第39話:『王の器と天翼の軍師』
王宮の奥深く、皇帝個人の広大な書庫。
高い天井まで続く書架には古今東西の知識が眠る羊皮紙の巻物がびっしりと並んでいる。窓から差し込む月光が空気中を舞う微かな埃をキラキラと照らし、そこはまるで時が止まった聖域のようだった。
その中央で、私は皇帝ゼノンと宰相アルバートに対峙していた。
軍師のローブを脱ぎ、変声器を外したただの八歳の少女の姿で。
皇帝が語った理想――覇権ではなく、全ての民が安寧に暮らせる永続する平和。それは私が心のどこかでずっと望んでいた未来そのものだった。
目の前にいるこの人はただの征服者ではない。真の『王』だ。
私の心の中で最後の迷いが、霧が晴れるように消えていった。
「……陛下」
私は顔を上げた。その声はもう震えていなかった。
「陛下のその気高き理想、必ずやこのリナが実現させてみせます」
そして私は、自らが密かに練り上げていたいくつかの非情な殲滅作戦の概要を、二人の前で包み隠さず語り始めた。経済破壊、内乱誘発、離間の計……。その一つ一つが王国を確実に滅亡へと導く悪魔的な策略だった。
私の言葉を聞くうちに、宰相の顔がわずかに青ざめていくのが分かった。
「……このような手段を用いれば、王国を滅ぼすことは造作もありません」
私は静かに、しかしきっぱりと言い切った。
「ですが私は、この手で無辜の民を苦しめ、陛下の治世とこの帝国の歴史に拭い去ることのできない汚点を残したくはありません。それは陛下の望む『平和』とは似ても似つかぬものですから」
私の心の底からの吐露だった。
私は、一呼吸置くと、その場で、深く、深く、最敬礼をした。
「……陛下の真の平和を望むその気高きお心を伺うことができ、私の進むべき道がはっきりと見えました。光栄に存じます」
そして、顔を上げぬまま、静かに、しかし決して折れることのない意志を込めて続けた。
「陛下のその理想を成就させるためこのリナ、持てる知恵の全てを捧げ全力を尽くすことを、ここにお誓いいたします」
その言葉に、皇帝と宰相は言葉を失っていた。
目の前のあまりに小さな少女が語るあまりに巨大でそして気高い覚悟。そのアンバランスな光景に二人はただ戦慄するしかなかった。
やがて皇帝は深いため息をつき、そして心からの笑みを浮かべた。
「……見事だリナ。そなたは余の想像を常に遥かに超えてくる」
彼は私の前に歩み寄ると、その大きな手で優しく私の頭を撫でた。
「良いだろう。そなたに帝国の未来を託す。思う存分その才を発揮するがよい」
その時、ずっと黙っていた宰相が一歩前に進み出た。
「陛下。……グレイグ将軍と軍師殿の昇進をどうお考えでしょうか。これほどの功績を挙げて来ている者を今の地位に留め置くのは、他の将兵への示しがつきませぬ」
その言葉に皇帝は満足げに頷いた。
「うむ。余も同じことを考えていた。……後日、正式な叙任式を執り行うとしよう。二人とも楽しみにしておるがよい!」
◇◆◇
数日後、王宮の大謁見の間は荘厳な静寂に包まれていた。
磨き上げられた床には帝国の最高位の貴族と将軍たちが整然と並んでいる。向かって右には宰相を筆頭とする文官たち、左には老将軍たちを筆頭とする武官たち。その誰もが緊張した面持ちで玉座を見つめている。
やがて扉がゆっくりと開かれ、私とグレイグが入場した。
グレイグは新品の、肩に金モールが輝く将軍服を身にまとっている。私のほうは相変わらずあの仰々しい輿の中だ。
ゆっくりと玉座の前まで進み、グレイグが片膝をつき、私も輿の中から頭を下げる気配を示す。
「――面を上げよ」
皇帝の威厳に満ちた声が響き渡る。
「まずグレイグ・フォン・ヴァルハイト!」
「はっ!」
「そなたの東部戦線における功績、誠に見事であった。よって本日をもってそなたを『中将』に任ずる! 今後も帝国の剣として励むように!」
「ははっ! 身命を賭して!」
グレイグが深く頭を下げる。
中将。それは今この帝国にいる軍人の中では事実上の最高位だった。他の二人の中将はいずれも引退同然の高齢。この叙任はグレイグが名実ともに帝国軍のトップの一人となったことを意味していた。武官たちの中からどよめきと、そして彼と親しい老将軍たちからの温かい拍手が起こった。
そして皇帝の視線が私の輿へと注がれた。
謁見の間が再び静寂に包まれる。誰もが固唾をのんで皇帝の次の言葉を待っていた。
「そして『謎の軍師』よ」
皇帝の声がひときわ大きく響く。
「『軍師』という役職は本来我が帝国には存在せぬ臨時のもの。だがそなたの功績はもはやその枠には収まりきらぬ。……よってそなたに新たな地位と新たな称号を与える!」
玉座から皇帝が立ち上がる。
その声はこの場にいる全ての者の魂を震わせた。
「そなたは本日より『天翼の軍師』と称することを許す! それは余の傍らにあってただ一人、余に直接献策することを許された帝国の最高顧問たる地位である! その天上の翼の如き知恵で、余とこの帝国を勝利と平和へ導くがよい!」
『天翼の軍師』
そのあまりに荘厳な響きに、謁見の間は畏敬と驚嘆のどよめきに包まれた。
貴族も将軍も誰もが、あの赤い帳の奥にいる神のごとき存在にひれ伏すように頭を垂れている。
「あ……ありがたき幸せ。身命を賭して尽くさせていただきましょう」
(て、天翼の軍師ぃぃぃぃぃ!?)
その熱狂と畏敬の渦の中心で。
輿の中の私は一人顔を真っ赤にして頭を抱えていた。
無難に応える事が出来た私を褒めてあげたい。
(うわあああああ、恥ずかしい! 恥ずかしすぎる! 皇帝陛下、ネーミングセンスが壊滅的すぎます! 黒歴史! これは私の人生における最大の黒歴史だぁぁぁ!)
私の内心の絶叫はもちろん誰にも届かない。
こうして私は、新たでとんでもなく気恥ずかしい称号と共に、皇帝の理想を実現させるという重く、しかしやりがいに満ちた道を歩み始めることになったのだった。