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蛇の目/requiem  作者: ふゆはる


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30/32

第30話/闇の住人

 取調室の蛍光灯が、白く冷たく、鉛のような光をテーブルに落としていた。

 鉄製のテーブルを挟んで向かい合うのは、男と科警研第二課の面々。

 その男の名は――椎名冬臣しいな・ふゆおみ


 年齢三十五歳。

 痩せた体に神経質な仕草、そして何より異様なのは、灰色のカラコンをはめた双眸だった。

 その眼差しは、人を見るでもなく、空気を舐めるように漂い、まるでこの部屋の全てを“自分のキャンバス”だとでも言わんばかりの視線だった。

 吉羽恵美は、息をゆっくりと整え、男の正面に座った。

 背後には秋山、横に渡辺と片瀬――チーム全員が、この場の空気を張り詰めた弦のように感じ取っていた。

「――椎名冬臣さん。あなたが“アーティスト”と呼ばれていた理由、私たちはもう理解しています」

 吉羽の声は静かでありながら、刃のように研ぎ澄まされていた。

 椎名は乾いた笑いを一度漏らし、ゆっくりと首を傾ける。

「“呼ばれていた”、ね……僕が名乗ったわけじゃない。勝手に、そっちがそう呼んだだけだよ」

「あなたが遺体を“素材”と呼び、コンテナに並べ、美術作品のように配置していた――違うとは言わせません」

 片瀬が抑えきれない怒りを噛み殺し、証拠写真を机の上に叩きつけた。

 白黒の写真。

 冷却コンテナの中、整然と並べられた死体群。

 その光景は“犯罪”というよりも、狂気そのものだった。

 一瞬、椎名の喉仏がごくりと動いた。

 だが、すぐに歪んだ笑みが口元に広がる。

「……あれは作品だ。美しかったろう? 死は、声を上げない。腐るまでは、完璧だ」

 渡辺が椅子を蹴って立ち上がろうとした瞬間、秋山の手が彼の肩を制した。

「……落ち着け。こいつはその“怒り”を楽しむ」

 吉羽はテーブル越しに身を少し乗り出した。

「あなたの“作品”で何人の命が奪われたと思ってるの」

 椎名は天井を見上げ、鼻で笑った。

「数える? そんなことして何になる? 命は数じゃない。並べてみれば、わかるんだよ――“美”の差が」

 その瞬間、室内の空気が一気に冷え込んだ。

 尋問室の奥で、蛇の目が静かに稼働音を立てる。

『解析開始――対象、自己顕示欲と支配衝動の複合型。発言パターン抽出中』

 椎名の目が蛇の目のカメラを見つけた。

 灰色の瞳がにやりと歪む。

「へぇ……あれが“蛇の目”か。僕の中身を覗くつもりなんだろ? でも――俺は“弟”とは違う」

 一瞬、空気がぴんと張り詰めた。

「……弟?」と吉羽が問い返す。

「椎名蒼司。……覚えてるんだろ? あいつは俺の弟だ」

 冬臣の声に嘲りが混じる。

「お前らは“蒼司”をただの協力者としてしか見ていなかったようだが、違う。あいつは、俺の絵の“始まり”だ」

 片瀬の手が震える。

 捜査の初期に現れた椎名蒼司――資金の一端を担っていた医療法人の幹部。その名前が再び浮上した。

 冬臣は続ける。

「蒼司は俺を憎んでいた。俺の“絵”を理解できなかった。

 でもな……あいつがいなきゃ、ここまで来れなかったんだよ。資金、コンテナ、協力者。全部、あいつが引き寄せた」

「……あなたは弟を利用したのね」

 吉羽の声には怒りと哀しみが滲んでいた。

「利用? いや違うさ。――芸術家と、道具の関係だよ」

 冬臣の笑みは、まるで壊れた人形のようだった。

 蛇の目が、低く電子音を鳴らす。

『対象、感情乏化。家族への情緒的結合なし。人格障害の兆候強』

 秋山の視線が吉羽と交わる。

