ドアマットヒロイン、復讐の前菜
十二歳で母が亡くなった後、父は後妻を娶った。
私にとっては継母となる。
連れ子がいたが、おそらく父との子どもであろう。
お約束通り、私は継母に虐げられた。
二人の真実の愛を母が邪魔したそうだ。
そんな母の遺品を取り上げるのは、当然の権利だと言う。
部屋を異母妹に明け渡し、使用人の部屋に移るように命令された。
食事は使用人と同じ物になり、休日は使用人として働かされたが、学校には通わせてくれた。
母の実家はそれほど裕福ではないので、頼ることもできない。
十五歳で卒業したら、上の学校に通うことなく働きに出されるか、結婚させられるかもしれない。
継母からかばってくれず、見て見ぬ振りをする父を憎んだ。
役立たず。
きっと、私のことなどどうでもいいのだ。
世間体を気にして、放り出さないだけだろう。
私は、一人で何ができるか考えた。
学校には、下位貴族や裕福な平民が通っている。
語学と簿記、文字の美しさを身につけ、将来有望そうな男子にアピールした。
将来、下請けの仕事をさせてくれと。
恋愛にうつつを抜かすような余裕はない。
妹は貴族の学校に通っているから、ここでの動きは邪魔できない。今のうちに逃げ道を作っておかなければ。
私は必死だった。
卒業直前に、子爵令息から縁談が申し込まれた。
十歳年上で、結婚したら子爵を譲り受けるという。
そのためにすぐ結婚できる、大人しい娘を捜しているそうだ。
異母妹のニヤニヤ笑いを見て、ろくでもない相手なんだろうと覚悟した。
現子爵は、奥方の療養のために、爵位を息子に譲って領地に下がりたいとのこと。
小さな教会で、親族だけの式を挙げた後は、タウンハウスでの生活が始まる。
花婿は、私に興味なさそうな視線を投げた。
義務的に指輪をつけ、誓いのキスはするふりをしただけだった。
息子の偽装に気づかずに祝福をする子爵夫妻が滑稽だったし、私の家族は早く「親子水入らずの食事」をしたいとそわそわしている。
いつも三人で食事をして、私は使用人たちと食べていた。なにが「親子水入らずだ」と罵ってやりたい気分だ。あ、高級なレストランでも予約しているのかもしれない。
ささやかな式が終わり、子爵のタウンハウスに移動した。
私は、日当たりのいい「妻」の部屋に通される。
子爵夫妻は客間を使うという。着々と、引き継ぎの準備が進んでいるようだ。
軽い晩餐を四人で取り、私は妻の部屋で待機させられた。
いわゆる、初夜なので。
昼間の様子から優しくなさそうな人だと感じ、憂うつな気分が募った。未知の経験に対する恐れもある。……本当に、あんな奇妙なポーズをしなければいけないのだろか。
だが、私の夫は、想像を超える馬鹿者だった。
私とは閨をするつもりがなく、愛人の子どもを私の実子として育てると宣言した。
話の流れからして、愛人は平民なのだろう。
「人は平等であるべきだ」と言っているが、言葉の端々に男尊女卑の思想が透けて見える。
貴族と平民は平等であるべきだが、男と女は不平等でいいのか……阿呆だ。
この国は、二百年前に現地民を征服して樹立した国家だ。
当時の貴族を平民や奴隷に落とした関係で、征服した側の貴族同士の子でなければ貴族として認めない。
つまり、この夫の提案は、この国の支配層を揺るがす――国家反逆罪に問われる内容なのだ。
ちなみに、私が通った学校は平民のための学校。
貴族学校に通えない貴族を、受け入れているにすぎない。
だから、そんな経歴の私を夫は軽視しているし、義父はろくに調べもせずに息子を結婚させたうっかりさんということだ。
平民との結婚は阻止したが、嫁は貴族籍とはいえ平民学校の出身。はは、笑える。
もしかしたら、夫と愛人のことは有名で、まともな貴族の娘とは縁組みができなかったのかもしれない。
異母妹がやけに嬉しそうだったし。
とにかく、閨をしないですむなら、ありがたい。
一人で、貴族用のベッドで眠れるだけで幸せだ。使用人のベッドは硬いから。
夫は嫌味っぽく「今夜も愛する人の元に行く」と言うから「どうぞ、いってらっしゃいませ」と送り出してやった。
