭に電話を入れることも忘れなかった。


 さて、次の時間も、純子が一人で図書室にいたときだった。体育の教師の辻井が入ってきた。辻井は、いわゆる根性論・体罰主義の体育会系高校の出身だった。以前は、指導していたバスケットボール部の生徒を殴ったことを自慢していたくらいだった。


 辻井が、「おい、お前!学校に来てまで、さぼっているのか。一人だけエアコンにあたって気持ちいいだろうな」と言い、純子の首筋を掴んで、他の教室の生徒から見えるように、「お前たち、教室って暑いよな」と言いながら、廊下を引き回したのだった。

 この日、純子は怖くて抵抗できないというよりも、それすらおっくうな気分だった。また、母たちにも言わないでいた。

  そんなわけで、辻井の悪行は、管理職に気づかれることはなかったようにも思えるが、暴力指導の噂が付きまとっている教員が出世できることはずはない。辻井は、退職後に再任用されることもなく、教育センターの事務員のパートを最後に引退したと聞いたことがあった。


  純子は、十数年後、謝罪を求めて彼の家に電話をすると「そんなこと、俺は絶対にやっていない」と、すでに70歳に近い辻井は言い切った。純子にとっては、まったく残念なことだったが、辻井は、もうそんなに記憶力が落ちているのかなと、自分自身に納得させるしかなかった。

  しかし、一方で、教育委員会や、私立高校担当の学事課に「うつ症状の生徒に対して、こんな暴力が、もうないように」と訴えたおかげで、教育委員会では、『教員監督上の最重点事項』となり、管轄下の全小中学校や高校に通達され、教員への研修会でも、ハラスメントの禁止や、飲酒運転の禁止などともに、厳重に周知させる機会も増えたそうだ。


『第四章・純子と祐一との出会い』

 純子が自殺未遂をおかした一学年のスキー教室のあと、純子は断続的な欠席に入った頃だ、純子とおなじ美術部に属していた祐一は、ゆくゆくは原子炉を設計するエンジニアを夢見て、本人なりには深夜まで勉強をしていた工学部志望の一人であった。


 この祐一と純子の出会いは、この高校に入学して同じクラスになったことからだった。

 二人は、ともに幼いころから図画は好きだった。

 祐一は特に努力することもなく教育委員会主催の「図工・美術展」くらいには入選するような少年だったのだが、自分には特別な画才があるなどと感じたこともなかった。一方、一般の教科でもまじめに取り組むタイプだった。

 あくまでこれは祐一の勝手な想像なのだが、純子もそんな小学校・中学時代であったのだろうし、美術だけでなく一般科目も抜群の成績であって、高校受験など人生の関門にすらならなかったのだろうと。

 そんなことから、純子も、道内では、もっとも古い進学校の清南高校に籍をおくことになったのではないか、というのが祐一のイメージであった。

 実は、祐一は中学2年生の時の初恋相手の麗子に、自分の気持ちを言い出せずにいたままであり、その麗子も同じ清南高校に入っていたのだが、中三のときの彼女とのショッキングなエピソードから逃れられることができないままだった。

 その記憶は、中学3年生の3学期から、突然、開催されることになった「マラソン大会」のことからだった。

 これは、年間予定にはない行事であったが、おそらく、その年で最後となる橘田校長が、戦前の文部省からの「一校につき、運動する行事を一つ持て」という方針を回顧でもしたかのように、『走るに勝る鍛錬なし』とでもいうことからだろう、いわゆる「定年前の置き土産」のような新規行事であったのだ。

 まさに受験シーズンでの実施であり、特に中学3年の担任たちは、職員会議などで反対したに違いないが、ワンマンな橘田校長によって押し切られたようなのである。

  このことを、年内の10月に聞かされた祐一は「これはチャンスかもしれない」と思いついた。

 それは、祐一の受験への成績は抜群であり、担任からも「どこを受けても大丈夫です」というお墨付きをもらっていた上に、一方、周囲の男子たちは、当然ながら、運動などする余裕もなく勉強に取り組んでいた時期だから、マラソンの練習をして上位に入れば麗子の気を惹くことができるのではないかと思ったのだった。

 目標は第3学年の男子250人のうち、10番以内。それくらい頑張れば、麗子に話しかけるきっかけが作れるだろうと。

 それからは、放課後、あるいは、夕食後、近くの小学校のグランドや、川沿いの照明もないサイクリングロードを毎晩走った。後に思うと、膝や腰などを痛めなかったことが不思議なくらいだった。

  マラソンの練習をしているときには、尊敬していた昭和時代の瀬古選手のように眉間にしわを寄せて真剣に走っていたところ、庭先から見ていた瀬古世代のおばあちゃんに苦笑されたことがあったそうだ。


 さて、結果は、なんと11位・・・。


 祐一は「どうして、僕にはスポーツ運がないんだろう」と嘆いたものの、中学時代に美術部しかやってこなかった自分としては、上々の記録だったわけだし、なんとか麗子に伝えようと考えた。

 中三のときには、純子とは違うクラスだったので、全校掃除の放課後の時間、階段の踊り場にあるモップなどを洗うための水道場で、思い切って「僕、このあいだのマラソン大会で11番だったんだけど」と、1年ぶりに麗子に話しかけた。

 すると、麗子からの返答は、掃除用具がぶつかる音や水の音にかき消されて、はっきりとは聞こえなかったのだが、祐一をせせら笑うかのような表情で「〇番だったら、褒めてあげたのに」と、一言だけを放った。おそらく「1番だったら」とでも言ったのだろう。


 実は、この麗子もこの高校に進学していたのだったが、それすら気づかないくらいくらい、祐一の心の中には、彼女の存在はあるような、ないような、ぼんやりとしたものだった。


 そんなわけで祐一は、女生徒に対しては、だれとどうということもない、ライトグレーな高校生活をはじめていたのである。


 一方、高校での授業のレベルは高く、進度も速かった。また、数学の立川などは「僕は、諸君がわかりにくいように教えているのだよ」などと平気で言い放ち、「梵字」を勉強しているなどと言う昭和の化石のような老教師も残っていた。

 祐一は、そんな受験向きではない教師の授業にはかまわずに、数学であれば数研出版の参考書で勉強を続けていた。

 そんなわけで、学力の不安こそなかったが、勉強だけの高校生活はつまらなくなっていたころだった。

 祐一のクラスには、目のぱっちりとした小柄ながらはきはきとものを言う女生徒がいて、彼女は美術部に所属していることを知った。

 それが純子であり、彼女の存在によって「この高校にも美術部があるのか」ということを意識するようになったのであった。

 純子の女性的な魅力に惹かれたわけではなかったのだが、自分も高校時代になにか集中することが欲しいという気持ちから、夏休みが終わるころの金曜日の午後、今どきバラックのような部室の、軋んだ(きしんだ)音を立てるドアをたたくことになったのである。

 進学校の美術部では、よくあることだが「豊かな創造活動を目指す」などということには、あまり重きを置くことはなく、東京芸大や武蔵野美術大学をはじめとした美術系大学への、進学強化のための課外コースといった役割を担わざるを得なかった。そして、この高校でも美大への教育に熱心だった須田が、最近まで、長年美術部を指導していた。

 しかしながら、祐一たちの頃の美術教師であった浜本は、前任者のように、放課後に部室まで下りてきて指導をすることはほとんどなかった。

 前年、そんなことに不満を抱いた生徒の一人で、今は都内で芸大浪人をしている吉岡は、当時の3年生たちと美術準備室に乗り込んで「もっと部室で指導してください」とガチ談判をしたらしいが、浜本が言うには「選択科目の時間にも指導しているのだからそれで十分だ」ということだった。


 祐一は中学時代から「木炭デッサン」の経験がかなりあったので、高校では中途入部とはいえ、高校入学時から始めた連中とくらべても遜色のない腕だったのである。

 そんなことから、美大志望ではない祐一にとっては、この部活動は、可もなく不可もないのんびりとしたパステルイエローな時間だったのである。

 9月の学園祭の準備が始まるころ、珍しく4階の美術室から部室まで下りて来た浜本に、部室の裏で喫煙していたところを見つかった部員がいたのだが、浜本からは「俺の前では吸うなよ」の一言だったらしい。

 このことは純子から聞いたのだが、「きっと、生徒指導主事の先生が、浜本先生に、いい加減、注意に行くように、とでもいったのよ」と、どこ吹く風という口ぶりだった。


 彼女のデッサンの道具箱にはライターが入っていたことを、祐一は知っていた。

 そのライターはドラゴンのレリーフが彫られた鈍いブロンズ色で、ガスを補填しながら使う重厚なタイプだった。

 薄暗い美術室での制作中にも、祐一が隣の純子の道具箱を気にしていることに、何事にも敏感な純子が気づかないはずはなかった。

「祐一君、あなたもタバコくらい吸うの」

「学校ではやばいだろう」と強がりを言った。

 純子はそんなことは百もお見通しではあったが、

「これはね。同級生だった岡田君の親戚のお姉さんのお土産なのよ」

 部室内の生徒たちが聞き耳を立てていることなどおかまいなく、自慢げに話してくれたことがあった。

「ところで祐一君の銘柄はなに? 何ミリなの?」

 祐一はとっさに

「いろいろ試したけど今は85ミリくらいだよ」

 文系女子を意識した理系男子ぶって「ミリメートル」で返答したものの、これにはデッサンに集中していた全員が目を合わせて笑いをこらえるのに必死であった。

 次の純子の「あら、祐一君って超キツイのやっているのね」には、全員大爆笑だった。


 以前、祐一は「鈴木」という戦場カメラマンのニュースを聞いたことがあった。

  その鈴木が岡田の従妹にあたるのだが、彼女は地元の公立大学時代からの活動家で、当時は反原発闘争の学生リーダーだった。

 大学中退後、大手新聞社の勤務を経て、紛争地のイランに渡り、爆撃を受けた街中の風景を撮影し、都内のギャラリーで発表していたことは祐一も地方紙で知っていた。

 鈴木さんはきっと荒れ果てた町の露天商から、このドラゴンのライターを手に入れて、帰国後に従弟に与えたものの、岡田に所有権があったのは一時期であって、エキゾチックな事物には目がない純子にすぐに奪い取られてしまったのではないだろうかと、祐一は想像していた。


 純子は祐一に、「紛争の絶えない国の空爆の下で、子どもや老人や障がいをお持ちの方々がどんなに苦しんでいるのだろうかと、このライターを手にするたびに考えてしまうのよ」と話してくれたこともあった。

 純子は、そんなことにもよく思い入れをして考え込むタイプの女生徒であった。


 部員たちがそんな話をやりとりする場所は、部室の一隅のカーテンで仕切られたコーナーであった。

 ときには女子でも男子でも更衣室代わりにも使ってはいたのだが、どこから持ち込んだのかミニテーブルとソファーがあり、部員たちがとりとめもない雑談をするには格好の隠れ家のような場所だった。

 純子はさっきのような話のあと、その「雑談コーナー」に一人で3時間以上もこもっていることがよくあった。

 そういった窮状にある人々への、純子の感情移入は尋常なものではなかったのである。


 このコーナーの存在についてあとから考えると、顧問の浜本の中には、1970年代に流行ったあるフォークソングの歌詞の中で、恋人たちが喫茶店の片隅に潜むようにして、反戦活動家の曲に傾注していた場面への追憶があったのではないだろうか。

 また浜本は、『生徒たちが、芸術論議の真似事でもできるような場所があるべきだ』と思っていたのではなかったかと。

 後年のことになるが、祐一が、(あるじ)をなくした浜本のアトリエを訪ねたとき、彼の妻の結乃(ゆの)から、浜本は『芸術家の卵の聖域』とでもいうべき美術部の部室には、意識して出向かないようにしていたのだと聞いた。


  さて、この高校では、数学や理科の期末テストは、マークシート試験を意識して作られていて、「ア」「イ」「ウ」「エ」からの四択式問題だった。

  そして、純子の苦手な『物理基礎』のテストのときには、左隣の席の祐一が、自分の机の右隅に、解答済の答案用紙をおいてくれていたので、純子は視線を少し左にずらすだけで、すぐに写しとれたのである。

 試験監督が、数学の立川だったときなどは、最近、入手したスマートフォンの使い方に苦戦しているのか、険しい表情で端末をいじっているだけで、生徒の方などはまったく見てはいなかったという”好条件”もあった。

 純子は、祐一に頼るだけでなく、自分でもペンケースの内側に、公式などを書きこんでおいていたのだが、いかんせん、どの問題でどのように使うのかが、理解出来ていなかった。

  また、どの高校でもそうだろうけれども、満点である100点のうち、30点以上を取らないと赤点となり、その後、補習や追試験などで単位が取得できればよいのだが、場合によっては進級すら不可となることもある。

  純子が、特に苦手だった化学は、そのころは、祐一もたいして得意ではなかったので、自力で切り抜けるしかなかった。

 二人とも、絵の具の材料くらいであれば、「シルバーホワイト」には「鉛白(えんぱく)」が使われ、「ジンクホワイト」は「亜鉛華(あえんか)」が主材料であることくらいは、美術部の部室にある「絵画材料辞典」から知っていたくらいだった。


 あるときの『化学基礎』の試験でも、四択で答える問題が20問あり、各配点は5点、つまり、6問以上を正解しないと赤点になってしまう。

  純子が考えたことは「ア」「イ」「ウ」「エ」の4個の選択肢が、適当に正解に割り振られているとして、例えば、全問「ウ」と答えておけば、20問のうちの「4分の1」である5問が正解となり、25点は取れるはずだ、ということを実際にやってみた。

  この『解き方』をすると、考えることもないし、計算をすることもないのだから、早々に解き終わって暇そうにしている純子の姿を、試験監督だった細田先生が首をかしげながら、チラチラと見ている視線は感じていた。

  さて、純子は、危機状態になったときのほうが、より強運を発揮できるタイプであり、この『化学基礎』では、なんと7問を見事に『正解』して35点が取れた。

 しかしながら、テスト後の最初の化学の授業では、いつも苦虫を噛み潰したような表情をしている森本先生が、さらに苦虫を飲み込んだような表情で、遠視用の眼鏡のフレーム越しに、純子をじろりと見ながら答案を返してくださった。

 

  念のために書いておくと、この『化学基礎』では、純子はカンニングをしていない。

 そんなわけで、純子の胸中は、こんな手法で30点くらいはとれるという出題方法に欠陥があるのだと、罪悪感などは皆無であった。

 ただ、このときは「ウ」だけを選んでいたので、化学の教師に睨まれただけだったのだ。

 しかし、あらためて『期待値』を使って考えてみると、

 全20問における正解の選択肢が、まったくランダムに散りばめられていた場合、

 解答者側も、全20問において「無作為に」4個の選択肢から選んだ場合でも、

 一つの小問では「(5点)×(1/4)=1.25点」が期待できるので、

 全20問では「(1.25点)×(20問)=25点」は取れるということになる。

 しかし、これは運が悪ければ全問不正解もあり得るという「ギャンブル解法」なのだが、受験生ならば、まったく歯が立たない問題では、なんらかの記号を適当に選んでおくに違いない。

 もっとも、国家事業として『大学入試センター』が実施する試験などでは、そういったギャンブル運では、正解が困難なように巧妙に作られている。

 また、中学や高校の「確率」の授業では、サイコロ博打やカードゲームなどのギャンブルをまったく連想させないように教えることも難しいことだろう。それは「確率論」の始まりが、それらなのだから。


