第29話/双眸
倉庫内の空気は、凍りつくように静まり返っていた。
椎名蒼司の灰色の瞳に、蛇の目のモニターが映り込む。無機質な光が彼の瞳を刺し、傲慢という仮面を容赦なく剥ぎ取っていく。
「――君の思考は、すでに解析されている」
蛇の目の冷たい声が、静寂をひび割れさせるように響いた。
その一言で、椎名の背筋が小さく震えた。
今まで自分の“美学”で他者を支配し、好事家たちを操ってきた男。その椎名が、初めて目に見えぬ存在に支配されつつある――その感覚が、肌の奥にまで染み込んでくる。
「……おまえ……は……人間じゃない……」
声は掠れ、喉の奥から絞り出すようだった。
片瀬が淡々と報告する。「呼吸数上昇。心拍も不安定です。恐怖反応、明確に出てます」
蛇の目は冷徹に続ける。
「あなたが過去に手を染めた犯行は――孤独と虚栄心の結晶。その動機は、崇高な理念などではない。空虚を飾るための演出。あなた自身が一番、それを理解している」
「黙れ……!」
椎名が吐き捨てるように叫ぶ。しかし声は震え、威厳も牙もなかった。
吉羽恵美がそっと椎名の前に立ち、柔らかく、しかし揺るぎない声で語りかける。
「……怖いのね、椎名蒼司。あなたはずっと、自分が誰よりも特別だと信じてきた。でも、今ここで暴かれているのは――あなたの“底”よ」
その一言に、椎名の身体がピクリと強張る。
蛇の目の音声がさらに圧を増す。
「あなたは、創造者ではない。逃避者だ。死体を飾ることでしか、自分の存在を確かめられなかった」
「……違う……俺は……俺は……!」
椎名の声が割れる。かつて群衆を黙らせた冷ややかな眼差しは、今や恐怖に濁った獣の目だった。
片瀬がモニターに映る波形を見つめる。「……完全に防衛機制が崩れ始めてます。もう少しです」
吉羽が一歩踏み込み、視線を合わせる。
「椎名、あなたがここで逃げても、蛇の目は追いつく。心の奥の“隠し場所”も全部ね。でも……自分で語るなら、まだ人間として終われる」
空気が、ピンと張りつめた。
長い沈黙ののち、椎名は、ゆっくりと唇を震わせた。
「……あいつを、覚えている……」
その瞬間、蛇の目の解析波形が大きく跳ね上がる。
「反応あり。対象“アーティスト”に関する記憶領域、活性化」
椎名は、うつむきながらも搾り出すように言葉を吐いた。
「……あいつは……俺なんかよりずっと狂っていた……作品を、売ることより……“壊すこと”を愉しんでいた……。俺が崇めてた美学なんて、あいつにはただの“玩具”だったんだ」
吉羽はその声に耳を傾ける。
椎名の傲慢は、今や崩壊していた。蛇の目の冷徹な光と、人間の視線が彼の心をはぎ取り、恐怖と屈服の奥から“真実”を掘り起こしていく。
蛇の目が、椎名の揺らぎを捕らえた冷たい声で言う。
「――あなたは、彼を恐れている」
「……ああ……恐れてるさ……俺は、あいつに逆らえなかった……。あいつの前じゃ、俺の美学なんて――何の意味もなかったんだ」
その告白は、蛇の目にとっても、チームにとっても決定的だった。
藤堂の証言と合致し、アーティストの本質が、椎名の恐怖から立ち上がるように浮かび上がる。
椎名の肩は落ち、呼吸は荒い。灰色の瞳には、初めて“敗北”の色が宿っていた。
吉羽が静かに言う。「……これで、彼の影に触れられる」
片瀬が頷く。「蛇の目、プロファイル更新完了。次は――あいつを捕まえる番です」
モニターの光が、椎名の瞳を照らす。
恐怖から始まったその揺らぎは、やがてアーティストを追い詰めるための確かな輪郭へと変わっていく。
