表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

それなりに怖いホラー系の作品集

浮気している婚約者に羊料理を盛大に振舞う令嬢のお話

「今宵の晩餐はご満足いただけたでしょうか?」

「伯爵領では羊が名産と聞いていたが、実に見事なものだった。感服したよ」


 王都の貴族街にあるディークプライン伯爵家のタウンハウス。その食堂で、食後の会話を楽しむ一組の男女がいた。

 

 男の名はディーニエル・アイグノーラン。アイグノーラン子爵家の第三子だ。

 さらりとした金髪にすっきりした鼻梁。その顔立ちは整っていて、切れ長の緑の瞳には鋭さがある。その顔には自信がみなぎっていた。彼は学園では常に上位の成績を保ち、魔法の扱いにも長けている英俊だ。

 17歳の秀麗で才気あふれる青年だった。

 

 女の名はエストリシア・ディークプライン。ここディークプライン伯爵家の第三子だ。

 腰まで届く明るめのアッシュグレーの髪。緩いウェーブのかかったその髪は、空に浮かぶ雲を思わせるやわらかなものだ。大粒の瞳は、晴れた日の湖畔を思わせる蒼。

 貴族令嬢は気高さにこだわるあまり、時として近寄りがたい雰囲気を纏うことがある。しかしこの令嬢にはそうした空気はない。むしろ温かな春の陽だまりを思わせる和やかさがある。

 16歳の穏やかで落ち着いた令嬢だった。

 

 二人は婚約を交わしてから二年となる。今宵は伯爵令嬢エストリシアの申し出で夕食を共にした。

 ディークプライン伯爵家は広大な領地を持ち、畜産を主産業としている。その中でも羊が有名だ。伯爵領産の羊毛や羊肉は、この王国において高い評価を得ている。

 そんなディークプライン伯爵家の娘であるエストリシアの用意した晩餐は羊肉のフルコース料理だった。ハーブソテー、もも肉のステーキ、串焼き、シチューなどなど。どれも最上級の羊肉を一流のシェフが手掛けた逸品だった。子爵子息ディーニエルは、貴族でもめったに味わえない珠玉の料理の数々を存分に楽しんだ。


「実は今日はプレゼントも用意してあるんです」


 食後の歓談もひと段落着いた頃、エストリシアがそう切り出した。するとメイドの一人がディーニエルのもとにやってきて、恭しくウール製のマフラーを差し出した。

 色はやや黄色がかった白。派手過ぎず、しかし目を引く色だった。ディーニエルはこのマフラーの色合いに妙にしっくりするものを感じた。

 

「なかなかいい品だな。これも伯爵領産のものか?」

「いえ、そのマフラーはわたしが編んだものです」


 ディーニエルは改めてマフラーを確かめた。編み目に乱れひとつなく、手触りもいい。素人の作ったものとは思えない出来栄えだった。


「……編み物が趣味とは聞いていたが、これほどの腕前とは思わなかった。見事なものだな」

「ありがとうございます。お褒めいただきうれしいです」


 エストリシアははにかみながら賛辞を受け取った。

 包装もせずいきなりプレゼントを渡すのは妙だと思ったが、手編みのマフラーを見せたかったのだろう。

 ひとしきり見せてもらった後、いったんマフラーをメイドに返した。帰る時に包みに入れて渡してくれるとのことだった。

 

 それらのことが終わった後。ディーニエルはふと問いかけた。

 

「忘れていたのならすまない。ひょっとして、今日は何かの記念日だっただろうか?」


 特に前置きもなしに招かれた晩餐だった。しかし出てきたのは(ぜい)を凝らした羊肉料理の数々に、手編みのマフラーのプレゼントまで渡された。ディーニエルの誕生日はまだずっと先だし、ここ最近で思い当たる行事もなかった。

 

「いいえ。違います。ディーニエル様に、伯爵家とわたしのことを、もっと知っていただきたいと思ったのです」


 エストリシアの声は穏やかだったが、ディーニエルはその言葉に皮肉めいたものを感じていた。

 穏やかな晩餐の時間を過ごした二人だったが、その婚約関係は冷めている。正確にはディーニエルの方が一方的にエストリシアのことを疎んでいるのだ。




 ディーニエルは優れた能力を持つ野心にあふれた青年だった。だが子爵家の第三子という立場は弱い。少々成果を出したところで、子爵家の第三子に過ぎない彼に目をかけてくれる者はいなかった。能力に見合った待遇が得られないのがずっと不満だった。

 