 弟・蒼司の名が出たことで、事件の輪郭がさらに深くえぐられていく。

 この男――椎名冬臣は、ただの殺人犯ではない。

 家族すら“作品”の一部として扱う、根底からの異物だった。

 吉羽は静かに告げた。

「――弟を切り捨て、命を弄んだその芸術、ここで終わらせる」

 冬臣は笑い声を上げた。

「終わらせる? 違うよ……“お前ら”が、僕の最後の観客だ」

 蛇の目が再び光る。

 この尋問は、ただの取り調べではない。

 蛇の目が椎名冬臣の心を解体し、彼自身の“歪んだ芸術”の構造を暴き出す――その始まりだった。


 取調室の蛍光灯は白々しく光を落とし、冬臣の存在を際立たせていた。

 彼は椅子に深く腰を沈め、痩せた指先で机を一定のリズムで叩き続けている。

 そのリズムはまるで心臓の鼓動を模倣しているようで、不気味な静けさの中に“異常”が染み込んでいた。


「――僕にとって“弟”なんて、最初から人間じゃなかったんだよ」

 椎名冬臣は、まるで世間話でもするような口調でそう言った。

 その声には怒りも悲しみもなく、ただ「確信」と「快楽」だけがあった。

「蒼司は僕の“筆”だった。僕が描こうとした絵を、社会の側に橋渡ししてくれる便利な存在だった。

 ……あいつは僕の作品を“現実”にするための――ただの道具だ」

 吉羽恵美は一瞬、言葉を失った。

 弟という存在を「道具」と断じるその口ぶりには、人としての情緒が欠片も感じられない。

 冷たく、乾いた声。

 そこに“血”はなかった。

「……あなたは、本気でそんなことを言っているの?」

 吉羽の声は震えていた。しかし、それは恐怖ではない。怒りだった。

 冬臣は薄く笑い、灰色の瞳を細める。

「本気もなにも、最初からそうだった。僕は“作品”を創るために生まれてきたし、あいつは“僕の作品”を外に流すために生まれてきた。

 兄弟なんて、ただの偶然だろう? でも、偶然でも“役割”があるなら、使えばいい」

「人間を……弟を、“役割”でしか見ていなかったと?」

 片瀬が低く呟く。

「人間なんて、全部“役割”だよ」

 冬臣の声が室内に淡々と響く。

「生きる奴、死ぬ奴、作る奴、壊す奴。――僕は、その“配置”を考える側だった。それだけの話だ」

 渡辺が拳を固く握りしめ、机の下で白くなるほど力を込めた。

 目の前の男は、倫理も情も踏み躙ってなお一切の罪悪感を持たない。

 その事実が、肌を這うような嫌悪となってチーム全員に染み込んでいった。

 蛇の目が低く電子音を鳴らす。

『対象――共感能力著しく欠如。家族関係に対する認知の歪み極端。

 人格構造:冷淡、操作的、自我肥大傾向顕著』

 冬臣は蛇の目のカメラを見上げ、不気味に微笑んだ。

「お前もわかるだろ、“蛇の目”……。俺は“異常”なんかじゃない。俺は、正しい場所から世界を見ているだけなんだ」

「違う」

 秋山の低い声が静寂を裂いた。

「お前は“正しい場所”に立ってるんじゃない。お前は、ただ“壊れてる”だけだ」

 冬臣はその言葉に、愉快そうに肩を震わせた。

「壊れてる……? 壊れてるのは、お前らの方さ。

 “命”を神聖視して、価値を持たせようとする――そんな偽物の世界を信じてる」

 吉羽は拳を膝の上で握りしめ、冬臣の視線を真っ向から受け止めた。

「――命を道具にするあなたを、私は絶対に許さない」

 その言葉に、冬臣は初めて少しだけ眉を動かした。

 それは反論でも怒りでもない、ただの“興味”だった。

「いいね、そういう顔……。観客は怒っていなきゃ、舞台が締まらない」

 蛇の目がさらに解析を進める。

 この男――椎名冬臣は、弟すら道具と見なし、自らの歪んだ世界観の中に全てを組み込んでいる。

 理屈で説得できる相手ではない。

 だが、その異常さこそが、事件の根を解く鍵になる――。

 尋問室の空気は、さらに冷たく、さらに濃くなっていった。