悔しがるとでも思ったのかな。まさか、そんなわけない。
だって、愚かなところしか見てないもん。結婚式の時の態度も最悪。好きになる要素は皆無だ。
翌日の昼、また四人で食事をした。
午前中に爵位継承の書類を書いたので、この後ご夫妻は領地に向かうそうだ。
私は無邪気を装って、子爵夫人に毎月手紙を出すと約束した。ああ、もう「前子爵夫人」か。
そう約束するところを執事に見せて、「私を無下に扱ったら、大奥様にチクるぞ」と牽制した。
だって、夫に蔑ろにされる妻は、使用人からも馬鹿にされて食事ももらえないって、小説で読んだもの。
監禁されるのと、餓死するのは予防しなきゃ。
押さえるべき人物は、阿呆で間抜けな夫ではなく、執事だろう。夫の暴走に目をつぶり、前子爵に対して隠蔽に協力しているのもコイツだし。陰の主は執事だ。
もしかして、執事も平民なのかな……ふと、そう思った。
義理の父母が出発した途端に、私は妻の部屋を追い出された。
また使用人の部屋。実家と同じだから構わないが、個室で鍵がかかる部屋を執事に要求する。
少しでも、実家よりマシな環境を作らなければ。最初に舐められたら終わる。
我慢せずに、主張する。
学校で平民と切磋琢磨して、私は強くなったはずだ。もう、負けない。
いくら耐えても、誰も助けてくれないんだから。
愛人が自由に暮らし、私も自由に暮らす。
それでいいじゃないか。
「夫の愛」などというゴミは、私には必要ないのだ。
流行遅れでくたびれた服しか持っていないのは恥ずかしいが、裏口から街に出る。
学生時代の同級生が働いている所に行って、翻訳や代筆などの仕事をもらった。
大手に就職した子には「上司に相談しないと」と断られたが、小さい所の子は既に裁量権を持っていて仕事をくれた。仕事を探すときは、そういうところも気にすべきなんだと勉強になった。
子爵家では、使用人と同じ物を食べさせてもらえた。食事を抜かれたら、自分で買ってこないといけないと考えていたから、幸運だった。
義母への手紙にも、食事が美味しいと書く。
掃除や洗濯は実家でやらされていたので、問題なくできる。
「ついでにやりましょうか」と言ってくれるのを待っていたが、そういう申し出はなかった。一応、書類上は子爵夫人なんだけどな。
初めてのお給料で、少しマシな服を買った。
流石に、街を歩くのが恥ずかしかったから。古着でも、自分で選んだ服は気分があがる。
仕事で褒められるのも嬉しい。私は、役立たずの無駄飯ぐらいなんかじゃない。
私は「楽しい」と思うことが増えていった。
執事や侍女頭が黙認するので、私は自分のペースで生活できる。屋敷を抜け出しているのも、仕事をしているのも気付いているはずだ。
この人たちは、なんなんだろう?
書類上の夫をいさめることもなく、私の奇行を咎めることもなく、領地の前子爵夫妻に報告することもない。
私は女主人の仕事をしていない。
愛人にやる能力がなければ、誰かがそれを肩代わりしているはず。
「やりましょうか」なんて殊勝な申し出をする気はないのが、この家は大丈夫なんだろうか。
愛されないのに仕事だけ押しつけられて、搾取されるよりマシ。
健気に尽くして、愛されるのを待っているような弱い女じゃない。
めそめそ泣いていても、うるさいと言われない個室を確保した、私は偉い。頑張ってる。
お母様が亡くなった時とは違う。 私は何もできない子どもじゃない。
爪を研いで、反撃の機会をうかがうのだ。自由に生きるために。
結婚して半年くらいで「子どもが生まれた」と、夫に言われた。
体裁悪いと思っているのか、照れくさいのか、変な顔をしている。
予定どおり私の子として届けるつもりなんだろうな。
それなら、結婚前に妊娠させたら駄目でしょ。半年なんて、どれだけ早産なのか……嘘がばれる心配をした方がいい。
面倒くさいから、性別も名前も訊かなかった。
私はしおらしく、お披露目をやろうと提案する。
それに対して、ほっとしたような顔をした。
私が不機嫌になったり、子どもとして認めないと約束を反故にしたりしなくてよかったという顔なのか?