 そんな中、ようやくチャンスが訪れた。広大な領地を持つディークプライン伯爵家との縁談がやってきたのだ。なんでも伯爵家からの申し出らしい。ディーニエルはようやく自分の能力が認められたのだと思った。

 だがその婚約は彼の野心を満たしてくれるものではなかった。婚約相手のエストリシアは自分と同じ第三子であり、将来与えられる領地も権限も限られたものしかない。家同士の関係を結ぶのが目的であり、ディーニエルが勝手をすることは許されない。そういう政略結婚だった。

 

 エストリシアは裕福な伯爵家に相応しい、穏やかで落ち着いた令嬢だった。柔和な雰囲気は人を穏やかな気持ちにさせるだろう。それは得難い魅力だと言える。しかしその穏やかさは、ディーニエルの野心を鈍らせるものだった。

 婚約者の穏やかな微笑みを目にするたびに、「上を目指さずここで満足しろ」と言われているような錯覚にとらわれた。本来なら子爵家の第三子が伯爵家の令嬢を娶るなど望外の幸運だ。だが野心あふれるディーニエルにしてみれば、ご馳走を目の前にしておあずけを喰らっているようなものだった。

 エストリシアの穏やかな顔を見るのが苦痛だった。彼女との関係は、婚約者として最低限の義務を果たすだけのものとしていた。

 だからこんなふうにエストリシアから歩み寄られると、自分の不実を責められているように思えてしまうのだ。




「羊は伯爵家にとって大切な家畜ですが、幼いころは苦手でした」


 物思いに耽っていると、エストリシアの言葉に現実に引き戻された。

 現状に不満はあるが、それでも伯爵家と縁を結ぶ重要性はディーニエルも理解している。もし破談にでもなれば彼の立場は無くなる。そうなれば栄達どころの話ではない。改めて気を引きしめる。すると、エストリシアの言葉にひっかかるものを感じた。


「羊が苦手……? それはまたどうしてだ?」


 ディークプライン伯爵家の令嬢なら、羊の重要性を幼い頃より教えられていただろう。質の高い羊料理を普段から口にしていたはずだ。先ほどのマフラーにしても編み物の力量も相当なものだから、羊毛への理解もそれなりにあることだろう。そんなエストリシアが羊が苦手だったというのは意外なことだった。


「伯爵領では子供を躾けるとき、『悪いことをしていると魔法で羊に変えられて毛を剃られるぞ』と言うのです。羊になって毛を剃られると、人間に戻ったときに肌がヒリヒリして泣くほど痛くなるそうです。子供のころ、それをすっかり信じてしまって、羊に関わるものが怖くてたまりませんでした」


 どんな理由かと思えば、実にかわいらしい理由だった。エストリシアは良家の令嬢として恵まれた暮らしをしてきたのだろう。それによって培われた穏やかさは、話しているだけで気持ちが和んでいく。だがそれは、野心を鈍らせる毒だ。ディーニエルは思わず顔をしかめた。


「どうやら浮かないご様子ですね。最近、学園でミューフレラ嬢を見かけません。やはりディーニエル様も、そのことが心配なのですか?」


 急に関係のない話題を振られ、ディーニエルは思わず声を上げてしまいそうになった。

 男爵令嬢ミューフレラ・シアドゥール。

 肩まで届くホワイトブロンドの髪に勝気そうな薄桃色の瞳。豊満な胸にくびれた腰。その所作は礼儀作法に則った堅苦しいものではなく、しなやかで柔らかなものだ。

 彼女は貴族の学園に通う同級生だ。その色香あふれる見た目は下品ととられ、あまり評判はよくない。生徒の多くが彼女のことを下品と評する。それでも目を引く容姿であることに変わりはない。様々な男子生徒と関係を持っていると噂され、話題に上がることも少なくない令嬢だ。

 

 ディーニエルは彼女のことをよく知っていた。知っているどころか、親密と言ってもいい関係だった。

 初めてミューフレラと話したとき、自分と同種の人間だとすぐにわかった。彼女には野心がある。あまり裕福ではない男爵家の令嬢が、色香で上位貴族をたぶらかし玉の輿にのることを狙っているのだ。

 婚約者と冷めた関係にあるディーニエルはその標的とされた。野心をあきらめざるを得ない状況にある自分に言い寄ってくる、野心にまい進する令嬢。面白くなかった。その鼻っ柱を叩き追ってやりたくなった。