 一方、祐一には、隣が純子でなくても、カンニングの視線を感じたときには、「ハイどうぞ」と、記入済の解答用紙を、その生徒の方にずらしてあげるという妙な親切心があった。

 以前、選択授業で、苦手な世界史でも、その”親切”をしたために、隣の席の生徒だけが単位を落としてしまい、その生徒が授業担当者に縋りついていた光景もあった。きっと、その生徒は平常点のほうも芳しくなかったのだろう。


『第五章、純子の絵の師匠』

 美大進学希望の部員たちにとって、毎年秋の大目標は、HKテレビ主催の「全道教育美術展」であった。この展覧会への応募は学校ごとに取りまとめられて出品され「道立中央美術館」ですべての作品が展示される。

 この公募展は、出品を希望すれば、だれもが応募できるのではなく、各学年につき5名までの出品枠しかなく、加えて「学校長の推薦」が条件だった。

 もっとも、こういった選考は校長が行うのではなくて、美術教師単独か、せいぜい学年主任らが立ち会う程度の「校内選考」であったろう。

 しかしながら、美大をめざす美術部員たちにとっては、学校長の推薦をもらうこと自体が第一関門であり、その後の本展で「文部科学大臣賞」「教育長賞」「HKテレビ会長賞」などのビックタイトルに選ばれるとことは、美大進学にむけて大きな自信を持てることでもあった。

 大げさにいえば「道内の美術学生の美大への登竜門」というべきものだった。

 そんなわけで、生来のんびり屋で、趣味のお絵かきの延長のように入部した祐一などとは違って、3年生の玉川や橋本たちの制作中の後ろ姿からは殺気立ったものすら感じられた。


 彼らは、道内の美大志望生の大多数と同じく、駅の北口の「武田美術研究所」に毎週通い、さらに夏休みなどには都内・中央線沿いの「美大予備校」でデッサンや油彩画の実力に磨きをかけていた。

 しかしながら、これらの画塾で学ぶことは、所詮「美大入試」を乗り越えるだけの訓練でしか過ぎなかった。

 木炭デッサンでは、明暗の階調(グラデーション)や立体感、油彩では構図の取り方や、色価(バルール)といった、基本中の基本を習得することであって、独自の『創作活動』などとは言えないものだった。

 純子はそういった既成路線のような画塾に通う生徒を毛嫌いするタイプであり、よく言えば彼女独自の強い芸術のベクトルを持っていた。

 純子が指導を受けるために選んだ場所は、県内の大きな美術団体の役員ではあったが、中央画壇では一会員程度だった千原という画家のアトリエだった。


 千原はまだ30代であったが、以前、ある道立高校の美術教師だったころに、道内の美術教育界を牛耳る須田たちの派閥に嫌気がさし、「自己都合」という名目で退職をしていたのである。


 千原家の収入は、妻の妃奈(ひな)が美容師の資格を持っていて、パートタイム的にでもあっても勤めていたことと、千原自身も「四季彩会(しきさいかい)」という、主に大人向けの絵画教室を指導していたので、妻と二人で娘一人を養うくらいの収入はあったのである。

 千原は、十分すぎる写実的な技量もあったが、『前衛芸術』も取り込んで、自分らしい『心象風景(しんしょうふうけい)』の作風を創り上げようとしていた。そんな点に純子は惹かれたのであった。

 千原の空いている時間には、彼のアトリエで、自作への評価をしてもらい、いろいろな話を聞かせてもらうことができた。

  千原からは、

「加藤さん、まず、遠近法をしっかり学ぶことですよ」

「自分なりの構図法を一つでも持ちなさい」

「デッサンの勉強にやり過ぎということはないよ」といった、造形の基本から指導が始まっていた。

 他にも、

「青と黄色を混ぜると緑になるってことは、小学生でも知っているよね。けれども、セルリアンブルーとレモンイエローを混ぜたときには、若々しい緑ができるけれど、同じ青と黄色の混色でも、ウルトラマリンブルーとカドミウムイエローを混ぜたときには、鈍い緑になることは知っている?」などといった絵画材料に関する知識も与えてくれたのである。


 ある日、純子から、

「先生、自分の作風って、どうすれば完成できるんですか」と壮大な質問を投げかけたときだ。

「純子さん、もう昔の歌だし、その歌い手も他界しちゃったけれど『もしもピアノが弾けたなら』という曲を知っている? 相手に伝えたいことは、深くてたくさんあるのだけど、その手段を持っていないということを歌っているんだよ。

 逆に、もし、今の純子さんに東京藝大にトップで入れるようなデッサン力や、古今東西の芸術の歴史や作品についての知識、絵画の材料や技法などについての知識などの全てがあったとしましょう。そこで『では、あなたは何を表現したいのですか』と聞かれたら、どうします」

「は?あぁ・・・・」

 千原は続けて、

「確かに、若いころは自分の感性で作品を作れることもあるようだよ。もしかしたら、それを才能と呼ぶのかもしれないね。それも素晴らしいことだけど、私は、ある程度の芸術体験と人生経験がないと、いくら技術や知識があったとしても、自分らしい作品は創造できないように思うんだ。

 私は、高校美術界の派閥のような教師たちを嫌って退職しました。そしてその時、『あぁ、自分はこういう性格なんだ』と気づいたことも、自分を理解する機会だったし、また、今のサークルを立ち上げる道中では、いろいろな勉強もしたし、いろいろな立場の人とお話や相談をしましたよ。特に借金と生徒さん集めのことだね。

 そんな経験を通じて、感じたり、判断したりして、歩いてきたことが自分の創作活動を、まるで通奏低音のように支えてくれていて、キャンバスの下からにじみ出てきているように思えることもあるんだよ。

 妻の妃奈(ひな)も、今は、雇われているスタイリストとして順調に見えるかもしれないけど、以前は自分でも美容院を持っていたこともあったんだ。

 不動産屋が勧めるままに、居抜きのテナントのローン契約をして、店舗をオープンさせたんだけど、順調だったのは、『オープンキャンペーン』のあった半年くらいの間だけで、だんだんとお客さんが離れていったんだ。

 もともと、その近辺には、ライバル店や、最近では珍しくなくなった1、000円カットなどの店も多かったしね。特に、妃奈の店は交通量の多い生活道路に面していて、しかも、狭い駐車場は店舗の前だったので、道路からの出入りのときの切り替えしが不便だったことも失敗の原因だった。

 そのうえ、まさに泣き面に蜂で、妻が、信頼してスタイリストにまで育て上げようとしていたアシスタントが、店の金を持ち逃げしてしまってね。

 人生って、真面目に生きようとしていても大変なものだよ。

 よく、”人生、三つの坂あり、上り坂、下り坂、まさか”、っていうでしょう。だから、純子さんも、中学時代から、病気になったり、いろいろな苦労をしたりしたようだけど、いつか、それらの経験が、純子さん自身も、純子さんの作品も、強く大きく成長させてくれるはずだと、一緒に信じようよ」


『第六章 大地震の発生』

  2年生の終わりの、金曜日の放課後のことである。

 最後の期末テストが終わって、部室の美術部員たちも、文字通り羽根を伸ばしていた時間帯だった。

 その時、大きな揺れが美術部の部室を襲った。そしてそれぞれの携帯端末からは緊急警報が鳴り響いた。「これは尋常な揺れではない」と部員たちは気づいた。

 端末のニュースによると東北地方の東海岸を中心にして大地震が起きたのだった。

 この市内でさえこの揺れだ、震源に近い街は、どれほどだったのかと想像すらできかった。

 校内に残っていた生徒たちは、集会用のホールに集められた。

 その日は、期末試験の最終日であり、午後の授業はなかったので、集まったのは一部の部活の生徒だけであり、50名ほどだった。

 天上から吊り下げられた大型テレビに被災地の上空からの映像が映った。

 教師たちも、ホールに集まってきたところで、塚越教頭から

「みなさん、まず、落ちつきましょう。教員たちが、校内をパトロールしていますが、ここに来ていない生徒がいたら教えてください。幸い破損個所は見られませんし、水道も使えます。給湯室のボイラーも緊急停止しておりますし、火災の心配もありません。

 防災センターからの確かな情報によりますと、地下鉄も速度を落として運行しているようです。幹線道路では樹木などの倒壊や、大きな路面損傷などはないようです。ただ、地盤が柔らかい地域は危険なようですから、今後の情報を聴き逃さないようにしてください。

 みなさんは、ご自宅と連絡を取れますか。取れない方は、各担任が連絡を取りますので、前の方に移動してください。また、帰宅の際は、できるだけ同じ地域の人と複数で帰ってください。帰るときにはホールの出口の名簿に氏名を書いていってください」といった説明や指示があった。

 すると、練習中のグランドから来たのであろう、野球部の主将の(たかし)が立ち上がって、

「教頭先生、僕たち野球部は、練習が遅くなったときのために、五つの帰宅グループがあります。今日もそのグループで帰っていいですか。それと、よければ他の人も入ってください」と提案した。

 教頭が土屋校長の方に顔を向けると、校長の唇は「さすが庄志監督」と動いたようであり、土屋は、さらに隣の生徒指導主事と防災主任に確認をして、塚越教頭に指示を伝えた。

「それは頼もしいね。では、各班に一人ずつ教員を配置しますが、お一人だけ、大木先生は、お年寄りなので、君たちが守ってあげてくださいね」

 それを聞いたキャプテンが

「ご安心ください。ちょうどいい筋トレ代わりに、おんぶしていきますよ」と力強く言うと、このやり取りにはホール全体からの大爆笑を誘ったが、大木先生はパイプ椅子に座ったまま、白い無精ひげをヒクヒクさせているばかりであった。

 後から聞くと、このときの大木先生は「俺の(うち)まで頼むぞ」と、ぽそっと呟いていたそうだ。

 塚越教頭は、庄志監督が指導する野球部では、陰湿な上下関係などはなく、むしろ、温かい結束があることを知っていたこともあり、こんなときこそ、機転を利かせたユーモアで生徒たちの心を掌握できたのだろう。


『第七章 被災地を知った純子』

 その地震の、最大の被災地では、多数の死者や行方不明者が出たことが、週末の報道で全国に広まっていた。さらに数日後には、その全容が分かるようになった。

 特に、原子力発電所は大きな被害を受け、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展したことから、祐一は、目に見えない放射能の恐ろしさをあらためて痛感した。今まで抱いていた原子力技術者へ進路希望を考え直さざるを得なくなった。

 もっとも、学級担任にしてみれば、祐一が難関学部で落とされてくるよりは、教員採用試験にでも”つぶし”がきく、ごく普通の理学部などを勧めたかったのだ。

 一方、純子は、その性格から、何とか援助したいと痛感し、周囲の女生徒に相談を始めていた。不思議なことに、自ら興味を持って活動することについては、それを引き留めるような精神的な症状は表れなかった。

 

 また、被災地からは、こんな尊くも悲しいニュースがあった。

 まもなくその地域に大津波が予想されるという頃、海岸沿いの小さな町役場の職員だった真澄は、漁村の中を、スピーカーを載せた軽ワゴン車を低速で走らせて避難を呼びかけていた。

「大津波が襲来します。龍神山方面に避難してください」

「海岸には、絶対に、近づかないでください」

 真澄は高卒でこの町役場の職員となり、よく声が通ることから「防災危機管理課」に配属されていた。

 彼女の日常の放送の大概は「迷子老人の捜索へのご協力」だったが、小さい町でもあり、半日もかからずに、無事保護されていたものだった。

 また、町民からは、真澄が地元の高校のソフトボール部で活躍していたことからも人気があり、真澄の放送が流れると、狭い段々畑で働く人たちも「おっ、真澄ちゃんだな」とよく聴いてくれていたそうだ。

 真澄の、高校時代の進路希望は医療大学に進み「看護師」になることだったのだが、早めに家計を助けたいという気持ちの方が勝り、町役場の職員を選んでいた。

 その日の巡回コースの中には、町の中心からは離れていて、海岸に面している成田地区を残していた。この地域からは、登る傾斜はキツイにしても、すぐ裏の龍神山の中腹に、階段で避難できることを真澄は知っていた。

 そんな時、役場から、真澄の携帯端末に、

「真澄さん、引き返しなさい! もうすぐ津波が到着するぞ」という切迫した命令がきた。

「まだ成田地区を残しています」

「そっちはもうかまうな。テレビでもラジオでも避難指示が出ているんだから大丈夫だと思うしかない」

「いえ、お年寄りたちが、速やかに避難行動を開始しているかが心配なんです」

「君が津波にのまれたら、どうするんだ!」

「私はこの町の職員です。すべての住民の避難を確認するまでは帰れません」


 その後、真澄からの声は戻らず、返信があったとしても、受け取れる職員は皆無であった。


『第八章 純子たちの活動』

  二年生の三学期が終り、三年生になりたての春休みの期間だった。

 町役場の職員のニュースを聞いて以来、純子は、部室の奥にこもり、自分と同世代の若い女性が、自分の危険を返りみず、地域の人のために任務を全うしようとした事実に、言葉に表せないほど、胸を打たれた。

 純子は、真澄の意思を胸に秘め『自分も、何かをやらなくてはいけないのだ』という、静かながらも固い決意をした。

 また、同じ日本でありながら、こんな被災地がある一方で、『私たちは、絵なんか描いていていいんだろうか』と、自分自身に問いかけていた。

 また、町民のために、最後まで生き抜いた職員のことを追想すると、簡単に死ぬことを考えていた自分が情けなくなった。しかしながら、あのときの自分は、周囲のことなど考えられない症状だったのだとも、改めて振り返っていたのだ。


 千原のアトリエで、純子は尋ねた。

「先生、芸術家って、自分の衝動を絵にしなくちゃいけないんですよね」

「うん、そういう衝動を素直に伝えていけばいいんだよ。身の回りの出来事に鈍感だったり、感じたことを作品にしなかったりしているようであれば、その人の感性は衰えていくのみだと、私は思っている。 

 それと、例えば・・・、戦争の惨たらしさを伝えるために、銃撃にあって血だらけの兵士の姿を写しとることは写真家たちの仕事だろうけれど、絵画表現となると、そういった悲しみや悲惨さを、オブラートに包むように芸術に昇華させることの方が、多くの人々の共感を呼ぶのかもしれないよ」

「じゃあ、私、震災の様子を描けるかしら」

「実は、私も、絵筆を持つものとして、あのときことを残さねばならないと思っているんだ。

 下絵くらいは、何枚も描いているんだけどね。私には津波の光景や恐ろしさが実感できない上に、その光景を描けたとしても、被害に遭われた方々に辛い記憶を蘇らせるだけだろうから、どんな表現がいいかと試行錯誤するばかりだよ。アトリエの隅にある、あの30号のキャンバスたちがそうなんだけどね」

「私! 被災地に取材に行きたいです」

「う~ん、危険を伴うことだし、復興のお邪魔になったらいけないから、積極的には勧められないけれどね」

「だったら、先生が連れて行ってください」

「あのね、純子さんって、どうして、いきなりそうなるの。女子高校生と、花の万年青年が、一緒に遠出なんか出来るわけがないだろう。今じゃ、男性側も世間から疑われないようにしないとね。

 ”瓜田(かでん)(くつ)()れず、李下(りか)(かんむり)(ただ)さず”、っていう故事を知っているよね

「どういう意味ですか」

「これはね、瓜の畑に入ったりすると、靴の紐がほどけたときに、屈んでしまうと、瓜を盗んでいるような疑いを掛けられる。同じように、李の木の下で、帽子を直すと、李を盗んでいるように思われるから、疑われるようなことは、やってはいけないという教えですよ」