 彼の主張は、人間の“狂気”そのものであり、まさに常軌を逸していた。


 取調室には、もう何時間も時計の音だけが響いていた。

 長い尋問の中で、誰もが一度は「こいつは悔いる瞬間が来るのではないか」と思った。

 だが――その期待は、あっけなく裏切られ続けている。


 椎名冬臣は、まるでどこかの講堂で演説でもしているかのような調子で、己の“理屈”を語り続けていた。

 悔いも、怒りも、悲しみも、そこにはない。あるのは――冷たい確信だけだった。

「――俺がやったことは、ただ“形”を作っただけだ。

 この世界に満ちる“無駄な命”を、少しばかり美しく並べ替えただけ。

 それの何が罪になる?」

「何が罪になる……?」と渡辺が低く吐き捨てるように呟いた。

 怒りが喉の奥で震えている。

 冬臣はその声を拾い、まるで獲物をからかうような目で笑った。

「そう。お前らはいつも“命は尊い”とか“犯した罪は償え”とか言うだろ。

 でもな……俺に言わせれば、それはただの“おとぎ話”だ。

 価値なんてない命を並べるより、美しく処理した方がまだ意味がある」

 片瀬の視線が冬臣に突き刺さる。

「……美しく処理、だと?」

「そうだ。人は死ぬ。いつかはみんな朽ちる。それなら、ただ腐らせるより、俺の“作品”として並ぶ方がマシじゃないか?

 あのコンテナの中は、完璧だった。音も匂いも、余計な感情もない。ただ“造形”があるだけ。あれは……永遠なんだよ」

 秋山が深く息を吐いた。

「……お前は、ほんとうに一度も後悔していないのか」

「後悔?」

 冬臣は眉をひそめることすらなく、鼻で笑った。

「なぜ俺がする? 俺は、間違ったことなんてしていない。

 むしろ、俺の作品を壊した“お前ら”の方がよっぽど罪深い」

 吉羽恵美は、その言葉を聞いて背筋に冷たいものが走った。

 人を殺めてもなお、自分を「創造者」だと信じて疑わないこの男――。

 そこには人間らしい悔いも、痛みも、罪の意識も、ひと欠片もない。

 蛇の目が解析結果をモニターに流す。

『対象、良心の呵責ゼロ。道徳的判断能力に著しい欠損。

 自己の信念体系に基づき犯行を“芸術”と正当化』

 吉羽がゆっくりと口を開いた。

「……あなたは、自分が神にでもなったつもりなの?」

 冬臣の灰色の瞳が、ゆっくりと彼女を捉える。

 その視線は人を見ているというより、まるで“素材”を観察しているようだった。

「神? そんなもの、信じちゃいない。

 でも、俺には“見る目”がある。お前らとは違う世界が見えるんだ。

 人の命を“崇める”視点じゃなく、“配置する”視点がな」

 片瀬が唇を噛んだ。

「……お前は、壊れてる」

「壊れてるのは、お前らだ」冬臣は即座に言い返した。

「俺の世界では、泣き叫ぶ声も、命の価値もいらない。

 ただ、美しいか、美しくないか――それだけだ」

 吉羽は目を伏せ、深く息を吐いた。

 この男には、贖罪も、後悔も存在しない。

 感情の通路が閉ざされている。

 だが、それでも――罪は消えない。

 秋山が椅子を引き、静かに立ち上がった。

「――いいか、冬臣。お前が何を主張しようと、世界はお前を“犯罪者”として裁く」

「裁き?」

 冬臣の口角がゆっくりと吊り上がる。

「裁いてみろよ……俺の“作品”を見て、誰が本当に俺を否定できるか――見ものだな」

 その笑みには、悔いなど影もなかった。

 あるのは、狂信者が信仰を語るような、凍てついた確信。

 その異常さに、誰も言葉を返すことができなかった。

 ――この男は、終わっている。

 そう痛感しながらも、彼らは“この狂気”の奥に潜む真実を、なおも引きずり出さなければならなかった。

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