 ミューフレラの仕掛けてくる甘い言葉や、魅力的な身体を駆使したアプローチ。ディーニエルはそれを読み切り一定以上近づけさせなかった。そんな駆け引きを繰り返すうち、気づけば彼女とのやりとりが楽しくなった。

 

 ミューフレラとのそうしたやりとりは一年以上続き、次第にいっしょに過ごす時間が増えていった。そうすると不思議なもので、だんだん彼女のことが好ましく思えてくるようになってきた。ミューフレラの方もここ最近は、駆け引きとは思えない自然な笑顔を見せるようになってきた。

 だがディーニエルは自分の立場をわかっている。男爵令嬢との火遊びで立場を失うほど愚かではない。許すのはせいぜいキス程度。閨を共にすることなどありえない。潔癖な者が見れば浮気と断ずるだろうが、彼にとっては遊びに過ぎない。

 

 そんなミューフレラの名前がこんな場で、しかもエストリシアの口から出るとは思わなかった。


「言われてみれば最近、学園では見かけないな。病気にでもなったのだろうか?」


 内心の動揺を抑えながら、気のない素振りで言葉を返す。実際、少し心配していた。ここ2週間ほどミューフレラは学校に通っていないようなのだ。どこかの男と夜逃げしたとか、婚約者を取られた令嬢に刺されたなど、噂はいくつも出回っているが真相はわからない。学園やシアドゥール男爵家に問い合わせればわかるかもしれないが、それで関係を疑われるわけにもいかない。


「だが、なぜわざわざそんなことを聞いてくるんだ?」


 ミューフレラとの付き合いは周囲の目を引かないよう気をつけてきた。街に繰り出すときは変装もした。ミューフレラは数多くの男子生徒と関係を持っていたから、もし見つかったとしてもそう不審に思われることはないだろう。

 それでもエストリシアが浮気に気づいていた可能性はある。食事を終えて油断したときに、探りを入れてきたのかもしれない。いや、この穏やかな令嬢がそんな狡猾な真似をしてくるだろうか……ディーニエルは平静を装いながら、内面では激しく思考を巡らせていた。

 様々な可能性を考えているディーニエルだったが、次のエストリシアの行動は全く予想できないものだった。


「実は彼女の落とし物を拾ったのです。それを返してあげたいのですが、機会が無くて……」


 そう言いながらエストリシアがテーブルの上に出したものを目にしたとき、ディーニエルは自分の心臓が止まるかと思った。

 三日月を模した銀製のペンダント。高級品ではない。貴族の通う学園に通う生徒なら小遣いで買える程度の品だ。普通なら気にも留めなかっただろう。だがディーニエルは動揺を抑えきれなかった。

 

 なぜならそれは、ミューフレラへ初めて贈ったプレゼントだったからだ。

 

 ミューフレラと話す機会が増えた頃。ちょっとした気まぐれで露店で見かけたペンダントを買ってやった。「こんな安物を渡してどういうつもりですか?」などとむくれていた彼女が、未だにそのペンダントを大事にしていることを知っている。


 ミューフレラがうっかりペンダントを落としてそれをエストリシアが拾ったというだけなら、ありうることだ。だがこの場で出されたのならまるで意味が異なる。

 エストリシアはこのペンダントがミューフレラの物だということを確信している。しかも、わざわざディーニエルに見せてきたということは、エストリシアは浮気について詳細に把握しているということになる。


「あらあら、ディーニエル様、お顔が真っ青ですよ。お話はこれからが本番ですのに……」


 浮気されたのなら怒るはずだ。厳しく糾弾してくるはずだ。それなのにエストリシアは穏やかな微笑みを浮かべている。何を考えているのかわからない。どんな感情を秘めているのかわからない。見慣れたはずの微笑みが、今は恐ろしく思えた。

 

「先ほど、子供の躾けのお話をしましたよね? 『悪いことをしていると魔法で羊に変えられて毛を剃られるぞ』。あれは実は祖先の行いが原因なのです」


 またしても予想外の方向に話題が飛び、ディーニエルは目を瞬かせた。戸惑う彼の様子にかまわずエストリシアは話を続けた。

 

「かつて我が一族は、人を羊に変えてしまう呪いの魔法『未来なき子羊(シールド・シープ)』によって土地を支配していました。我が一族を邪魔する悪者を、羊に変えて然るべき罰を与えていたのです。今ではそうした仕置きはしなくなりましたが、遠い昔のことが伝わって、子供を躾ける怖い話になったというわけです」


 先ほど羊料理について語っていた時と変わらない調子だ。穏やかに、どこか誇らしげに語っている。おぞましい歴史を何の気後れもなく語る婚約者の姿に、ディーニエルはひどく不吉な予感を覚えた。