「あっ、それって、群馬県の市長さんに言ってあげればいいんじゃないですか」

「いやいや、ほかの県のことは、ともかく、今は、この故事の後に、”女子高生と席を同じゅうせず”、って続くんだよ」

「じゃあ、私のように、とっても可愛いLJKを一人で震災地に行かせるんですか?」

「まったく、もう、キミは弁が立つよ」

「ところで、LJKのLってなに」

「3年生だから、ラストJKのことですよ」

「へぇ~」

「じゃ、先生と私と、祐一ってどうかしら」

「なんで、今度は祐一君が出てくるの?」

「先生が私に妙なことをしないように、祐一に見張らせるの」

「ちょっと、いきなり私を不審人物にするなよな。だったら、キミと祐一君で行けばいいじゃないか」

「えっ、そんなことしたら、今度は、祐一と私の間柄を疑われるでしょ」

「なら、もう、ご家族とか、女友達とかとしかないでしょうに」

「う~ん、探してみます」


 純子は、部室に戻りカーテンの奥で、祐一と真貴子に、千原との話を紹介した。

 真貴子が「いいんじゃない。お二人って、いい仲に見えるし」

 純子「誤解しないでよ。祐一は、数学と物理のテストのときの、私の補助員でしかないの」

 祐一「僕はもてるタイプじゃないけれど、僕だって相手を選びたいよ」

 真貴子「被災地に乗り込んで取材したいなんて、純子って、ホントに、直情直行型の性格よね」

 純子「それで、何がいけないの。なんだか私、今までのうつ症状が晴れていくような気分なの」

 祐一「自分の性格を変えるっていうことは、純子さんが数学で満点を取るよりも大事業だな」

 純子「あら、失礼ね」

 真貴子「純子の直情直行型は直せないけど、それを実現させるプランを作ればいいのよ」

 祐一「そりゃそうだ」


 そんなとき、真貴子と同じように、春から秋までは陸上部で走っているけれども、暇なときには美術部に遊びに来ている直美が入ってきた。

 カーテンの外側で話を聞いていた直美が言うには、

「だったら、学生ボランティアとして現地に入って、自分の目で見たり、休憩時間に簡単なスケッチをしたりしてくるっていいかもよ」

「学生ボランティア?」

「そうよ。”たんぽぽSVセンター”って、知ってる?、Sはstudent、 Vはvolunteer。ネットで検索してね」

 祐一「でも、自分だけ絵を描いていることなんかできるの?」

 直美「だからぁ、休憩時間とか、昼間の光景を覚えておいて、夜、宿泊所でメモ的に描くしかないわよ。被災地に入れないよりはいいでしょ」

 純子「そんな手があったんだ」

 直美「それに、不規則正しい生活の芸術家には無縁でしょうけれど、運動部みたいに早起きして活動したっていいじゃないの。もちろん救援活動こそ最優先だし、SVセンターからの注意書きのように、被災者さんたちへの言葉かけだって、気安く、”頑張ってください”なんて、言えないみたい。

 それに、自分がケガをしたり、病気になったりすれば本末転倒だから、雪山登山に行くくらいの自己責任の覚悟で出発してね」

 純子「大丈夫よ、私、去年、死に損なっているから」

 真貴子は声を張り上げて、

「ジュンコ!その言い方って、被災地ではぜえっ~たいにヤバいよ」


 純子はハッとして、激しい後悔の念が沸き起こり、顔色も一瞬で変わっていった。

 つい先日、真澄さんのニュースを聞いたばかりだったのに。


 直美は「純子ちゃんも、反省することがあるんだね」

 しかしながら、純子の症状をよくわかっている祐一は、

「でもまあ、スキー教室のときのように大騒ぎしたことを、今では、他人事のように客観的に笑い飛ばせるって、純子さんの心の病気は、わりと回復したんじゃない」

 真貴子が「そういえば、そうよねぇ。それよりも、また、ボランティアで学校を休んでも大丈夫?」

 これには直美が「何言っているのよ。純子ちゃんなんか、欠席慣れしてるでしょ」

 祐一「あぁあぁあ、真実っていうのは言わないほうが、よりよい人間関係を保てるかも・・・」

 直美は笑いながら「ごめんなさいね。冗談よ。土日を絡めて、他の日は”ボランティア休み”を申請すればいいと思うわ」

 3人は、普段はおとなしくて目立たないものの、実は、沈着冷静で聡明な直美に改めて感心した。


 さて、実際に「たんぽぽSVセンター」に問い合わせてみると、『学生ボランティアの受付は、自治体や一般のボランティアによる救援活動が落ち着いたころから開始します』ということで、まだ、学生ボランティアを募集する目途は立っていなかった。

 ちなみに、センターが学生に期待していたことは、「即戦力的な活動」ではなくて、被災地の様子や、ボランティア活動の大切さを、母校の学生たちや、周囲の人々に伝えて欲しいということだったのだから。


 そんなことから、まず募金活動をしようということになった。

 純子が「生徒総会で全校に呼び掛けようよ」と切り出した。

 祐一「それはいい。ただ、クラス単位での提案でないと、議題に乗せてもらえないけど」

 純子「私のクラスからでいいでしょ」

 真貴子「ダメよ。今年の純子のクラスには、あの麗子がいるじゃない。きっと、細案を提出しろとか、募金先の確かなことを示せとか、いろいろとうるさいことを言ってくるはず。麗子って人を不幸にする偏差値だけは70越えなのよ。祐一君だって、酷い目にあったんでしょ」

 純子「じゃ、どうすればいいの」

 真貴子「大丈夫よ。わたしと直美のクラスから提案すればいいだけよ。私のクラスの委員長の小川君とは仲がいいから話しやすいし、生徒会議長の玉木君は、直美に興味があるようだから、平安風美少女の直美が、玉木に近距離から『お願いっ」って、言ったら、麗子が出しそうな反対意見も、うまくあしらってくれるんじゃないかな。だから、すぐに募金活動の議事案を作ってね」

 祐一「あれ、玉木君って、麗子と付き合っていたんじゃない」

 真貴子「今は終わっているわ。玉木なんか『私よりも偏差値が低い浮気男は不要』、とか言われたあげくに振られちゃって、かなり根に持っているようなのよ」

 祐一「なるほどね・・・、そうなると、募金活動の提案はうまくいきそうだ」

 最後に、直美が話を締めて「そうそう『男子とハサミは使いよう』なのよねぇ」


 このとき、純子と祐一は、”美術部よりも、陸上部のほうが頭がいいんだ”、と信じざるをえなかった。

  ここで、真貴子と直美のエピソードについて話すと、二人は中学生時代には、別々の陸上競技部で、短距離・中距離のライバル関係にあったが、全国大会などでは、リレーメンバーとして同じチームメイトだった。

 そして、今は、同じ高校のなかでのライバルでもあり、同じリレーのメンバーでもある。

 直美が今も悔しがっているレースは、中学三年生最後の「800m決勝」のことだ。

 直美が終盤まで先頭で走っていたのだが、最終コーナーの直前までぴたりと追走してきていた真貴子に、直美が1コースの中であっても、やや2コースよりに膨らんだとき、その一瞬のスキを突かれて、直美の左内側から真貴子に抜き去られたことであった。

  もし、真貴子が直美の右から抜こうとしたら、直美が右肘を横に振ってブロックしていたかもしれない。

「陸上の格闘技」とも言われるこの「800m競争」での、真貴子の「イン抜き」は、いまや中学校陸上界では伝説のレースになっている。


  ちなみに、このように、最後まで追従する走法といえば、 かつて、早大・SB食品に所属した瀬古利彦選手が有名だろう。

  福岡国際マラソンなどで、恩師・中村清監督から授けられた作戦により、ゴールのある陸上競技場のトラックまでは、一流企業の兄弟選手や黒人選手にひたすら追従し、最後のコーナーから、天性のスパート能力によって、初めて先頭にたってゴールするというシーンは、競技場内やTVの前の日本人にとっては、『水戸黄門』のラストシーンのように痛快であり、大いに沸き立ったものだった。

  しかしながら、そんな手法で抜かれた選手のほうは、たまったものではないということを、みなさんはお分かりだろうか。つまり、直美のなかでは、中学時代のあの悔しさは、いまだに拭い去れないでいるのである。

  瀬古選手の当時は、その表情から『走る修行僧』とも言われた瀬古選手だったが、今では『増田明美さんのオヤジ版』とまで、好評価を得るほどおしゃべりも流暢になり、ふくよかな笑顔で、スポーツ系番組を駆け続けている。これからは、選手育成でも、中村監督の教えを生かして、ますます成果を上げてくることだろう。

 

 さて、生徒総会当日、純子たちの『校内での震災募金・案』は無事に可決された。もっとも、生徒会の予算を使う活動でもなかったし、『被災者の救援』という、いわば『錦の御旗』を掲げていたのだから、反対する側が批難されやすい議題でもあった。

 そして、すぐに『募金箱作り』にとりかかった。

 そうとなると、小学生の頃からの工作のプロフェッショナルだったような美術部員たちであるから、ユニークな募金箱が20個近く出来上がってきた。中にはデザインに凝り過ぎて、コインを入れる「口」を開け忘れた『募金箱』もできてしまった。

 岡本太郎風に言えば『お金を拒否する募金箱』となろうか。

 

 いよいよ 募金活動が始まった。

 校内での活動場所は、昼は食堂の前、下校時は生徒玄関だった。

 始まってから3日ほど経った昼休みのことである。

 渡り廊下の方から「大変だ、大変だ」という声が聞こえ、真貴子と直美が、渡り廊下から直角に曲がって、本館の廊下に入り、純子たちがいる食堂に向かう直線コースの『廊下を走るな』という掲示の前を、猛スピードで走ってきた。

 直美が、その直線コースのセンターライン上に位置を取り、真貴子はその左側を並走していたときだ。

 突然、直美が左に幅寄せをすると、真貴子の前には、花瓶が乗った学習机が迫ってきたので、やむを得ずスピードを緩めて、直美の後ろにつかざるをえなかった。

 直美が、先に到着して「勝った!」と叫ぶと、

 真貴子「この、卑きょう者!」

 直美「作戦勝ちよ。真貴子は足で走るけど、私は頭で走るの」

 隣りにいたブラバンの千鶴が、

「直美ちゃんって、中学時代のリベンジをしたのね」

 こんな風に、走ることについては、二人は、今もライバル同士だった。


  そこにいた、やはり陸上部で砲丸投げの「希美(のぞみ)」が、「『廊下を走るな』って貼ってあったでしょ」

 直美「学校の規則っていうのはね、普通の法律と違って、どれだけ破れば、どれほど怒られるかって、細かくは決められていないから、一応、誰かが破ってみるべきなのよ」

 祐一「妙な理屈だよなぁ・・・、で、なにが大変なの」

 直美「あっ、そうだった。実は、嫌らしいうわさが広まったのよ」

 真貴子「どこからかわからないけれど、この募金活動は、自分たちの推薦入試の好材料にするつもりだとか、募金は美術部の活動費になるとかっていううわさなの」

 純子「きっと、出所は麗子よ。どうして、私がやることって光が差さないのかしら」

 希美「何言っているの。純子には『ひかり』は差さなくても、『のぞみ』がいるじゃない」

 みんなから「のぞみはある!」と『こだま』のように返ってきたが、道内ではシャレにも車両にもならない。

 そこへ、いまや『JK策士』とまで、言われるようになった直美が、

「う~んとね。『出る杭は打たれるけれど、出過ぎた杭は打たれない』で、行きましょう」

「何のこと?」

 直美「募金活動を、もっともっと強化して、もっともっと広めるの。まず、校長先生に話して権威付けをしてから、職員会議に出してもらって学校全体の活動にしちゃうの。当然、募金箱は、職員室にも置いてもらって、学校の周囲にもお願いするんだけど、コンビニには、もうありそうだから、自分たちの塾とか、スポーツ用品店とか、画材店、楽器店、ファミレス、カラオケハウス、とかよ」

 純子「私が、募金の代表として校長先生に掛け合うわ」

 真貴子「それは、ちょっとヤバいんじゃないの」

 純子「なんで?」

 真貴子「純ちゃんは、昔からいろいろあったでしょ。校長先生も、多少警戒しているんじゃないかしら」

 直美「こういう事務的で形式的なことは、やっぱり祐一君が適任よ」

 純子「じゃあ、職員室は」

 真貴子「直美と希美だね」

 祐一「なぜ、この二人」

 真貴子「お嬢さま系女子や、ぽっちゃり系女子は、ホントにもう、おやじ受けするのよ」

 祐一には、言いたいこともあったが、『触らぬ女神(めがみ)にたたりなし』とつぶやいた。

 その日のうちに、祐一は校長室を訪ねた。

 土屋校長は「おぅ、キミか。よくやってくれてるね。ホントは、ここの教職員も、なんらかのアクションを起こさなくてはいけないと思っていたんだよ。

 まあ、ここだけの話だが、校長から、手当の発生しない活動などを職員に提案すると、『上司からの圧力だ』などと言ってくる教員もいるんでね、わたしは控えているしかなかったんだ。

 でも、今、生徒側からの依頼があったわけだから私も動けますよ。この話の出所は生徒会からだけど、職員には「安道会(あんどかい)」という親睦会があって、私が形式的な名誉会長だから、親睦会の幹事に頼んでおきますよ」

 祐一「校長先生、ありがとうございます。あと、・・・ちょっと相談してもいいですか」

 土屋「もちろん、いまは、ちょうど暇なんだ」

 祐一「実は、ぼくたちの活動のことを、自分の推薦入学のためだろうとか、美術部の予算にするんだろう、とかいうウワサを立てられているんです」

 土屋「まあまあ、君たちの俗語だったら『あるある』ってことだな。つまり、人が何かの活動をしようすると、必ずって言っていいほど、だれかが批判してくるものでしょ。しかも、自分とは無関係なことなのに。逆にだ、例えば、政治家が何もしなければ、『なにもしない』ということで、批判が起こることもある」

 祐一「そう言われれば、そうですね」

 土屋「次が肝心なのだけどね。人からの自分への批評は、その人のものであって、自分のものではないんだよ。

 もう一つ、誤解されやすい諺として『情けは人の為ならず』って、聞いたことはあるよね。これは、人のためにやっていたことが、まわりまわって自分を助けてくれることになりますよ、という意味が正しい」

 祐一「『情けは人の為ならず』って、そうだったんですね」

 土屋「君たちは、こういった活動を通して、教室ではできない勉強をぜひやってください。明日の職員朝礼で、募金のことは全職員に伝えておくから、祐一君たちもがんばって!」


 次は、直美と希美が、職員室の塚越教頭を訪ねた。

「おお、おふたりさん。生徒総会でのことは聞いていますよ」

 直美「先生、職員室のなかで募金活動をしてもいいですか」

 教頭「うん、そういう活動は素晴らしいのですよ。ただ、先生たちの机の上は、みなさんの個人情報ばかりなんでね、この中を回られると困るんだけど、わたし机の横に募金箱を置いたらどうかな。

 わたしが離席するときには、事務室の金庫に入れておくし、毎日、下校時刻になったら、キミたちが受け取りに来てよ。あと、明後日の16日は給料日だから、先生たちの財布の紐も緩むはずだと期待しましょう。わたしも1枚だけど・・」と、すぐに募金をしてくれた。