約束と呼ぶには一方的に押しつけられたものだが、罪悪感でもあるのか。今更だ。くだらない感傷になど、付き合う義理はない。
子どもが生まれて三ヶ月。そのお披露目として、両家が集まった。
私が女主人らしい仕事をした、記念すべき行事だ。最初で最後になるかも……いや、最後にする。
前子爵夫妻が領地から出てきて、私の父と継母と異母妹も初めて子爵邸を訪問した。
彼女たちの屋敷を値踏みするような視線が下品で、うんざりする。
乳母が子どもを連れて来た。
「わあ、かわいい」という声があがる。
「どっちに似たのかしら?」と訊かれても、「どうでしょう」としか答えられない。
私だって、今、初めて見たのだから。
夫は顔を強ばらせて、見るからに不自然だ。演技できないなら、不貞などするなよと笑ってしまう。
ひとしきり盛り上がると、子どもは乳母が抱いて下がり、大人たちだけの昼餐が始まった。
手際よく前菜が配られる。
「あら、一席多いのではない?」
義母が首をかしげる。
「今日のもう一人の主役を呼んでいますのよ」
私は、復讐の始まりだとほくそ笑んだ。
私に準備を全て任せた夫が、青ざめた。
だが、もう、遅い。
そこへ、ドレスは着ているものの、よたよたと足さばきのおぼつかない女が入ってくる。
狼狽する夫の家族と、意地悪そうに破顔する異母妹。
夫が無作法に立ち上がり、椅子が嫌な音を立てて倒れた。
「先ほどの子どもの産みの親ですわ」
私は冷静に、淑女の笑みで紹介する。
「お前、なんてことを! 何を考えているんだ」
夫が私を怒鳴りつけた。
仕事でミスをして血の気が引いた経験に比べたら、こんなボンボンに何か言われたって怖くない。
「正妻の部屋を使っている、この屋敷の女主は彼女です。
昼餐会を開く自信がないというので、私が差配させていただきました。
さあ、楽しくお食事しましょう」
「まだ別れていなかったのか。こんなことが、許されるはずないだろう」
前子爵は、自分の息子の愚かさが信じられないようだ。
「あなたの息子さんがしでかしたことですわ。
わたくしを侮辱するにもほどがあると思いませんか?」
にっこりと、敢えて微笑んでみせる。
「まことに、申し訳ない」
前子爵が深々と頭を下げた。
まあ、それ以外に言葉はないか。勢いで「離婚させる」と言ってくれてもいいんだけど。
「なんで、こんな場にのこのこ出てくるんだ」
夫が今度は愛人をなじっている。
わきまえた女だったら、そもそも女主人の部屋を占拠しないでしょうよ。
「だって、奥さんが許してくれたんだもん。本当の母親を知ってもらういい機会だって言うしさ」
ええ、許しましたとも。
「なんという言葉遣いなの。メイドよりひどいわ」
病気療養中の前子爵夫人は血の気が引いて、今にも卒倒しそう。まあ、侍女がいるから大丈夫だろう。
あなたの息子は頭の中味がひどいですけどね、どういう教育をなさったんですか――と心の中で毒づく。
「わたくしの子どもとして届けられましたが、正真正銘、その女が産んだ子です」
夫の縋るような目を無視して、きっぱりと断言してやった。私の尊厳を踏みにじっておいて、虫がいいにもほどがある。
実家の者たちは、ここぞとばかりに婚家を責め立てる。
私の境遇になど興味もないくせに。詫びとして何をせしめられるか――そういうことに興奮しているんだわ。変なところで計算高いんだから。
私は、ひとり、昼餐を黙々と食べることにした。
といっても、前菜とパンしかないんだけど。
主たちがもめているので、使用人は次の料理を運んでいいのか判断できず、様子をうかがっている。
私の今日、最大の失敗は、愛人を呼びこんだタイミングだ。
メインディッシュが出てからにすればよかった。
でも、それまで大人しく待っているような女じゃないか。
平民の血が混じったら貴族にはなれないという、この国の特殊な法律さえ知らない無学な平民。
前子爵夫人の反応を見るに、隠蔽して家族として受け入れるつもりはなさそうだ。
だって、誰かが密告したらお家断絶の危機……いや、三ヶ月前に出生届を出してしまったから手遅れかも。
私はちんまりと上品な一皿を食べ終わったので、立ち上がり、ダイニングルームを出て行くことにした。
誰にも見とがめられることなく。
部屋でささっと街へ行くときの服に着替え、鞄一つで出ていくのだ。
今日の食材やろうそく、ワインの支払いのためのお金を持って。
明日、業者に支払うためのお金。
それくらい、慰謝料としていただいてもいいだろう。
子爵家の資産なら、慌てず余裕で払えるでしょう。帳簿も見ていないから、しらんけど。
母が死んでから、私は写真を一枚も撮っていない。
だから、逃げてしまえば、捜索も捗らないはず。
子どもの頃の写真など見せられても、ピンとこないだろう。子どもの頃の朗らかさは消え失せ、気の強さがにじみ出る女になってしまった。あの写真の面影を、今の私から見つけることは難しい。
新聞に捜し人を出すことだってできない。写真がなくて名前だけなら、偽名を使えば辿れない。
列車に乗れば、隣国に脱出することができる。
下請けの仕事をもらっていた事務所に、次の仕事先を紹介してもらっている。
事故で亡くなった平民の身分証を買い取った。平民は写真なんて撮らないから……大丈夫なはず。
今まで稼いだお金は、隣国の銀行に送金済み。
準備万端なのだ。
いい加減な息子を育てた前子爵夫妻は罰を受けるべきだし、私を蔑ろにした実家も没落すればいい。
当然、「白い結婚の夫」も図々しい女も破滅しろ。
「それでは、ごきげんよう」
誰も聞いていない挨拶をして、裏口から出て行く私。
罪のない子どもの行く末だけは気になるが……ちゃんと貴族の両親から生まれても不幸になった私が幸せを祈ったところで効果はないだろう。そう思って、祈るのを止めた。
2025年11月26日 追記、修正
2025年11月27日 修正
近いうちに連載にします。前菜だけじゃなく、フルコースで。(11月28日)