 

未来なき子羊(シールド・シープ)は強力な魔法でした。術者が呪いを解かない限り、決して人に戻ることはできなかったと言います。皮を剥がれても、切り刻まれても、焼かれても、煮込まれても……決して、人の身体に戻ることはなかったそうです」


 エストリシアの言葉に導かれ、ディーニエルの中で恐るべき考えが組み立てられていった。

 今夜振舞われた羊料理のフルコース。

 二週間も姿を見かけないミューフレラ。

 浮気を詳細に把握していたエストリシア。

 なぜかここにあるミューフレラに贈ったペンダント。

 これらのことをつなぎ合わせることで浮かび上がる、おぞましい結末。


「き、君は! 君は今夜、私に何を食べさせたのだ!?」


 ディーニエルは声を震わせながら問いかけた。

 未来なき子羊(シールド・シープ)という呪いの魔法で本当に人を羊に変えられるのなら。命を奪ってもその魔法が解けないのなら。切っても焼いても煮込んでも羊のままでいるのなら。

 人の身体を、それと知られず、料理として振舞うことができることになる。

 だがそんな冒涜的なおぞましいことを受け入れられるわけがなかった。否定してほしかった。バカな話だと笑い飛ばしてほしかった。


「晩餐の素材は、あなたが心を奪われてしまうくらいかわいらしい子羊でした。さぞやおいしかったでしょう?」


 エストリシアはにこやかに答えた。明るくて優しくて、陰のない笑みだった。しかしディーニエルは見た。その瞳の奥で燃え盛る炎を。

 その瞳に確信させられた。エストリシアは浮気相手を羊に変えて、浮気した愚か者に食べさせたのだ。

 ディーニエルは椅子から転げ落ちた。胸から熱いものがせりあがってきた。耐えられずそれを吐き出した。一度吐くと後から後から吐き気が湧き上がり、げえげえと吐き続けた。今晩食べたものを一片たりとも自分の体の中に残しておきたくなかった。

 床に這いつくばり嘔吐する姿は、あまりにみじめでみすぼらしい。ディーニエルは自分がどう見えるかなんて気にする余裕などなかった。根源的なおぞましさに身を震わせるばかりだった。

 

 ひとしきり吐いたあと。視界の隅にスカートの端が見えた。見上げると、いつのまにかエストリシアが近くに来ていた。彼女が自分のことを見下ろしていた。

 

「あらあら、ごめんなさい。少し脅かしすぎてしまったようですね」

 

 彼に向けられるまなざしに侮蔑の色はない。嫌悪感もない。むしろ慈しみに満ちている。眉を寄せた顔も、優し気な声も、まるで子供の粗相をたしなめる母親のようだった。

 ディーニエルはがくがくと震えた。こんなにもおぞましい所業に及んだというのに、まるで日常の一幕であるかのような態度を保つエストリシアのことが恐ろしくてたまらなかった。


「あの方を連れてきてください」


 エストリシアが命じると、メイドの一人が食堂から出て行った。

 次に何が起きるのか。ディーニエルは立ち上がることもできなかった。鼓動が早まり、息が荒くなる。全身に汗をかいている。身体は全力で逃げ出したいと叫んでいるのに動くことができない。全身に重しがつけられたみたいだ。恐怖という名の重しが、ディーニエルの動きを封じていた。

 そして、食堂の扉が開き、誰かが入ってきたのが分かった。だがディーニエルは恐怖のあまり、そちらに目を向けることすらできなかった。それどころか目をぎゅっと閉じてしまった。


「ディ、ディーニエル様!? いったいどうされたのですか!?」


 聞き慣れた声が響いた。信じられない思いで顔を上げると、見知った令嬢がいた。ホワイトブロンドの髪に、勝気な薄桃色の瞳。間違いない。男爵令嬢ミューフレラがそこにいた。

 

「ディーニエル様にお仕置きしようと思ってサプライズを仕掛けたのですが……ちょっと効きすぎてしまったようですね……ごめんなさい」


 エストリシアの謝罪の声がどこか遠く聞こえた。ディーニエルはこの事態がどういうことなのかわからない。思考がまるで追いつかなかった。

 ミューフレラは生きていた。子羊にされてはいなかったのだ。そのことだけを、かろうじて理解した。




 ディーニエルは客室に通され、用意してくれた服に着替えた。身を整え落ち着いた頃、エストリシアがやってきて、事情について説明した。

 二週間ほど前、ミューフレラは突如体調を崩し、街中で倒れた。それを偶然見つけたエストリシアがタウンハウスで保護したとのことだった。学園にはきちんと説明してあるし、ミューフレラのシァドゥール男爵家にも連絡済みとのことだった。