 真貴子は、彼女のクラスメートでブラバンの千鶴と、学校周辺のショップや学習塾を回って、募金活動をした。

 ある店からは

「募金だって? そういった依頼を1回でも許すと、他からも来て困るから、うちはダメだよ」といわれたこともあった。

 千鶴の通っている「蒼天(そうてん)(じゅく)」の滑川(なめかわ)塾長からは

「千鶴さんたち頑張っているね。私たちも、なにかしたかったんですよ。けれども、こういった募金活動ですら詐欺のような団体があってね。でも、岩田学園さんの活動だったら安心だ」

「塾長先生、ありがとうございます」

「いやいや、みなさんのご家庭からは、高いお月謝をいただいているからね」

 真貴子と千鶴は、こういった活動への反応っていろいろなんだなと知った。


 一週間後、この塾からは、外部からは初めてとなる募金額を千鶴にゆだねてくれた。

 実は、滑川塾長は、即日、ご家庭への『メールだより』を使って、保護者にも呼びかけていてくれていたのだった。


 募金活動は、2週間目に入ったのだが、昼休みの食堂の前には純子の姿はなかった。

 純子には、その朝、また大脳を締め付けるような痛みが襲ってきていた。

 そのことを知っていた麗子が、募金活動の食堂前に現れて、

「あら、純子さんって、学校を休んでも、お金を集めさせているね」と、

 食券を買う生徒たちの雑踏の中であっても、周囲に聞こえるように大きな声で真由美に話しかけた。

 その真由美も嫌らしい笑いを見せていた。

 これには、祐一や真貴子たちはムッとした。

 しかしながら、祐一は、土屋校長から「周囲からの悪口は相手にするな。むしろ、言い返したほうが悪い印象を持たれてしまうぞ」と諭されていたことを伝えていた。


 すると、その日から参加していた軽音サークルの(ゆう)()が、よく通る声で

「みなさ~~ん、募金に協力を頂いている「蒼天塾」からの、プチPRをさせていただきます。

 この塾からは、すでに一万円近いご寄付を頂いています。

 この塾では、ただ今、新規生徒募集キャンペーン実施中です。

 他の塾から乗り換える生徒さんの入学料は免除、しかも、今の塾との間に違約金が発生すれば、それも蒼天塾が負担します。

 通常コースの受講生であれば、都内の駒場ブースにいる現役東大生に、小さい塾では絶対に対応できない「理系数学」や「基礎ではない理科」や「地歴公民」などの解法指導や学習相談を、なんと60分2,750円で受けられます。詳しくは、”塾選びネット”をご覧ください。

 なお、このPRは、募金をもらっている関係で致し方ないギブアンドテイクのPRでした。お許しくださ~~い」

 真貴子「ちょっと、優虎の宣伝は、校内ではダークグレーだったかも・・・」

 しかし、直美は「さすが、優虎君ね」

 直美は続けて「真貴子さあ、麗子の家が家族経営の塾だって知っていた」

 真貴子「?」

 直美「麗子の家は、昔はお父さんとお母さんがやっていた、(おも)に小学生・中学生対象の「相生学習塾」っていう塾だったんだけど、今は、お年寄りのお母さんが一人でやっていて、生徒は増えないし、特に大学入試には対応できていないのよ」

 祐一「多分、麗子さんのお母さんからだろうけど、去年、新聞に匿名の投書があったよ。『当時の子たちが、立派に成人してくれて、いろいろな場所で活躍していると思うとうれしい限りです。今は、娘にも手伝ってもらっています』といったことだけど、絶対に麗子さんの塾だよ」

 真貴子「なるほどね。でも、自分の娘の人間教育だけは、失敗したってことだわ」

 祐一「優虎君は、全国規模の『蒼天塾』の経営戦略を知っていて、市内周辺の弱小塾潰しに協力したってことかな。『日輪(にちりん)(じゅく)』でも、同じようなキャンペーンをやっているから、大手塾の連携作戦みたいなものだよね。

 直美「でも、優虎君のホントの狙いは、麗子の口封じだったんでしょ。このまま図に乗っていると、こっちからは、いつでも口コミで叩いてやるってことまで暗示したんだから、麗子にしたら、精神面で、痛烈な打撃を受けたでしょうね」

 優虎「”麗子先生”の教え方はねぇ。野球部の(きゅう)()の弟から聞いたことけど、麗子自身が、小中学校時代優等生だったからさ、自分では分かっているけれど、生徒への教え方は分からないっていうタイプなんだ。例えば、三角形の合同の証明問題でも、『丸暗記しろっ』て、厳しく言うだけみたいなんだよ」

 隣りでスマホで検索をしていた希美が「『塾選びネット』なんか、出てこないわよ」

 優虎「出てきたら不思議だよ。今、僕が思いついただけだから」

 希美「??」

 優虎「麗子はスマホなんか持っていないだろ。勉強の邪魔にならないように、親に買ってもらえなかったんだ。だから、すぐには検索もできないし、逆に、どこかの端末で検索しても『すぐには見られなかった』というほうが、心理的には圧力がかかってこない?」

 祐一「その程度で十分だよ。麗子さんには、塾の家の子ならば一番できるずだっていう、自分から自分への圧力や、親からの過剰な期待があったと思うんだよね。だけど、今は、偏差値55くらいでパッとしないわけだから、内心いらいらして、誰かを攻撃したくなっているんじゃないのかな。みんな、どう思う」

 希美「そうよね・・・。だれだって、エピソードはあるものなのよ」

 直美「純子ちゃんは、みんなから心配してもらえるから、まだ、いい方かもね。麗子さんのように、誰からも気づいてもらえない圧迫感を持った人へのケアって、もっと難しいかも」

 祐一「ところで、東大生が60分、たかだか2,750円で教えてくれるの?」

 千鶴「バイトの東大生は、より優秀な学生を選んだうえで、時給5、000円くらいは出しているようよ。その部分は赤字だけれども、新規塾生集めの目玉授業でしょうね」

 祐一「今は少子化だし、特徴を持たない小規模塾は辛いんなあ」


 次の日、純子が登校してきたところで、今回の会計係で、放送部の裕子が今の募金金額を報告した。

 内訳は、

 職員親睦会からは「赤い羽根共同募金」に協力するときと同じで「5,000円」

 職員室からは「9,850円」

 外部の塾や店舗からは「12,450円」

 生徒からは「2,359円+1ペソ」、「ペソ硬貨」の出どころは不明だったが、

 今のところ、合計、約3万円。

 目標は「10万円」だったから、まだまだだし、生徒からの募金金額を、より伸ばしたかった。


 そこへ、真貴子が「美術部ってさ、学園祭のときに、『七宝焼き(しっぽうやき)』を販売していたじゃない。あれって、保護者にも受けていたよね」

 希美「そうそう、お金をもらうだけじゃなくて、自分たちも稼がなきゃ」

 直美「今の募金額の一部を材料費に投資して、その七宝焼きの売り上げの全部を募金に当てたら」

 純子「なるほどね」

 祐一「あの七宝焼きは、作る方も楽しいんだよ」

 純子「じゃ、今日の放課後、3時半に美術室で会いましょう」


 この「七宝焼き」とは、「金・銀・真珠・瑠璃(るり)・・」など、七つの宝物のように美しいことからつけられた名前である。今日、美術部で作ろうとしている七宝焼きは、例えば、ブローチであれば、楕円形の銅板の上に、ガラス質の釉薬を載せて、専用の電気炉で800℃、あるいは、900℃で焼成する工芸である。

 技法としては、

 ・単純に一色のガラス質の釉薬を盛って焼く手法。

 ・その釉薬の上に「フリット」というガラスの小粒を載せて焼く手法。

 ・釉薬が溶け始めるころに、先端が90度に曲がった細い金属棒で、釉薬面をかき混ぜてマーブル模様を作る手法。

 ・例えば、一度目は、白い不透明釉薬を乗せて800℃で焼き、その上に、ブルーの透明釉薬をかけて、今度は900℃で焼くと、下にあった白い釉薬が、まるで窯変天目のように、白い斑点になって浮き上がってくる「噴釉七宝(ふんゆうしっぽう)」と呼ばれる技法などがある。

 焼成時間は、数十秒程度であるが、少しでも取り出すタイミングが遅れると、釉薬は、緩いマグマのようになって流れ落ちてしまう。

 その時は、銅板ごと水のなかに付けると、焼けたガラスは粉々になって、銅板から離れ落ちてくれるから、その銅板を磨き直せば再利用ができる。

 生徒たち、とくに女生徒には人気の工芸であり、今回も、材料費さえ出せば、自分のためのブローチなども作ってもよいとしたので、みな、どんな授業よりも真剣に集中して作業を始めていた。


 ブローチの他、子ども用にアンパンマンなどが描ける円盤タイプのバッジ、ネクタイピンなど、その土台となる金属部品もセットされているので、銅板部分を取り出して、釉薬を乗せていけばよいのである。


 さて、数十秒間で焼くタイミングを掴むには、なんどか練習をして、失敗も経験しておかなくてはならない。

 今回、その焼成役は祐一が受け持っていて、すでに数点の試作品を焼いて、コツを掴んでいた。電気炉の中に入れた作品の釉薬が熱せられて赤くなり、炉内の色と同じ色になったときが、取り出すタイミングである。さらに、先ほどの技法の組み合わせもマスターできていた。


 作業は滞りなく進み、美術部の他の生徒たちも参加してくれたおかげで、初めの2~3日で、50個近くは仕上がってきていた。

 その一方で、電気炉が1台では焼成工程が遅れ気味になってきたころだった。

 祐一が「もう一台、電気炉があるといいんだけどな」と純子に聞くと

「これ一台しかないのよ」

「電気炉って、内側のニクロム線が重要な部品なんだけど、連続使用によって劣化することも心配なんだ」

「劣化って?」

「七宝焼きの場合、その都度扉を開けるから、次に800℃や900℃に上げていくにも、時間がかかってくるような気がする」

「そうよね。それに、焼成係がもう一人いたほうが、もっとたくさんできるわよね」

「この電気炉って、いいものは15万円くらいするんだけど、美術科の備品で購入してもらえないかな」

「じゃあ、わたしが浜本先生に頼んでみる」と、純子はすぐに隣りの準備室で、たばこをくわえながら、絵筆をもっている浜本に聞いた。

「そうか。隣で見ていたけど、普段の授業でも、あんなに食いつくような態度を見せてもらいたいものだな」と笑った。

「ところで、君たちの活動の名前はあるのかい」

 純子は「そういえば・・・。みんなに聞いてみます」


 作業中の美術室に戻って、みんなに投げかけると、

「復興を願うのだから、不死鳥!フェニックスだね」

「それいいけど、ありがちじゃない」

「じゃ、ご当地ということで、フェニックス・ファイターズ」

「う~~ん、プロ野球じゃないのよね」

「Fってさ、関数F(x)みたいなのは避けたいけど、フレンドのFっていいじゃない。トモダチ作戦もあったし」

「友達かぁ、被災地には、同じ高校生もいるんだよな。アメリカ軍がトモダチ作戦を展開してくれたんだから、こちらは「フレンズ」とか「チーム・フレンズ」とか、さっぱりと名付けてもいいよな」


 そこへ、ヤニ臭い空気に続いて、浜本が入ってきた。

「活動の名前って、その中身がすぐに伝わったほうがいいんだよ」

「じゃ、フレンズ募金かな」

「ちょっと待って、同じ名前がないか検索しよう」

「似たような名前はヒットしたけど・・・」

「そのグループからOKがでれば『フレンズ募金』にしようぜ」

 浜本は「いい名前じゃないか。ところで、例えば、1,000円以上募金してくれた人たちに許可をとって、廊下に名前を貼り出したら、協力者も増えるんじゃないかな」

「それは、いいかもですね」

「私も進路指導部のことで、放送部の裕子さんにアナウンスして欲しいことがあるから、ついでに頼んでおくよ」

「えっ、浜本先生って、進路係だったんですか」

「そうだけど、なにか?」

「似合わないっていうか、らしくないっていうか・・・」

「あっ、そっ。保健指導係にでもなったら、たばこも吸えないだろ。それに、みんなは、自分の担任を選べないけれど、教師だって自分の係や受け持つ生徒を選べないんだよ」

「ところで、純子さんは、さっき、何の用事で来たんだい」

「あっ、実は、七宝焼きの電気炉を、もう一台、買って欲しいんですよ」

「そうだな。今の炉は、10年前のだけど、今年度の美術科の予算はすでに決まっているから。まあ、何とかしてみるよ」


 その翌々日だった、4階の美術室にまで、いつもの「成都(せいと)総合画材店」の専務さんが、『デジタル式・自動温度調節器付きの最新型の電気炉』を配達してくださった。

 普段なら、事務室で受け取るべきものなのだが、どうしてまた、直接、4階の美術室にまで搬入してくださったのだろうか。

 その荷物には、焼成時に使う各種の道具や、高価な『釉薬12色セット』も同梱されていた。

 純子は「学校の備品って、こんなに早く届くんですか」

 専務は、一応、手元の端末を確認してから「え~と、電気炉と道具のセットは、浜本先生ご自身からのご注文です。あと、釉薬は母の希美からのサービスです。『フレンズ募金』のみなさん、頑張ってください!」

 最新型の電気炉が、こんなにも早く届き、しかも高額な釉薬までいただけるとは。

 そこにいた生徒たちからは「ありがとうございます」という言葉以外にはなかった。

 目を潤ませていた女生徒もいた。


 これは、浜本が6月のボーナスを見込んで、成都総合画材店には後払いにしてもらい、メーカーには大至急扱いで、発注してもらったとのことだった。


 電気炉が、もう一台が到着したことから、二人目の焼成係は、純子が千鶴を指名した。

 祐一は「始めは10回くらい失敗してもいいよ、それが練習だからね。それよりも、自分が火傷をしないようにしてね」と、懇切丁寧に教えている姿は、周囲からはなんとなく『いい感じ』にみえた。


 実は、以前、純子は、この2人のある光景を見ていたので、千鶴を祐一に近づけたのだった。

 祐一というのは、子どもの頃からの読書量のおかげで、テスト勉強をしなくても、国語だけは高得点を取れるという羨ましいタイプだった。

 1年生の終わりの「校内模擬テストの優秀者発表」のときだ。トップ3に入った自分の名前を見ている祐一を、やや離れた柱の陰から千鶴がじっと見つめていたことを純子は知っていた。

 一方、祐一には、こんな思い出もあった。

 千鶴から「ねぇ祐一君さあ。ブラバンと美術部で、どっちが大変だと思う?」と、中庭のベンチで聞かれたときだ。

 祐一は「そりゃ、ブラバンでしょ。豊平川の河川敷で、夜中までトランペットの練習をしている人もいるじゃないか」

 千鶴は「そうじゃなくって、ブラバンは毎年定期演奏会をやるけど、もし変な音をだしても一瞬で消えるじゃない。でも、美術部の展覧会は、下手な絵を出すと、1週間は飾られるから、ブラバンのほうが楽だと思うの」

 祐一「・・・・・」


 その時の祐一は、千鶴からの淡い気持ちに気づくことはできなかったのだが、成人後、人生の苦難を味わったのち、もし、傍にいてくれるだけでホッとするような千鶴が、自分の伴侶になっていてくれていたらと、後戻りできない学生時代を懐かしむことがあった。


