第58話:朱妃、いまさら知る。
「光輝嬪をお救いせねばなりません」
朱妃はそう宣言した。羅羅と雨雨は視線を交わし、頭を下げる。
「是。朱妃様の思うがままに。ですが少々意外です。朱妃様は光輝嬪のことを苦手に思っているのかと考えておりました」
「是。仰せのままに。ですが妃嬪らの間では敵対者を蹴落とそうと思うのが一般的ですし」
羅羅と雨雨がそれぞれ口にした。
御座船で光輝嬪と話した時の事を思い返す。蒼穹が如き瞳が鋭く朱妃を見据えていたことを。高慢にも近い程に自信に溢れた態度や言葉を。
「なるほど、確かに彼女は男性的で正直ちょっと苦手だなと思います。雨雨の言うこともその通りでしょう。ですがロプノールには『敵が砂漠に渇いていたら、一杯の水をやれ』という諺があります。瓏にはそういう言葉はありませんか?」
「……窮鳥入懐が近いですかね」
追い詰められた鳥が懐に入ったとき、仁のある者はそれを憐れむ。戦いに敗れ困窮し、助けを求めて来た者は大切に扱うべきだと。そういう言葉があると雨雨は答えた。
朱妃は頷く。
「光輝嬪が本宮に助けを求めているというわけではありません。あの方は他人に助けを求めるような弱みは見せないでしょう」
朱妃はそこで言葉を区切る。そしてこう続けた。
「それでもこれは一つの機会、好機とも言えるのではないでしょうか」
「確かにそうでしょう。奇貨、居くべし、ということですかね。かしこまりました」
雨雨は瓏の言い回しに換えて表現し、拱手した。珍しき品物を見つけたら手に入れておくべきという意味の言葉であり、好機を逃すなという意味である。故事において商人が買ったのは困窮していた人の子であるし、捕えられているという光輝嬪に手を差し伸べるのは確かにそれと同義であろう。
朱妃の言い分は分かる。光輝嬪が朱妃と無関係にいなくなったとして、それは競争相手が一人減っただけ。一方で光輝嬪に恩を売れば、敵が減り味方が増える可能性もあると言うことだ。
「どうすれば救えるでしょうか」
「まずは癸氏に相談してみるべきでしょう」
「では雨雨、お願いします」
「是」
雨雨は支度をすると、癸氏に渡りをつけるため急ぎ宮を出ていった。
朱妃と羅羅は朝食の用意に倒坐房へと向かう。無論、朱妃はダーダーを連れてである。
途中、庭の辺りで羅羅がくすりと笑った。
「朱妃様、好機であるなどという理由、その場で考えましたね」
「うっ」
「昔からシュヘラ姫はお優しゅうございましたから」
光輝嬪を何とかしてあげたいというのは、優しさに起因するものではないと朱妃は思う。
この紫微城の後宮でも着いて早々に嫌がらせを受け、女官たちも羅羅と雨雨しかおらず、癸氏は自分を気にかけてくれているが後宮に出入りできぬ身。
心細さとか、そういう感情が自分を動かしているのではないだろうか。
さて、それからしばらく時間が過ぎる。雨雨が戻ってきたのは朱妃らが朝食をとうに終え、もう太陽が中天にかかる頃であり、昼の支度をしている頃であった。
「随分と大変だったみたいね。お疲れ様でした」
「ありがとうございます。癸昭様に直接お会いすることは叶いませんでした」
彼女はそう報告する。
皇帝陛下に拳を振るうというのは大事件である。先ほどは朱妃も雨雨も慌てていて気付かなかったが、下手をすれば光輝嬪を連れてきた癸氏すら処刑されかねないことであった。
「癸氏はご無事なの?」
「拘束されたりはしておりませんが、対応のため現在は刑部に向かっているとのこと」
三省六部が長年、中原の政治・官僚体制の基本である。瓏は初代皇帝が皇帝への権力集中を計り三省を排したが六部は残った。このせいで瓏は官僚の立場が低く、宦官の勢力が強いという。
さておき刑部はその一つで司法や警察に関わる部署である。
「使者を送り、お手紙いただいて参りました」
「まあ」
女官が前宮に入ることはできない。雨雨が刑部の建物まで人を派遣して一筆書いてもらうことができるというのは彼女の有能さに他ならぬであろう。
雨雨は二通の書状を朱妃に渡した。
「雨雨、お食事は?」
羅羅は疲れた表情の雨雨に声がけた。
雨雨の腹の音がそれに答えた。
「ええと」
朱妃は雨雨に食事をさせ、二通の書状を見比べる。
一通は正式な書簡の形式で、もう一通は簡素に紙を折っただけのものだ。まずはその紙片の方をぺらりと捲る。
『朱緋蘭へ
そちらより連絡をくれたこと、光輝嬪を気遣ってくれていること感謝します。彼女に会えるよう書状を用意しました。
話は今宵、月が中天に至る頃に。
癸昭』
走り書きのような筆体であった。忙しいところを書いてくれたのだろう。
そして、今夜の訪いが予告されていた。また仮面を、聖君の臉譜を被ってくるのだろうか。
もう一通を手に取る。
認められていたのは、朱妃と光輝嬪の面会を許可するということ。次いで刑部尚書、つまり刑部の長の役職名とその名と朱印が捺されていた。
そして最後に礼部尚書の文字と癸昭という名、そして朱印。
ひゅっ、と朱妃の喉が鳴る。
「えっと」
「どうされましたか?」
「あのですね、そういえば私、癸昭様の役職って聞いたことがなかったような……」
雨雨は当然であるようにさらりと答えた。
「礼部尚書ですね」
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