 エストリシアはディーニエルの浮気を知っていた。そこでお仕置きしてやろうと、伯爵領に伝わる昔話を利用したのだ。

 

 そう説明されたが、ディーニエルは言葉通りに受け取ることできなかった。婚約者の浮気相手が倒れたところに偶然に遭遇するなどあり得ない。おそらくはミューフレラの動向を監視し、拉致したに違いない。

 それに自分のタウンハウスに保護するというのもおかしい。普通なら婚約者の浮気相手なんて、家に上げることすら嫌なはずだ。わざわざ自分の家に二週間もとどめるなどあまりに異常な行いだ。

 

 ここまでくればエストリシアの意図が分かった。これは警告だ。エストリシアは力ある伯爵家の娘だ。その気になれば男爵令嬢の一人くらい、いつでも「料理できる」。そのことを思い知らせるために今夜のことを仕組んだのだ。

 普段のディーニエルなら、こんな悪趣味な狂言を仕掛けられたら、怒りにかられていただろう。浮気という負い目があろうと、相手の非を徹底的にあげつらい、自分に有利となるよう状況を作り上げただろう。彼にはそれを可能とするだけの能力がある。

 しかし今は、そんな気は全く起きなかった。


 穏やかな令嬢だと思っていた。これまで婚約者としての義務的な付き合いしかしていなかった。しかしその胸の内にこんなにも苛烈な想いを秘めていたのだ。

 ディーニエルはエストリシアのことが、恐ろしくてたまらなくなってしまったのだ。

 

 ディーニエルは頭を下げて、浮気について誠心誠意謝った。エストリシアは怒りを見せることもなく、厳しい言葉を投げかけることもせず、ほほ笑んで謝罪を受け入れてくれた。

 

 

 

「それではそろそろお暇させてもらうよ……」


 ディーニエルは帰途に就くことにした。

 玄関でエストリシアとミューフレラが見送りに来てくれている。

 ミューフレラは未だ体調が万全ではないということで、このタウンハウスにとどまるとのことだった。彼女をここに残していくのは不安だったが、ディーニエルにできることはない。もしミューフレラに対する執着をわずかにでも見せたら、エストリシアがどう動くかわからない。それは想像するだけで恐ろしいことだった。

 

 そうして帰ろうとしたところ、メイドがやってきて手提げ袋を渡してきた。

 

「これは……?」

「お嬢様の贈り物です」


 そうだった。手編みのマフラーを贈られていたのだ。あまりに衝撃的な出来事があったので失念していた。

 そして、ディーニエルは今頃になって、その色合いに見覚えがある理由に気づいた。黄色がかった白のマフラー。それがミューフレラの髪と同じ色だということに気づいてしまったのだ。

 思わずエストリシアに尋ねようとした。その機先を制するかのように、彼女はミューフレラに話しかけた。

 

「そういえばミューフレラさん。背中のお加減はいかがですか?」

「は、はい。だいぶ痛みは引きました。ヒリヒリする感じはもうほとんどありません」

「それはよかったですね。これなら明後日くらいには復学できますね」


 交わされる会話に、エストリシアの言葉を思い出した。

 

 ――伯爵領では子供を躾けるとき、『悪いことをしていると魔法で羊に変えられて毛を剃られるぞ』と言うのです。羊になって毛を剃られると、人間に戻ったときに肌がヒリヒリして泣くほど痛くなるそうです。

 

 ミューフレラは生きていた。羊に変えられ、料理されたというのは嘘だった。だから彼女が呪いの魔法で羊に変えられたなんてことはないと思っていた。

 だがそれは違うのではないか。ミューフレラは本当に羊に変えられてしまったのではないか。そして……。

 ディーニエルは総毛立った。無意識にマフラーの入った手提げ袋を取り落としそうになった。

 

「ディーニエル様!」


 突然、エストリシアがぎゅっと、手提げの紐ごと手を握ってきた。そのおかげで手提げ袋はその手に留まった。

 彼女は熱のこもった目でディーニエルのことを見つめていた。

 

「わたしたちはまだまだ未熟です。過ちを犯すこともあるでしょう。でも、二人の仲が離れそうになった時は、わたしはいつだって羊料理を用意して、編み物をします! だからこれからも仲良くしてくださいね!」