 さて、千鶴はクラリネットを器用にこなす指先をもった奏者であったから、焼成技術は、予想以上に速く上達をした。

 これで焼成体制も強化され、七宝焼きはますます大量に生み出されていった。


 校内での募金額はさほど伸びてはいなかったが、放課後に数回も実施した「七宝焼き販売会」では、「飛ぶように売れる」とは、まさにこのことだった。デザインについても、保護者の方々からリクエストもいただくけるほどになった。

 真貴子が「この売上って、確定申告しなくちゃいけないのかしら」と心配するくらいであり、販売当日には、学校に用事の無い保護者達も来校してくれて、2個、3個と買ってくださった。

 原価「300円~500円」のものが「1,000円~2,000円」で大いに売れたのだから、大成功だったのだ。


 お話は変わるようだが、来年度の大学入試に向けて、この学校から『校長推薦』をしてもらうことを希望する生徒・保護者と、進路指導教員との「三者懇談会」が、各教室で実施される日のことだった。

「ピン・ポン・パン・ポン」のチャイムが響き、裕子の全校放送が始まった。

「保護者の皆様、三者懇談へのご出席、お疲れ様です。懇談会の会場は、本館3階の各生徒さんのホームルームとなっております。教室前の廊下の椅子で、順番にお待ちください。なお、遅れた方がいる場合、あとの方の繰り上げもございます。面接時間は約20分間を予定しております」に続いて、

「もう一点、校長先生をはじめとして、全校の先生方や生徒の皆さんに、御礼のご連絡をいたします。震災の復興を援助する『フレンズ募金』へのご協力、誠にありがとうございます。つきましては、先日から、本館の階段の壁に、ご賛同くださった生徒さんのお名前を、リアルタイムで貼り出しております。引き続きよろしくお願いいたします」

 これが、浜本が裕子に頼んだ放送文だった。

 この放送を、学校長推薦を取りたい保護者たちに聞かせるように、懇談会の当日に流したことで、非常に敏感に、あるいは、大きな誤解をもって反応してくださった保護者様たちが数名いた。

 その方々は、数千円、あるいは万札を寄付してくださり、当然、自分の子どもの名前での寄付だった。

 やはり、浜本先生は『先生』だけあって、直美よりも巧妙な策士であった。


 こうして、純子たちは『フレンズ募金』や「七宝焼き」によって、十数万円を得ることができた。

 純子は、それまでの募金額を、虎の子のように抱えて被災地に向かうことになり、一方、募金自体は、祐一のリードで、さらに広い範囲に向けて続けられていった。


 七宝焼き制作がすべて終わった日のことだ。

 道具類の後片付けや床掃除も終わり、机も椅子も元通りになおした西日の差すガランとした美術室で、純子と祐一は二人きりになった。

 純子「祐一君、私、生きていてよかった」

  「あんなに大勢の人が協力してくれるなんて、思わなかった」

 祐一「よかったよね。生きていて・・・」と、あとの言葉が見つからなかった。

 純子の顔を見たとき、むしろ祐一のほうが涙ぐんだ。

「ほら、」と、純子からティッシュペーパーを箱ごと渡された。

 鼻水をかんだ祐一は

「純子さん、もうすぐ被災地に取材に行くんだよね」

「うん」

「絶対に元気で帰ってくるんだよ。それがみんなのためだから」

「わかった。もう、死なない」


『第九章 純子、被災地に向かう準備、実留との出会い』

 まず、被災地に向かう準備だった。

 実は、浜本は、家族とともに低山などでのミニキャンプを楽しむことが趣味だった。

 そんなわけで、二人の娘である高2の奈々と、中2の実奈に、純子の出発準備を手伝わせることにした。

 純子が知らなければならないことは、宿泊用具や、食事や服装の準備、他にはボランティア保険などのことだった。


 奈々と実奈は、純子をつれて、本格的な登山用品ショップ「ユピテル」の、西山店長に相談にいった。

 西山からは「『フレンズ募金』のことは聞いていますよ。それで、ついに純子さんが被災地に行くんですね。ところで、被災地での、ボランティアさんのための宿泊所の設備によって、自分の装備は大きく違ってくると思いますが、でも、あの状況だったら、すぐ近くには、ボランティアのための施設もないでしょうけれど・・・」

 純子「どういうことですか」

 奈々「つまり、旅館とかがあるか、それともテントやシュラフまで必要かってことよ」

 純子「うん?」

 実奈「昨日、SVセンターの画像を見たら、小学校の校庭みたいな空き地にテント張っているよ」

 西山「テントならば、ここでは5万円くらいからありますけど、高価なものだし、先生のものを借りちゃえば。もし、今後、何回も使うようだったら、その時に買えばいいんじゃないの」

 奈々「いいわよ。パパに頼んでおくし、私たちのシュラフやマットも貸してあげる」

 実奈「食糧だけど、さっきの画像では、ボラの人は持ち込むみたいよ」

 西山「食事ですね。このショップを訪ねてくださったことは、とても嬉しいんですが、被災地ボランティアって、山を登るわけじゃないでしょ。登山家たちは、少しでも軽量化をする方向で、テント選びもするし、レトルト食品一つとっても、軽いものを選ぶんですよ。

 被災地ボランティアさんだったら、う~~ん、どうなのかな。野営地まで、バスや電車で運ぶときだけに、荷物になるだけだから、装備が多少膨らむことは、あまり、考えなくてもいいのかもね。

 それに、山登りだったら『パッキング』の技術は、ホントに重要になりますが、今回も練習しておいた方が、きっと役立つと思いますよ。

 ただ、すべて自己完結するっていう姿勢は、被災地ボランティアも、登山と同じでしょうかね」

 純子「それで、どんな食べ物がいいんですか」

 西山「ここにある『アルファ米』は、いろいろな味があって、非常食としても利用されています。お湯を入れるだけで作れるし、ボリュームもあって、すごく美味しいですよ。

 乾燥スープもお勧めですね。私のお勧めのスープは『柚子胡椒味の卵スープ』ですね。ピリッとして、疲れも忘れますよ。

 ミニボトルの調味料とかがあってもいいかも。おっと、忘れていた、カロリーメイトや、チーズ、インスタントラーメンのほかに、お好みで、塩飴、ドライフルーツ、チョコレート、バナナ、などは、よく登山に持っていきます。

 こちらの棚もご覧ください。少し高いけれど『けんちんうどん』や『ボロネーゼ』は、パッケージからしておいしそうでしょ。ただ、山に行くときは、こんなものでも重さがあるから登山家は持っていきませんが、ボランティアさんは、作業の後の楽しみとしてもいいかなぁ。

 調理器具のバーナーは、できれば新品がいいと思いますし、お持ちでなければ、クッカーとのセット商品をお勧めします。

 テントの張り方も、煮炊きの方法も、絶対に練習してから出発してください。

 あと、ボランティアのための救護所もあるようだけど、ファーストエイドキットくらいは持っていったらいいですよ。

 他には、『ヘルメット』や、目を守る『防塵用ゴーグル』や目薬、作業のときの埃も大敵でしょう。マスクは、『防塵用』でしょうね。ヘッドライトは作業に必要かどうか。他には、携帯電話用の予備電源。作業の手袋は、防水性のものと二重にできるようにして、しかもスペアもね。テント内の照明も必要でしょう。

 そんな風にいろいろあるけれど、奈々ちゃん達にお勧めを選んでもらったら」

 実奈「バックパックも私たちのを貸してあげるよ」


 純子「ところで、どんな服を着ていけばいいんですか」

 西山「こちらの列に、フリースが吊るしてあります。下着になるTシャツは、吸汗速乾性を重視して選んでください。少し高いかもしれないけれど、肌に密着するものだからね。その上のフリース選びだけれど、現地の気温や、作業の状況にもよりますね。そのさらに上着は、作業にもよるだろうけれど、寒さ凌ぎだけだったら、毎年使っている秋冬用のオーバーでもいいんだろうけどね。

 でも、まあ、『作業着』なんだから、山屋に聞くよりも、まず、SVセンターに作業内容を相談したほうがいいですよ。ただ、夜間の冷え込みには油断しないようにね」

 純子が、その店の上着類を見てみると、シンプルな色合いにも関わらず、上品な美しさを兼ね備えたジャケットばかりだった。少々高額ではあったが、被災地での作業よりも、冬の通学用に買えたらいいなと思うくらい気に入ってしまった。

 西山は続けて、「シューズですが、被災地での作業だったら、つま先に鉄板が入っていて足を守ってくれるものがいいでしょう。さっきの『ヘルメット』は、ここでもありますが、『防塵用のゴーグル』や『マスク』も『シューズ』も、やっぱり、作業用品専門のショップがいいですよ。それから、女性同士の奈々ちゃん実奈ちゃんに相談したほうがいいこともあるでしょうね」


 実奈が「まず、日焼け止めよ。お風呂は入れないだろうから、体拭きシートとドライシャンプーがいいわ。それとキッチンペーパーがあると、お水を数滴で、使ったクッカーをふき取れて、使い捨てにできるわよ」


 再度、『たんぽぽSVセンター』の、「よくある質問欄」を読んでみると、道具は、作業に適したものを貸してくれるようだし、ボランティア保険は、現地との往復の事故もカバーしていて数百円で済むようだった。ただ、どんな作業をするのか、ということは、現地に行かないと、わからないようだった。


 さて、テントを張ったり、野外で食事を作ったりする練習は、浜本の自宅の庭ですることになった。

 土曜日の午後、純子は浜本家のリビングで、奈々・実奈と、一般的のものではあったが、テントの張り方のビデオを観ることから始めた。

 実技指導は、奈々が行い、実奈がスマホの動画を一時停止させながら見せた。

 ・地面の石を除き、

 ・グランドシートの上に、テント本体を開き

 ・よくしなる2本のポールを立てて

 ・テントを立ち上げて

 ・テントの四隅をペグで止め

 ・フライシートをかぶせて終る。


 純子「風があると大変そうね」

 奈々「特に、テントの入口を風上に向けないようにね」


 次は、コンロとして使うバーナーの組み立てと点火方法だった。

 鍋を乗せて、とりあえずインスタントラーメンを作ってみた。

 このまま、夜間までテントの中で過ごす予定だったが、浜本の妻の結乃(ゆの)が、鮮魚店からは刺身の盛り合わせを買ってきて、浜本家自慢の豪華ビーフカレーを作り、さらには、いつもの中村酒店にビールとジュースまで配達してもらって、家族で純子をもてなしてくれた。

 浜本とすれば、ソロキャンプの練習とはかけ離れてきたが、冷えたビールもきたことだし、悪くはないなと、純子のための臨時壮行会となった。


 食後は、実奈が純子とテントの中で過ごすことになった。

 今度は、夜間の寒さへの対応体験であった。

 実奈としたら、新しいお姉さんが来てくれたような嬉しさで

「ねぇねぇ、高校受験って大変なの」

「高校の先生は怖くない」

「私も美術部に入れる?」・・・と、矢継ぎ早に聞いてきた。

 純子の方も、妹ができたような気持ちになり、今までとは違う満ち足りた時間だった。


 純子自身、このとき、明らかに自分の心の症状は好転してきていたのだと、あとになって気づいた。

 つまり、周囲からの自分への働きかけを、喜んで受け入れられるようになっていたからだった。


 さて、浜本にとって、自宅の庭とはいえ、二人の少女を見守らないでいることはできず、純子の学年の担当ではないが、同じ進路指導係であり、高校時代の登山部の後輩だった天児(あまこ)先生を呼びつけて、ベランダで将棋を指しながらガラス越しに二人を見守ることにした。

 その時、純子は、被災地ボランティアの経験もある天児から、今回は、登山の立場よりも、やはり、被災地支援がしやすい立場から、装備や服装を見直したほうがよさそうだ、というアドバイスをもらえた。


 さて、その日は、いつもの中村酒店のご主人が、注文を受けたビールだけでなく

「先生、貴重なワインが入りましたよ、生徒さんの出陣式として飲んでください」と、高級ワインを紅白で持ってきてくれていたのだった。

 生徒の出発の会なのに、教員のほうが良い思いをしてよいのかと、思う方もいるだろうが、浜本家では、お酒だけでなく、子どものおやつや、お中元やお歳暮などの発送でも、中村酒店を使っていて、しかも、浜本が職場の宴会の幹事などのときには、中村酒店が納入している居酒屋を必ず使うので、今回は、酒店からの「お気遣い」でもあった。

 それに、ご存じのように教員の宴会の酒量は多いから、余計にお得意様だったのある。


  浜本は天児に向かって「おい、才のない天才児の天児君、こういうルールはどうだ。ワインはお猪口(おちょこ)で少しずつ飲もう、そして、自分の手番のときは飲めないというのはどうかな」

 これは、天児先生に、いつものような長考をさせないための臨時ルールであったのだが、浜本のほうが、地元の高校の先輩になるし、ワインも嫌いではない天児は受けざるを得なかった。


 キャンプ体験中の純子は、浜本家のトイレを借りることになっていた。

 純子が、テントへの戻り際に、対局を観戦したときだ。

 すでに、浜本が、天児を追い詰めている局面であることは純子にもわかった。

 しかしながら、浜本が銀を打った直後から形勢は逆転し、天児先生に白星が付いた。

 天児は純子を振り返って「私の方が詰んでいたでしょ」と聞くと、

 純子は、即座に「はい」と答えて、

 浜本には「先生、あそこでは金を先に打つのよ」

 浜本「あっ、・・・・・そうか。金が先だったのか。後輩相手に詰みを見逃したのは初めてだ」

 天児「先輩、飲み過ぎましたね。よく香車がふらつきませんでしたね」と、ニンマリ笑った。

 浜本と天児は、純子に多少でも棋力があることには驚いたが、浜本は悔しさで、天児は、学生時代からの先輩に勝った喜びで、その時は、もう純子の棋力のことなどは聞かなかった。


 実は、純子は、心の病から逃れたくて、文字通り、暗中模索の中で見つけた、ある『新書』から、自分のような症状を直すには『詰将棋』に集中することが良いと知ったことがあった。

 手元の木の板に、81マスの将棋盤を描き、おもちゃの駒セットを買ってきて、『目指せ八冠・異次元の詰将棋』というテキストにそって、一人で駒を並べていた時期もあった。

 しかしながら、今回は、その成果だったというよりも、純子の観察眼の勝利だった。

  浜本の駒台には『金』と『銀』が一枚ずつあり、浜本の指先は迷っていた。それを、天児がじっと見ていたのだ。つまり、純子は、注目すべき局面で、『銀』でダメだったのだから、『金打ち』が正解だと、半分、はったり気味に言っただけだった、というのが、正しいようだ。


 また、その新書には『超短距離ダッシュ』の勧めもあった。

『超短距離』というくらいだから、たとえば、家から近所との往復のとき、帰り道の直線だけ10mほどの猛ダッシュをするようなことだった。その時は、少なくとも血流が増して、よどんだ気持ちが吹き飛ぶような気がした。もちろん、これを公道で試みようとする皆さんには、交通安全第一でお願いしたい。

 その夜、実奈たちの従妹で、近所の小学生の『実留(みる)』も、テントにやってきていた。

 すでにテント内を仕切っていた実奈は、最近の「ボッチ芸人」のソロキャンプに憧れていて、キャンプで焚火をすることは当然だと思っていたから、3人で焚火を囲むことになった。