夜明け前の空は、濃い鉛色に沈み込んでいた。
風が冷たく頬を撫で、街全体が息を潜めているような静けさの中、科警研第二課の車列が一斉に走り出す。蛇の目が導き出したアーティストの行動予測地点―― 神戸市東灘区。
そこにある一棟の古びた倉庫が、ついに標的となった。
「蛇の目の予測では、今夜から明朝にかけてヤツがここに現れる確率は93%……逃すわけにはいかないわ」
吉羽恵美は、黒いジャンパーの袖をぎゅっと握りしめた。その声には一切の迷いがない。
片瀬が車内でモニターを操作し、低い声で続ける。
「電波、GPS、周辺監視カメラ、すべて連動完了。進入ルートは裏手の搬入口が最も高確率。ヤツはこれまで、真正面から現れたことは一度もない」
「慎重な男、ってことか」
渡辺が拳銃のホルスターを軽く叩き、視線を倉庫の方へ送る。張り込みはすでに4日目。疲労が溜まる中、チーム全員の神経は研ぎ澄まされていた。
倉庫周辺には機動隊の影も溶け込んでいる。
黒い影がじわりと包囲を狭め、夜明け前の街が一瞬だけ、戦場のような緊張を孕む。
蛇の目の声がイヤホン越しに静かに響く。
「対象の過去の行動パターン、心理的特徴、移動傾向から逆算――今夜、搬入口から侵入する可能性、極めて高い。姿を見せる時間は午前4時から5時の間」
「いいわね……まるで、そこに“蛇”がいるみたい」
吉羽はふと呟き、風の中で息を吐いた。蛇の目は感情を持たないが、その予測の鋭さはまるで生き物だった。
そのとき、無線が小さく鳴った。
「こちら監視班、裏手の搬入口にて不審車両確認。ナンバー照合中」
片瀬の指先が止まる。
「来た……。時間も蛇の目の予測どおりだ」
吉羽は小さく頷き、隊員たちに合図を送る。黒い影が一斉に動き出し、倉庫を取り囲んでいく。渡辺は拳銃を抜き、片瀬はイヤホンの通信を確認しながら背を低くした。
風が一段と冷たく吹き抜けた瞬間――搬入口のドアが、わずかに軋む音を立てた。
静寂が、裂かれる。
蛇の目の冷たい声が響く。
「――アーティスト、現着」
搬入口から、黒いコートの影がゆっくりと姿を現す。帽子を深く被り、夜明けの灰色の光の中でも、その存在は異様な輪郭を帯びていた。
一歩、二歩――音もなく、まるで影が歩くようだった。
「包囲完了。いつでもいけます」
渡辺の声が無線に乗る。
「――いくわよ」
吉羽が囁くように命じた瞬間、数名の機動隊が影のように飛び出した。
「動くな!」
「手を上げろ!」
緊張が爆ぜた。
アーティストと呼ばれたその男は、一瞬だけ立ち止まり、薄く笑ったように見えた。
それは、まるでこの結末を知っていたかのような、不気味な笑みだった。
蛇の目が淡々と告げる。
「感情の揺らぎ、認められず。……想定内の反応」
だが次の瞬間、男は懐から小さなナイフを抜き、閃光のように走り出す。
「逃がすなッ!」
渡辺が素早く踏み込み、腕をつかんで地面に叩きつけた。周囲の隊員も雪崩れ込むように押さえ込み、抵抗は数秒で終わった。
地面に押さえつけられたその男の顔が、初めて照明の下にさらされる。
血のように赤い唇、灰色の瞳――その瞳が、椎名蒼司とまったく同じ色をしていた。
「……やっと……捕まえた……」
吉羽の声は震えていた。
蛇の目が静かに告げる。
「対象、アーティスト――確保完了」
空が、ゆっくりと白み始めていた。
灰色の夜明けの光の下で、事件の“中枢”がようやく地に引きずり出された。
だが、この捕縛が、さらなる闇の扉を開くことになることを、誰もまだ知らなかった――。