 それは恐ろしい言葉だった。エストリシアは、もし二人の仲を邪魔する者が現れれば、羊に変える呪いの魔法『未来なき子羊(シールド・シープ)』で排除すると言っているのだ。

 

「わからない……私のことを嫌いになったのではないのか?」


 エストリシアはこんなにも手の込んだ警告をしてきた。あまりに異常で苛烈な仕打ちだったが、それでも警告にとどめたということは、この婚約関係を続ける意思があるということだ。

 冷めた婚約関係だった。浮気までした。普通なら愛想も尽きるはずだ。ディーニエルの有責で婚約解消となっても文句は言えない。それなのに、エストリシアは文句も言わずに謝罪を受け入れてくれた。彼女が別れを告げてこないのか不思議で仕方なかった。

 エストリシアはまっすぐにディーニエルのことを見つめながら言い募った。

 

「わたしはきちんと反省してくれる男性が好きなんです。ディーニエル様は今、とってもいいお顔をされています!」


 ディーニエルは浮気を手ひどく咎められ、打ちひしがれている。今にも泣きだしたかったが、ギリギリこらえている。それでもその顔には濃い影が落ちている。はたから見ればさぞ見すぼらしい姿だろう。こんな情けない男を好きになる者などいるだろうか。

 だが、エストリシアは「いい顔」だと言った。熱のこもった声で、潤んだ瞳で、そう言ったのだ。彼女の言葉からは抑えきれない愛しさが感じられた。

 

 そして、ディーニエルの明晰な頭脳は、この異常な状況を説明する理由に至ってしまった。おそらくは逆なのだ。「情けない男が嫌い」なのではない。「情けない男が好き」なのだ。エストリシアは、心を折られて絶望に沈む男がいいのだ。

 そう考えればいろいろと腑に落ちることがある。少々優れた能力があるとしても、特別な縁もない伯爵家から婚約を申し込まれるのはおかしなことだ。それはエストリシアが自ら望んで画策したというのなら説明がつく。

 

 浮気した男を咎めるのにあんな異常な手段を選んだのもそうだ。普通に浮気の糾弾を受けたなら、ディーニエルは抗ったはずだ。議論を交わせば痛み分けぐらいにはもちこめただろう。少なくとも一方的に屈服させられることはなかったはずだ。

 だが、あそこまでの異常でおぞましい手段で責められれば、彼の才覚でも対応できない。事実、ディーニエルの心はこれ以上ないまでに叩き折られた。もはや抗う意思を持つことすらできない。

 

 自分の手で屈服させた男を愛する。あまりに歪んだ異常な性癖。きっとそれがエストリシアの愛し方なのだ。

 ディーニエルは、恐るべき令嬢に見初められてしまった。顔が真っ青になり、全身から脂汗が流れ、身体は小刻みに震えだした。

 エストリシアは手をぎゅっと握り、そんなみじめな婚約者の姿を、うっとりと眺めるのだった。

 

 

 

 どんなに嫌でも、婚約を解消して逃げることはできない。

 どんなに恐ろしくても、羊料理を出されたら食べるしかない。

 どんなにおぞましくても、手編みのマフラーを捨てることはできない。

 エストリシアを拒めば、それがどんな結果を招くことになるか。そのことを想像するだけでディーニエルは何もできなくなる。心の奥底に刻み込まれた恐怖が、彼の自由を奪う。


 ディーニエルはこれからの一生をエストリシアと共に過ごすことになる。彼女におびえ、へりくだる日々を送ることになる。それはディーニエルにとっては不幸なことだが、エストリシアにとってはこの上なく幸福なことなのだ。



終わり

とあるゲームで「敵キャラを羊に変えて一時的に行動不能にする」という魔法がありました。

それで「浮気相手を羊に変えて、浮気した男にお仕置きする」というネタを思いつきました。

最初はその羊をモグモグしてしまう展開も考えていましたが、さすがに書くのに抵抗がありました。

それなら羊毛を使えばいいと思いついてこういうお話になりました。

今回は羊に助けられたという感じです。


2025/10/29 18:40頃

 誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
タイトル見た瞬間、双脚羊なお話かと思いました。 話の中盤まで、やっぱり双脚羊かぁって思いましたw 怪我(毛)なく良かったですw
マトンの味らしいですね。
いっぱい食べる君が好き♪ ディーニエルは憐れなストレイシープ。 これから先は牧場主に生殺与奪を握られた羊のように、沈黙を守って生きるのでしょう。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