 また、実留が持ち込んだ、去年の花火まで楽しむことになった。

 特に「線香花火」はたくさん余っていた。


 純子は、カドミウムレッドの小さな火球がぽとりと落ちるのを見ながら

「線香花火って、夏の終わりのように寂しいものね」とつぶやいた。

 しかし実留は

「おねえちゃん、この花火は、それだけの燃料しかもらっていないよ。でも、最後まで、あんなに輝いて生き切ったの」


 純子は言葉を失った。


 実は、実留の脳には進行性の腫瘍があり、しかも視神経を圧迫し始めていたのだった。開頭する手術も1回だけではなく、何年後かには、命をとるか、最期まで視力を保つか、という決断を迫られることになるのだと、純子はのちに知った。


 夜10時になった頃、運転免許を取ったばかりの正美が純子を迎えに来た。正美は、保育園から幼児を受け取る母親のように、その日の純子の様子をよく聞いて、丁寧に頭を下げて帰っていった。

 正美は、純子と実奈たちとの交流の様子を聞き、純子の症状はだいぶ落ち着いてきたように思えてきて、被災地に送り出す立場としても、ようやく安心できるようになった。

 純子のこのキャンプ体験は、夜は10時まで、次の日の朝は8時からというのが、浜本が、土屋校長から、キャンプ体験の許可を得た時の条件だった。

 これでキャンプ体験の一日目が終わった。


 翌日は、テントの撤収や周囲の片付けの練習だったが、純子は、もう一度テントを張って、また、たたむ練習をした。

 純子にしてみれば、被災地の救援に行く自分が、たかだかテント張りくらいで、周囲の足手まといになってはいけないのだと、責任感もますます高まってきていた。


『第十章 純子 被災地に入る』

 いよいよ、夏休みが近くなったころ、純子は「たんぽぽSVセンター」のチャーターバスで、被災地のボランティア受付センターに向かった。

 その途中、ついに、実際に、惨状が広がる被災地を見渡すときがきた。

 ビルの上に漁船が乗り上げ、広い道路にも路地にも、横転したクルマや家屋の廃材が大量に残っていた。いや、廃材と言っては失礼になるだろう。津波の直前までは、家族が住み、子どもの帰宅を待っていた団らんの溢れる家屋の部材だったのだから。

 被災者らしき人影は見えなかったが、こんな風景から、被災地の方々の絶望感がずしんと伝わってきた。

 今回の、数十人のボランティアたちは、SVセンターの第一陣でもあった。

 まず、順番に受付をして、胸には大きい名札を付けた。

 受付に並ぶボランティアたちの表情は、どこの行列でも見たことのない、悲壮感にも近い真剣そのものの表情だった。

 そして、純子が『フレンズ募金』で集めたお金を『募金受付所』に届けて、サインをして受領書をもらうときだった。その受付の20代らしき女性の胸の名札は、半分裏返っていて、苗字は読めなかったが、「・・ますみ」とだけ目に入った。

 純子は、まさか、とは思ったが、とりあえず、生徒会に届けなくてはならない大切な「募金受領書」をバックにしまうことで、気持ちはいっぱいだった。


 第一日目のその後は、この地でボランティア活動を始められるかどうかという意思確認も兼ねたような健康診断と、センター長からの短いオリエンテーションだった。

 その受付会場である天幕の中には、被災地の写真が細い紐で吊り下げられていた。


 『雪が舞う中を、崩れはてた家屋の上に立ち、手を合わせている黒い袈裟の僧侶』

 『ライトブルーの毛布に身を包み、廃墟のような街を後ろにして、じっと海を見つめる若い女性』

 『亡くなった我が子を、泣き叫びながら抱きかかえている母親』

 この3枚だけでも、震災の惨状を伝えるには十分すぎた。


『第十一章 活動の開始』

  ボランティア活動の初日、純子に与えられた仕事は、数名のグループで、汚泥に浸かった家屋の洗浄をすることだった。

 洗浄といっても、女子高生にできることは、雑巾で壁や家具を拭いたり、汚泥を運び出したりすることくらいだったが、微力ではあっても復興への協力には違いなかった。

 純子の服装は、下着とその上は、登山ショップからのお勧めのものであり、そのさらに上着は、天児からのアドバイスで『動きやすく、防水性のあるもの』にしていた。

 また、指先に鉄板の入ったブーツを履いていったので、安心して作業に集中できた。


 午前中の作業が終わりかけたころ、箸と絵筆しか持ったことのない純子は、だいぶ疲れてきていた。

 そこへ、この周辺の住人だったのだろうか、エプロンをかけた女性二人と、80歳近い老婆が、差し入れだとして「おにぎり」を山のように持ってきてくださった。しかも、温かいお茶と、漬物までついていた。

 学生たちは「えっ、もらっていいんですか。被災地の人たちの食料ではないのですか」と驚いた。

 しかし、女性たちは「大丈夫ですよ。おかげさまで、お米や飲料水は、だいぶ足りてきているんです。それに、ボランティアさんたちこそ、腹が減っては援助もできぬ、でしょ」

 数名のボランティアたちは、口々に「ありがとうございます」と言いながら、手袋をとっただけの手を、次々とおにぎりに伸ばした。まさに、見事な食べっぷりであった。

 そのとき、その老婆が、じぃ~~と純子をみて、

「遠くからきたんじゃろ。ありがとな、ありがとな、ケガしないで帰ってくれよ」と、目を潤ませて話しかけてきた。

「まるで、孫が海から戻ってくれたようだ。あんたの姿を見れただけでもよかったよう、ありがとな」

 その老婆の姿をみて、純子だけでなく、他のボランティアたちも胸を打たれ、おにぎりを口に運ぶ手をとめた。

 そして、学生の誰もが、今回の災害の非情さを、あらためて痛感した。

 純子にも、返す言葉はなかったが『こんな私なのに、来ただけでも、喜ばれることができたんだ』と、生涯、忘れられない出会いになった。

 

 その後、午後1時までは休憩の時間であった。

 SVセンターの見回りの人がスピーカーで

「疲れがある人は、午後はマイペースでよいので、家具などの拭き取り作業をしてください。時には、ストレッチや屈伸運動をしたほうがいいですよ」と呼び掛けて回っていた。


 午後は、3時からの15分間の小休憩を経て、午後4時半には作業を終了した。

 純子は、さすがに疲れはてていたが、自分は被災地のスケッチ来たんだと思うと元気が蘇ってくるところは、さすが生れついての美術部員と言えるだろう。美術部っていうのは、不規則正しい生活から多少の睡眠不足であろうとも、キャンバスに向かって筆を持てば、シャキンとするものなのだ。


 さて、食事は、野営キャンプの楽しみだが、その日の夕食のメニューは、レトルトの「けんちん汁」とコンビニのおにぎりであった。この量でも純子には充分であり、ここでは、実奈や実留から横取りされることもなく、作業の疲れもあったので、今までにはなかった特別に至福の食事時間だった。


 純子が絵を描くために持ち込んでいた道具は、祐一が貸してくれた固形絵の具が入っている折り畳み式パレット、絵筆、水入れ、画用鉛筆、色鉛筆、ミニスケッチブックのほかに、速乾性のアクリル絵の具のほかに、アクリル用のキャンバスボード数枚だった。水は、キャンプ地についたときから、廃棄されている空き缶を拾って、泥水を貯めておいたので、しばらくすると、上水が描画に使えるように澄んでいた。

 キャンバスまで持ってきていたということは、帰宅後の制作の資料にするような『鉛筆画に淡彩』などというスケッチで終わるのではなく、現地で作品化できる準備をしてきていたのだった。


 その夜から、制作は始まった。

 純子の作品は、千原の教えのとおり

『悲しみや悲惨さを、オブラートに包むように芸術に昇華させることの方が、多くの人々の共感を呼ぶのだろう』という方向であり、

 純子の思う

『目に見えるものだけを描いていても、なんになるんだ!』という作品たちだった。


 その夜、初めて仕上がった絵は、こんな作品だった。

 澄んだコバルトブルーの夜空には、色とりどりの星々、それらがまるで小さな雪のように変わって降ってくる。その白い点は、やがて、無数の小さな十字になり、それがだんだんと大きくなってくる。

 時には大小2個の十字が寄り添い、時には4個の十字が群れになっている。

 すでに、十字は十字架の形になって降りてきている。

 いや、もう1個2個という数詞はやめよう。

 光るお一人の御霊(みたま)、お二人の御霊(みたま)、寄り添うのは家族であろうか、母と子であろうか・・・。

 星々が、雪のように変わり、十字架の形の御霊となり、尾形光琳の川のように湾曲する道を通って、暗い地上に降りてくる光景だった。

 いや、御霊が降りてくるのではない、地上で打ちひしがれた御霊たちが、コバルトブルーの夜空に召されていく姿だとみるほうが正しい。

 この絵には「精霊たちの旅立ち」と名付けた。


 現地に来て三日目、作業の二日目になった。

 純子のその日の仕事は、SVセンターのベテランの人と組になって、与えられたエリアを回り、洗浄作業などが必要な家屋に、優先順位をつけて、作業日程を組み立てる仕事に変わった。

 それは、昨日の純子の疲労具合をみて、事務的な仕事のほうがよいだろうと判断されたからだった。純子は、初老の男性の平井さんが判断したことをシートに書いていけばよかった。

 午前10時を回って休憩時間になった。

 平井さんから、「純子さん、昨日の疲れは残っていないかい」と気遣ってくれた。

「あっ、まあまあですよ」

「そうかい、町役場のボランティア対応係の真澄ちゃんが、あんたの疲労具合を考慮して、今日は、私の補助員になってもらったんだ」

 純子は、受付のときに見た『ますみ』という名札を思い出して、再度、はっとした。

「平井さん、もしかして、ますみさんって・・・」

「ああ、こちらでは、もう伝説のようになっている真澄さんだよ」

「どんなことがあったんですか」

「あの子は、津波が来た日、町役場の職員として、成田地区に向かって避難を呼び掛けに行っていたんだ。幸い、成田の人々は、裏山の展望台にまで逃げていたので全員が助かったんだけれど、真澄さんは、乗っていた軽ワゴン車ごと津波に押されて、稲荷神社の境内の大ケヤキにぶち当たったんだよ。

 けれども、軽い脳震盪(のうしんとう)程度で、命は助かったんだ。はしご車が来て、慎重に下ろしてもらったようだよ」

「よかっ・・・・」と、純子は言葉が続かなかった。

 平井は続けて

「実は、その大木というのは、10年くらい前に、落雷があって二つに割かれてしまった大ケヤキで、折れた太い枝が境内の地面につくほどでね。参拝客の通行の邪魔になってきたから、撤去しようという意見もあったんだけど、次の年には、なんと新緑を付けて、夏になると、境内の入口からは、本殿が隠れてしまうほど葉が生い茂ったんだ。

 そこで、これはもう本物の御神木(ごしんぼく)に違いないということで、補強作業の後、神事も執り行って、地域の守り神のように尊ばれていたんだ。

 さらに、その大ケヤキによって、命がけで避難放送を続けた真澄さんが助かったことから『森の女神(めがみ)』とまで、呼ばれるようになったってわけ」

「それで、真澄さんには後遺症とかはないんですか」

「女性のことだから深く知るわけにもいかないが、見た目は元気そうだよ。ただ・・・」

「ただ・・・って?」

「真澄さんのご両親は残念なことになってしまったんだ。誤解を招く言い方かもしれないけれど、ご遺体が見つかっただけでも、今回の津波災害の中では、まだよかったのかもしれない。私の古い仲間もいなくなっちゃってさ」

「でも、真澄さんは、あんなに明るく働いていますよね」

「それは、あの子の使命感の強さだよ。今回の災害では、もっとつらい思いをしている人々がいっぱいいるし、それに、日本中からボランティアの方々が来てくださっているんだから『明るく迎えなきゃ』ってね」

「平井さん、私、その大ケヤキの神社に行きたいです」

「そっか、じゃあ、昼休み返上でもいいかい。私のオフロード車で行って、そこでおにぎりを食べようか」

「よろしくお願いします」

「ヘルメットは持ってきてよ。シートベルトはしっかり締めてね。車ごと転落する可能性もあるから」


 クルマは、海岸沿いの道を通り、坂を上ると、10分ほどで『稲荷神社』の境内についた。

 その道は、真澄が成田地区に避難を呼びかけるために通ったコースでもあった。

 もし、真澄が、町役場からの撤退指示通りに、そのコースを引き返していたならば、海岸線まで下りたわけだから、まともに津波にのまれ、引き潮によって、海中に連れ去られていたかもしれなかった。

 この道路自体は復旧していて、周囲には、すでに新緑が茂っていたが、その先の岸壁には、流された家屋の部材だろうか、壊れた漁船の骨組みだろうか、多数の木材が押し寄せていた。

  『稲荷神社』につくと、純子は、おにぎり2個を飲み込むように昼食を済ませて、すぐにミニスケッチブックと画用鉛筆で、割けた大ケヤキや、周囲の本殿などの下描きをして、色鉛筆でササっと彩色を始めた。

 平井は、純子のおにぎりを食べる速さと、描画の速さに見とれるばかりで、自分の食事も忘れて、ぽかんと口を開けていた。

 純子は、水筒の水を、ごくっと一口飲み干して、

「平井さん描けましたよ」と、たった今できたスケッチ3枚を平井に見せた。

 平井は「おっ、上手だね」と、やはり、ぽかんと口を開けるばかりだった。


 そして、作業現場に返ってくると、ちょうど午後の活動開始時刻だった。

 午後の業務は、平井と純子の息が合ってきたこともあり、ますます順調に進んだ。


  その日の作業が終ると、よく歩いた疲れは残っていたが、終了後には、実奈のお勧めだったウエットシートで、体を拭き、着替えを済ませれば、さっぱりとした。そして、楽しみの夕食だ。

 その夜は郵便局で売っていたレトルトの『北の富士カレー』だった。

 これは袋ごとボイルすればよいタイプではなくて、一度コッヘルに移して温めるものだったので、それをパックから出したご飯に乗せれば、数分で具だくさんの、立派なカレーライスができた。もちろん、福神漬けも忘れてはいなかった。

 片付けは、実奈が勧めてくれたキッチンペーパーに数滴の水を付けて拭き取ればよかった。


 その夜にできた絵は、こんなものだった。

 落雷で割けた大ケヤキからイメージを得た純子は、バーミリオンを基調とした背景をつくった。

 画面の下には、ブルーグレーの大ケヤキが枝を広げているものの、全ての枝は、苦しみに悶えるように曲がりくねって天に伸びている。

 中空には、冷たく光る白い満月が浮いていて、枝たちはそれを捉えようとしていた。

 純子は、この樹で助かった真澄だけでなく、津波の中で苦しんだ人々を想っていたようだった。

 その絵を、一息に描き上げたあと、純子はテントの外に出て、澄んだ夜空を見上げた。

「なんて、きれいだろう」と呟いた。

 しかし、すぐに、今のこの街では、工場から出される煤煙もなくなったし、道路を埋め尽くす自動車からの排煙もなくなったからなのだ、という悲しい理由に気づいた。

 この絵には「龍神山の大ケヤキ」と名付けた。


 そんなとき、まだ午後8時前のことだった。

 昼間の平井と、ボランティア対応係の真澄が、純子のテントにやってきた。

 真澄は「純子さん、今日は、稲荷神社までお参りしてくださったそうね。うれしかったわ」

 平井が「実はね、純子さんの画力には、ホントに感服しているのですよ。そんなわけで、明日は、純子さんにとっては、こちらでの活動の最終日ですが、自由にスケッチをしてもらえませんか」

 真澄「それで、お願いがあるのですが、純子さんの原画を5枚ほど、貸してくださらないでしょうか。家に帰ってから仕上げたものでもいいですよ」

 純子は、突然のことだったので「えっ、わたしの絵を、ですか?」

 真澄が続けて「純子さんの絵をもとにして、5枚セットの絵葉書を作って売り出したいのです。それは、被災地の様子を、写真家ではなくて、画家の心眼で見た風景を、多くの人に見てもらいたいのです。もちろんその収益は被災地の援助に使いますから」とのことだった。

 平井から「よかったら、今夜の絵を見せてくれませんか」と言われ、純子は、たった今、テントの中で、ほぼ完成した、身悶えているような大ケヤキの絵を見せた。

 すると、真澄が「あぁ、私を助けてくださった大ケヤキだわ。この樹も苦しんでいたのね」と、絵の中にストレートに感情移入していることが、はっきりと伝わってきた。


 純子は、この真澄さんは、よくある「絵をビジネスにしていても、絵はみない人たち」とは違って、「絵がわかる人」だと、直感した。


 純子は「明後日は、わたしは帰り支度をするだけですから、描けるのは明日しかありません。それで、午前中は、平井さんのお車で、何か所か回っていただけませんか。描き切れないときには、ペン画だけでもスケッチします。そして、午後は、テントで作品を作らせてください」

 二人は顔を合わせて「もちろん、それでお願いします」

 これで、純子は、いわば『被災地画家』とでもいう待遇を受けることになった。


 活動の三日目になった。

 純子がレトルト食品と缶詰での朝食を済ませ、スケッチセットの点検も終わった頃、平井さんがやってきた。

「純子さん、おはようございます。いよいよだね」

「よろしくお願いします」

「体調で気になることはないかい」

「はい、夕べ、足を揉んでシップを貼ったら、らくちんになりました」

「じゃあ、また、私のクルマで、出来る範囲の被災地巡りをしましょうか。純子さんの描く時間に合わせてクルマを移動させますから、遠慮しないで私に命令してくださいね」


 平井のクルマのところには、すでに真澄の他、何人かのセンターの人が、見送りに来てくれていた。

 純子は「絵描きって、いいな」とちょっと得意げになった。

  そんないい気分もつかの間であり、クルマで巡る先は、さらに純子の胸を押しつぶさんばかりの光景ばかりだった。

 まず、初めに下りたところは、ここに来るときにも見ていたのだが、ビルの上に、後ろ半分だけが乗って、前半分は空中に突き出ている観光船、陸で衝突している3艘の大型船、幹線道路に横たわった漁船、津波の引き潮の際、海まで戻れずに堤防の上に乗ってしまった作業船・・・

 純子は、右手に鉛筆、左手には数本の色鉛筆と、ミニスケッチブックをもって、猛烈な勢いで、その光景を写し始めていた。彩色も施した超連続スケッチだった。

 平田には、いままで感じたことはなかった鬼気迫るオーラが、純子の後ろ姿に見えた。

 そこへ純子から

「平田さん、すいませんが、このあとも、陸に乗り上げている船があったら、写真を撮って、あとでいいので、私の端末に送信しておいてもらえませんか」と、

 文字で文章にすれば『お願いをする文体』であったが、平田は、部隊の上官からの命令のような強さを感じた。

 また、純子の表情が、明らかに変容していることにも驚いた。それは、純子の眼の力が上がっている証拠だった。

 平田は、その後も、通りがかった船だけでなく、純子から指示のあった光景を、純子がスケッチをする、しないに関わらず、立ち位置を変えたり、角度を変えたりして、何度もシャッターを押した。

 その場は15分ほどで終わり、クルマを進めることにした。


 次に、純子がひかれた光景は、崩れかかった家、半分だけを失った家、コンクリートの中の鉄筋が飴の棒のように曲げられて倒壊したビル、辛うじて立ってはいるものの、壁板や窓が津波に奪われた建物などだった。

 純子からの「ここでお願いします」という声の通りに平田はクルマを停めた。 まさに、今日は、平田が純子の補助員だった。


 あるとき、純子は、小さなビニール袋を出して色鉛筆を削った。ビニール袋は微風を受けて揺れるので、ゴミ袋としては扱いにくそうだった。

 平田は「削りカスは地面に落とせばいいですよ」と、気楽に言ったつもりだったのだが、

 純子は「ここでは、多くの人々が尊い命を奪われて、いまだにこの土地の下には、ご遺体が隠れているかもしれないのでしょう。いわば、霊魂の聖域ではないですか」

 平田は、はっとした。

 人を想うことでは敏感過ぎる純子は、

『自分の足元にも、行方不明の方が埋もれているのかしら、いまは適度に荒れている海のかなたにも』と思うと、

『自分は大変なところで絵を描いているんだ』という重責で押しつぶされそうになっていた。

 純子は平田に

「私には、霊と会話できるような能力はないですが、身近な人が亡くなるときには、肩がぐううんと重くなるんです。まるで、その人が私の肩を踏み台にして、天に召されていくように思っています」

 言葉を返せないでいる平田の前で

「わたし、今日の地域に入って、今までに増してそんな重さを感じているんです。だからと言って、私の命が摩耗するとかという不安感はなくて、わたしからは『来てくれたんだね』と送り出してあげるような気持ちを持つようにしているのです」


 平田は、芸術家とは、そういうインスピレーションを持ちながら描いているのかと、自分から見れば孫のような年齢の少女に向かって返す言葉は、やはり見つからなかった。


 平田にとっては、純子から指示された場所に停め、あるいは、純子が指し示す方向にクルマを走らせて、最後には、無事にキャンプ地に純子を戻すことだけに集中することにした。


 昼過ぎ、もう一時近くになっていたが、ふたりはキャンプ地に戻った。

 純子は、平田に丁寧に頭を下げて、すぐに自分のテントに籠っていった。

 平田は、慌てて、純子の分のおにぎりを渡しに行った。


 純子が、その午後から夜間にかけて描いた絵は、こんな光景だった。


  画面の下の穏やかでエメラルドグリーンの海に、金波・銀波のしぶきが見えている。

 海面には、沈みかけた家の屋根が、いくつか見える。

 明るく柔らかいレモンイエローの空には、ベージュ色の大きな太陽が上がっている。

  空には、ところどころ、虹色のパステルトーンも見られて、天上界の音楽も聞こえてくるようだ。 

 白い船が大きな美しい旗を掲げて、太陽の前を誇らしげに横切っていく。

 その船の形は、古代の人々を洪水から救った「ノアの箱舟」のようにも見える。

 太陽には、うっすらと真澄の笑顔が浮かんできているように見えなくはない。


 まさに、純子の、復興への力強いエールを込めた傑作だろう。

 題名は、千鶴たちのブラバンで聴いたことのあるエルガーから「威風堂々」とした。


 その次の絵は、ここでの4枚目になる。

 セルリアンブルーにレモンイエローを少量混ぜて作ったさわやかな天空の下に、大きなピラミッドのような形に、多くの船が積み重なっている。

 漁船もあれば、観光船もある。クレーンを積んだ作業船もある。

 船たちは、いろいろな方向を向いていたが、すべて、そのピラミッドから空に向かって発進しようとする元気のよい船たちの姿だった。

 色とりどりの船たちであり、悲壮感よりも、カーニバルのような華やかさを感じさせる。

 その「ピラミッド」の上空には、クリスマスツリーのてっぺんにつけるような銀色に輝く星が、大きく描かれている。

 その星からは、フレスコ画の絹谷作品のようなカラフルな光が発せられている。

 この船たちの色合いが、鈍くて暗ければ、船の墓場に見えたかもしれないが、純子の願いは、船たちの蘇りだけではなかった。

 この船たちを利用して、生計を立てていた人々、家族と乗って楽しい思い出を作った人々、港の風景として思い出に残っている人々・・・、その人たちが住んでいた港町への懐かしい思い出だ。

 題名は「港の仲間たち」とした。


 最後の一枚は、この日、ふと目に入った人の姿がきっかけだった。

 倒壊した家の玄関があったところだろう、その上り段の前で、女性がうずくまり、顔を伏せて、家の方に向かって手を合わせていた。その後ろから、夫であろうか、男性が彼女の両肩を抱くように慰めていた。

 家の中で亡くなったお子さんのことを供養していたのではないか。

 どうしようもない悲しみの光景だった。


 純子は、まず、被災地の細かい砂を、スプーンの裏を使って、祈るような気持ちで、さらに細かく砕いて、アクリル・メディウムに混ぜて、キャンバス自体にマチエールを作った。

 それが乾くのを待って、イエローオーカーに若干のカドミウムイエロー混ぜて、ペンティングナイフでこってりと塗り込んだ。

 その上に、屈みこんで祈っている一人だけを シルエットのように黒々と描いた。


 題名は「祈る人」とする他にはなかった。


 こんな単純な色の組み合わせであっても、マチエール(絵肌)をしっかりさせて、力強く描けたのは、千原の先生の先生からだった。

 千原が、学生時代に指導を受けた二紀会の先生が、山口大学に赴任した時に、ご薫陶を受けた「香月泰男先生」のことを純子は聞いていた。そして、香月作品を純子が研究していたためであった。

 香月画伯は、終戦後も、シベリアに抑留され、厳寒の中での過酷な強制労働のために、疲れ果てて死んでいった同僚の『死に顔』を描いてあげていたという。

 そんな香月先生の精神が純子にも内在していたのかも知れない。

 また、香月画伯の構図自体からも影響を受けていた。

 画伯の、イエローオーカーの背景の中に、大鋸一枚だけを、大きく黒々と描いた大作が、今回の純子の作品に、もっともインパクトを与えていた。


 これで5枚の絵ができた。

 すぐにでも、平田や真澄に見せたかったのだが、特に5枚目は、まだ絵具が固まっていなかった。

 そこで、まだ午後9時前でもあることだし、二人を呼びに行った。

 平田はすでに帰宅していたが、真澄が、温かいミルクティーをもってすぐに来てくれた。

 真澄は5枚を丁寧に眺めて、

「すごい絵描きさんが、ここに来てくれたったことよね」と最高の評価をしてくれた。

 真澄は「明日、写真家を呼んで、この作品を撮らせてもらっていいかしら。こちらによく取材に来る地元の新聞社だから、明日の、純子さんの出発までには来てくれるかもしれないわ」と、その場で、新聞社に電話をすると、『明日一番で、そちらに向かいます』ということと、撮影機材や照明器具も持ってくるとのことだった。


 純子は『わたしの絵が、印刷されて、広まっていくなんて』

 いままで『一品制作』しかしたことのなかった美術部員にとっては、初めてのうれしい経験だった。

 そして、真澄から「平田さんに聞いたけど、純子さんは私のことを、ホントに心配してくれていたんだって」と話しかけてきた。

 純子「はい、本当によかったですね」

 真澄「純子さんとは、明日でいったんはお別れだけど、また、お友達と来てくださいね」

  「ところで、純子さんは、高校を卒業したら、やっぱり、芸術学部に進むのかしら」

 純子は「あ~~、まだ、なんとも決めていないんです」

  「真澄さんのように、町役場のスタッフとか、安定した仕事も魅力だし」

 真澄「そうね。公務員っていうのは、女性の身分や権利が保障されていて、産休育休の制度もしっかりしているから、やる気のある人にはいいと思うけど・・・」

 純子は、その「思うけど・・」に、真澄の迷いを敏感に感じた。

  「実は、わたし、元々の夢だった看護師になろうと思うの」

  「どこの学校に行くんですか」

  「そうね。この町は大好きだけど、関東に行ってみたいっていう憧れもあるのよ」

  「じゃあ、東京ですか?」

  「ううん、東京は物価が高いから、南に下っても茨城どまりね。東京にもすぐ遊びに行けるし」

  「その大学の看護学部って、入試に数学があるんですか」

  「正式には看護学類っていうんだけれど、数学は、一次試験だけよ」

 純子は、数学の負担が少ない、という点だけには、かなり興味をもった。

  「3年間通うんですか」

  「看護の世界は、学ぶことが多すぎて、もうだいぶ前から4年制なの」

 純子の『せっかく公務員の仕事についているのに、また、勉強しなくちゃならないなんて・・・』とでも言いたげな表情が、真澄に分かったのだろうか、

  「私にはもう両親はいないの。今までは親のために、地元に残ったんだけれど、親がいなくなったからじゃなくって、専門的な知識や技術をもって、もっと大勢の方々の手助けを目指したほうが、私の人生に悔いが残らないと思い始めたからなのよ。それに、『森の女神』とか聞いているでしょ、私のことが妙に有名になっちゃたから田舎ではやりにくいのよ」

 

 純子は、自分の人生に悔いを残さない進路選択ということを、本気で前向きに考えるようになった。

 このことは、純子の症状は、実生活上、ほぼ回復してきたといえる(あかし)でもあった。


 翌朝、純子はキャンプ地での最後の朝食をとった。

 無事に作業を終えられたという開放感があったのだろう、いざというときに残しておいた板チョコを、バリっとかじったときには、セーラー服姿の薬師丸ひろ子さんのように「カイカンっ」と叫びたくなった。


 テントをたたみ始めたころ、真澄が、石川というカメラマンとアシスタントを連れてきた。

 石川は「初めまして。加藤先生のお作品は丁寧に撮らせていただきます、よろしくお願いします」

 ついに純子は『先生』になった。

 撮影自体はSVセンターのプレハブ小屋の中で、アシスタントとともに、小一時間ほどで終了して、5枚の作品は、一枚ずつ、薄い紙に丁寧に包まれて純子に戻された。

 石川は「まだ撮ったばかりで、最終的な編集はできていませんが、今の画像でよければ、先生の端末に送りましょうか」

 純子「えっ、ありがとうございます」


 そして、被災地との別れの時がきた。

 出勤してきた平井や、真澄、新聞社の撮影隊に見送られて、純子は最寄り駅までのバスに乗った。

 双方ともに、ガラス越しに最後まで手を振り合った。


 その後、純子は大きく揺れる車内で、目を閉じて上を向き、この5日間に見たことや、出会った人々のことを、静かに振り返っていた。

 ボランティアを受けいれてくださった方々は、みんな、本当に親切でとてもやさしかった。


  けれども、今も窓の外に広がる地域では、3万人近い人々が亡くなったり、負傷したり、行方不明になったりしていることは、重すぎる真実だった。

 それだけでなく、ボランティアたちは見ることはできなかったが、避難生活を余儀なくされている方々への、今後も長く続くことになる、計り知れない支援の困難さについても、純子は聞いていた。


 その時の純子の心境は、例えてみれば、 『弦楽のためのアダージョ』が流れる中、軍用ヘリコプターで最前線から後方に帰営していく兵士の眼下、両手を上げて見送ってくれている兵士も見えるが、そこは、今、まさに、仲間たちの戦闘がくり広げられているエリアであり、辛く、やるせないまま、一人だけ戦場を去っていく、あの戦争映画の主人公の心境にも似ていたのかもしれない。


『第十二章 純子を待っていたフレンズ』

 純子が駅につくと、ホームには真貴子と直美が待っていてくれた。

 二人は、奪い合うように純子の荷物を持ってくれて、ホームから階段を上がって改札を出ると、祐一や千鶴、希美、優虎たちの生徒の他、姉の正美や、塚越教頭の姿もあった。

 そして、希美から花束を渡されたとき、大きな拍手が起こった。

 祐一が「純子さん、お疲れ様」と声をかけると

 さすがの純子も、少し日に焼けた顔で、大粒の涙をこぼした。

 塚越からは「加藤さん、体調は大丈夫ですか」と、言葉をかけられた。

「ちょっとは疲れてはいますけど、もっと大変な人たちが頑張っているって・・・」 と、今度は、泣きじゃくりながら答えた。

 教頭は「そうですか。安心しましたよ、本当にお疲れ様」

 塚越教頭は、あのスキー教室のときから心配していた純子が、ここまで成長してくれたと思うと、定年近くになって初めて『自分は教員にさせてもらったのだ』と感じた。

 みんな、純子を見つめるばかりであった。

  それは、純子への慰労の気持ちよりも、尊敬の気持ちに近かった。

  そして、祐一が、買ってきたばかりのスヌーピーのハンカチを、そっと純子に手渡した。


 さて、純子の留守の間、『フレンズ募金』の生徒たちも、暇をしていたわけではなかった。

 募金の範囲を広める一方で、募金をくださった方々に、丁寧なお礼状を書いて届けていた。

 また、土屋校長からの提案だったのだが、純子のボランティア体験の報告会を、1学期の終業式のあとに続いて、短時間で行ったらどうか、ということに応じて準備を進めていた。

『フレンズ』の仲間たちとしても、全校生徒や先生方、保護者の皆さんへのお礼を、どこかで言わなければいけないと思っていたのである。

 その報告会の学校側の担当は、ボランティア活動も生徒の進路なのだからという、こじつけのような理由で進路指導係の浜本に任された。

 これは『フレンズ』と浜本の絆を、土屋校長がよくわかっていたからに違いない。

 もっとも、浜本のことなので、『フレンズ』には、「みんなでやって」の一言だった。

 そして、生徒側のリーダーは、やはり事務的なことなので、祐一がすることになった。

 祐一は、直美や真貴子たちの話を聞きながら、純子の報告会とはいえ、純子には、いまだに残るかもしれない症状からして、発表の前面に立たせることは避けたほうが良いのではないかとなった。

 そこで、まず司会進行役は放送部の裕子に任せることにした。


 内容の一つ目は、募金金額や、いただいた方々の発表と御礼。

 二つ目は、『たんぽぽSVセンター』でも宣伝しているように、学生が応援に来てくれるだけでも喜んでもらえることや、被災地でのボランティア活動は、年単位で、根気よく、自分自身が燃え尽きないようにして参加して欲しいことの発表。


 三つ目は、純子の撮ってきた写真や描いたスケッチをスクリーンに映しながら、純子が書いた原稿を裕子が流暢に読み上げた。

 このなかでは、純子の装備の紹介もあった。特に、レトルト食品のカラフルな画像には、「おぉ~」と歓声が上がった。


『終章』

 高校生活最後の夏休みになった。

 純子は祐一と、部室の奥で話し込んでいた。

 お互いの進路のことだった。

 祐一「純子さんは、あれだけの才能があるんだから、やっぱり、芸術学部にいくの?」

「う~ん、絵は大好きだけど、2浪も3浪もして、美大なんかに行きたくないわ」

「そうだよね。多浪って、青春時代の感性の無駄遣いのように思うんだよね」

「じゃ、祐一君は? 理系なんでしょ」

「うん、もともとは、原子力発電の技術者希望だったんだけど」

「原発って、いまは、嫌われちゃたね」

「でも~、原発自体は、全国で稼働しているわけだから、その安全性を確実にする技術者っていう方向もあるけど」


 純子は、ようやく症状が回復してきたばかりであり、祐一は、津波によって原子力発電所が大事故を起こしてしまったことから、二人とも、卒業後については、まさに、これから考え直さなくてはならない立場なのだった。

 二人は、純子が被災地で食べきれなかった『アルファ米』の、『ドライカレー』と、『えびピラフ』を選んで昼食をとることにした。

 純子から「毎日、新鮮な水と食料があるって、それだけでも幸せなのよね」

 祐一は「そっか、そうだよね。純子さんの貴重な体験だよ」


 祐一が続けて、

「僕たちって、もしかして『自分のためだけの進路希望』を考えていないかな?」

「どういうこと?」

「つまり、自分を生かすっていうことは、自分をどう殺すかっていうことじゃないかな」

「自分を殺すって」

「びっくりさせたけど、『自分を社会に捧げる』っていうこと」

「祐一君のこと、初めて尊敬する」

「校長室に入った時、『滅私奉公(めっしほうこう)』っていう古い額があったんだよ」

「なんか、すごいけど、さすが、文系型の理系よね」

「これはね『自分の願望の追求よりも、社会のために尽くせ』っていう解釈でいいと思うよ」


 そこへ、アルファ米の香りを嗅ぎつけたかのように、直美と真貴子が入っていた。

「ふたりとも、受験勉強しなくていいの」

「あっ、純子の残りの食料って、まだあるじゃん」

 ということで、遠慮なく食べ始めた。

「おっ、カロリーメイトもあるじゃない」と、ますます純子のバックのなかを減らしていった。

  そこへ希美と千鶴も遊びにやってきた。

 特に、千鶴はバーナーとコッヘルをしげしげと興味深く眺めていたので、部室内でラーメンも作ってみることにした。

 いまや、この美術部の奥の部屋は『フレンズ募金』の仲間たちのコーナーでもあった。


  そこで祐一から「直美さんたちは、卒業したら、どうするの」

 直美は「スポーツ関係のビジネスって、いい感じでしょ。スポーツの楽しさを伝えて、自分の収入にもしたいの。だから、もう、9月には『道スポのAO入試』に申し込むつもりよ」

 真貴子「じゃあ、もう走らないの」

「そうじゃないけど、走るだけじゃ稼げないでしょ。真貴子こそどうするの」

「大学でも直美と競り合いたかったから体育学部だったけど、そうでなかったら、教育学部から体育の先生になって『スポーツを一生楽しみたい』と思ってくれる生徒を育てたいと思っているの。それにスポーツ指導では暴力主義がいまだに横行しているでしょ、辻井みたいな暴力教師を排除したいのよ」

 祐一と純子は、二人の話の中に、やはり『社会への貢献』というヒントを感じ取った。


 真貴子が「で、お二人は、どうするの」と聞いてきたのだが、 二人には、しばらく沈黙が続いた。


 突然、純子が、「私、看護師になる」

「えぇ~~」

「看護学部って、入試に数学あるんじゃない」

「卒業するとき、国家試験に受からなきゃ、4年間が無駄になるのよ」

「それに実習が忙しすぎて、バイトなんかできないみたいだよ」

「それは・・・、つまり、遊べる学部じゃないってことよ」

「看護師って、大病院なんかに勤めると、休む暇もないし、結婚相手も見つけられないみたいよ」

 ・・・と、部室内は、純子は引き留める声で溢れた。

 純子は「人を助けたいのよ。専門の知識と技術をもって」と、真澄の言葉が、そのまま口に出てきていた。


 祐一「そっかあ、やっぱり、それは、純子さんが被災地を見てきたからだよね」

 真貴子「それはすごい希望だけど、数学はどうするのよ、数学は」

 純子には、背後霊のように、どこまでも「数学」がついてきているようだ。

 直美が「どこ受けるの」

「茨城の看護学類ってとこ」

「なに、そのガクルイって」

「被災地で、SVセンターの担当だった真澄さんから聞いたのよ」

「学類って、茨城だったら、紫峰大学(しほうだいがく)じゃないの」

「えぇ~、準旧帝クラスでしょ」

 純子「それって、レベル(たか)って、こと?」

「決まってるじゃん、身の丈に合った大学っていうのを、考えたほうがいいわよ」

「受験科目はホームページで調べて、難易度はパスナビで調べたら」

 まず祐一が

「この学類って、一次は950点満点のうち、数学は200点だから「21%」の比率。

 でも、二次も合わせた総合点は1750点で、数学はそのうちの200点だから「11%」に下がる。

 一次には、①の地歴公民重視型と、➁の理科重視型があって、

 二次でも「国語型」か「理科型」の選択ができる。

 英語は両方合わせて500点のうえに、面接が300点だよ」

「そうなんだ。じゃあ、度胸のある純子は、面接、満点だね」

「この大学って、英語の配点がデカいけど、純子のママって、英会話教室でバイトしていなかったっけ」

「パスナビだと、一次試験の最低ラインは75%って出たわ」

「足切りは、一応、4倍だから、もっと詳しい情報は予備校がいいんじゃないの」

 最後に祐一が

「一次試験の数学だけだったら、いまから過去問対策で、全体の足を引っ張らないようにして、純子さんが得意な、国語・英語・地歴公民で逃げ切るっていう作戦はどうかな。それに基礎理科なんかは、2科目を選べばいいだけだし、一般教養みたいなものでしょ」

「やってみれば、いいんじゃない」

「すぐに模擬試験の申し込みだね」

「センター試験パックは河合塾がいいし、なんといっても過去問を”べた”に解くことよ」

「それで、足りないところを祐一君が教えてあげたら」

 純子の進路は、突然、具体化した。

 まるで、明日からは正看護師のようだった。

 純子としては、今までの『真澄さんのようになりたい』が『なれるかもしれない」に変わり

『もしかしたら、真澄さんと同じ病院の先輩後輩の仲になるかもしれない』と思うと、直情直行型の性格が、ブルドーザーのように後押しを始めた。

 一方、純子から見れば、外野というか、フィールド外にいるような直美と真貴子は、『純子に進路を決めさせた』という満足感に溢れて、ますます携帯食料の片付けは進んだ。


 そこへ、次も、真貴子から

「祐一君はどうするの。やっぱ、原発屋なの」ときた。

 祐一「エネルギーを持たない日本にとって、『原子力発電』はいまのところ必要だし、それによって人々の生活や産業も成立しているわけだから、・・・」と、純子に聞かれたときと同じように答えたものの、祐一の中には、原発災害を聞いた時の驚きの気持ちがぬぐい切れなかった。

 それに合わせて、純子が被災地ボランティアで得た記憶と、今の決意が寄り添ってきていた。


 祐一は「僕は医者になることにする」

「えぇ~~、今度は医学部かよ」

「たしかに、祐一君はできる頭だけど、医学部って神みたいな受験生がいくところよ」

「それに、私立だったらいくらかかるかわかんないよ」

「祐一君のうちって、お金持ちなの」

 祐一「いや、しがないサラリーマンだよ」

「じゃ、国公立の医学部だけど、東大受験みたいなものよ」

「地元だったら下宿代もいらないし、交通費も安いかも」

「そういう問題じゃなくって、入学試験の難易度のこと」


 祐一は「ホントは、子どものころから医師になりたかったんだ。でも、すごく難しいって聞いていたから、僕は血を見るのが怖いから医者は無理だって、自分に言い聞かせて諦めていたことに、今、気づいたよ。

 夏前に、進路指導の浜本先生に相談した時、『青春時代に分かれ道に来た時には、より困難なほうを選ぶべきだ』って言われたんだ。その理由は『より困難な道であっても、選択肢に上げた以上は、やってみたいからなんだし、挑戦すらしなかったら、きっと悔いは残るだろうね』だったよ」

「その時に、アントニオ猪木さんの『道』のビデオも見せてくれた」


  『道』


  この道を行けば

  どうなるものか

  危ぶむなかれ

  危ぶめば道はなし

  踏み出せば、

  その一歩が道となり

  その一歩が道となる

  迷わず行けよ

  行けばわかるさ



 祐一が暗誦した『道』を、みな、静かに胸におさめた。


 そして、純子と祐一は、夢中に勉強して、ついに自分の道に進んでいった。


 大学卒業後の純子は、上品な言い方をすれば、緊急時、しかも不測の事態の中でも、落ち着いていて、よく気が付けるタイプだからいうことからであり、端的に言えば、なんといっても度胸があるということから、数年間の病棟経験の後、必要な資格も得て、緊急時に対応する「ドクターヘリ」に乗ることになった。

 いわゆる「フライトナース」として、今度は、純子が患者の現場に向かう立場になっていた。


 一方、祐一は、地元の「北斗大学医学部」に、「緊急医療従事可能枠」として進学し、卒業後は国内や海外での災害発生時などに派遣されることになった。

 卒業式の後の祝賀会でのことだった。

 北斗大学医学部の「海外緊急医療援助隊」の編成リーダーであり、それまで、総務省や他大学や各病院との調整役を長年やってきた蛭田教授は、定年のために、この年度末をもって、その任務から、ようやく解かれるときだった。

 自分の研究や、学生を指導しながらの、『医療援助隊のマネージメント』は、神経をすり減らす業務ばかりだった。まさに『医師免許がなくてもできるはずの仕事』に忙殺されていた。

 そんなことからだろう、この日、少量のお酒で、すでにほろ酔いとなっていた蛭田が、

「みんなぁ、卒業証書だけはなくすなよ」と、周囲の笑いも取っていたころ、

「海外派遣医師」として、蛭田の教え子になる祐一が、指導していただいたお礼の挨拶のために蛭田に近づいたときだ。

「祐一君、おめでとう。『フレンズ募金』をまとめ上げた君だ、海外でも君の手腕に期待しているよ。さあ、乾杯しよう」と、祝ってくれた。

 実は、祐一は、入学試験とき、一般教科だけでは合否ラインを上回ってはいなかった。

 一方、蛭田はその時の入試委員長であり、面接官も兼ねていた。

 これ以上は、誰にも明かせないことだが、まさに、『情けは人の為ならず』の良い例である。

 

 この卒業パーティーは、次第に、蛭田教授の『お疲れ様パーティー』に変わっていった。それは、卒業生たちは、みな、蛭田教授の長年の業績の貴さや、苦闘ぶりを十分知っていたからだった。

 卒業生たちからは、次々と、

「先生! お疲れ様でした!!」

「ホントにありがとうございましたぁ」

「ノーベル生理学・医学賞、取ってくださ~い」

「平和賞と同時受賞できるはず~」、などという歓声に溢れ、

 お酒も注がれる中で、蛭田も初めて、学生とともにいる『大学の先生』になれた気がした。


 さて、 『フレンズ』の他の生徒たちも、それぞれの道に進んだが、美術部OBと陸上部OBを中心にした『フレンズ』の同窓会は、年に一度くらいは開かれた。

 そして、やはり、その会の万年幹事は、海外に行っていないときの祐一だった。



  ~~「了」~~


あらためまして、東日本大震災や能登半島地震などの大災害で被害に遭われた方々へ、謹んでお見舞いを申し上げます。

また、小説内の「真澄」のモデルにさせていただいた「宮城県南三陸町職員」の「遠藤未希さん」のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

「真澄」という名前は、大学2年生になるときの春休みに、自ら命を絶った、わたしの学生時代のサークルの同級生を偲んで、お名前をお借りしました。

彼女も、やはり医療従事者を目指していたのです。


さて、冒頭の場面からお気づきの方も多いかと思いますが、この小説は、渡辺淳一先生の『阿寒に果つ』を読んだことが、書き始めるきっかけでした。

わたしの小説の中の『純子』は、渡辺さんの小説の中では『時任純子』として登場している、実在の人物であり、当時、北海道では『天才少女画家』として高く評価された『加清純子さん』から、お名前をいただきました。

加清純子さんは、高校卒業を控えた1952年(昭和27年)、突如、この世の画壇から去ってしまったのですが、わたしは『天才画家少女・純子』を平成・令和の時代に蘇らせたくて、この小説を書き続けていました


最後に、この小説を書きあげるまで、お世話になった方々へ、深く御礼を申し上げます。

特に、医学的な知識で正しいことは、主治医からのご指導の結果であり、医学的知識に限らず、誤った知識は、私が自分で調べたり、勝手に考えたりしたものです。


ありがとうございました。

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