第61話:『聖女の不器用と賢者の矜持』
謁見の間の重い扉が、背後で音もなく閉ざされる。
磨き抜かれた大理石の廊下に、聖女マリアの優雅な足音だけが響いた。完璧な微笑みを貼り付けたまま、彼女はまるで己の庭を歩むように悠々と進む。
だが、その仮面の下で、心はずっとささくれ立っていた。
原因は二つ。
一つは、パートナーであるはずの『剣聖』ハヤト。復讐心に燃えるあの男は、もはや制御の効かぬ狂犬と成り果てた。
そしてもう一つは、風に乗って帝国から聞こえてくる、あの忌々しい噂。
――『慈悲の女神』
その伝説が、じわじわと、しかし確実に、唯一無二であるはずの『聖女』としての己の地位を、根底から侵食し始めている。
「……少し、寄り道をしますわ」
マリアは供の者に短く告げると、馬車の行き先を王都からリューンの街へと変更させた。石畳を叩く蹄の音は、やがて土を踏む柔らかい音に変わる。
彼女の足が向かったのは、リューン近郊の鬱蒼とした森。
そこに、自分と同じ“あちら側”から来た唯一の同性が囚われていることを、彼女は知っていた。元王宮賢者、グラン。
募る苛立ちの捌け口か。あるいは、あまりに頑固で融通の利かない同郷の友に、小言の一つでもくれてやりたくなったのか。
◇◆◇
森の奥深く。古びてはいるが、手入れの行き届いた庵は、しんと静まり返っていた。
退屈そうに立つ見張りの兵士を冷たい一瞥で黙らせ、マリアは何の断りもなく庵の扉を開ける。
きぃ、と蝶番のかすかな軋む音。
室内は、壁一面の書架と、古い紙と薬草の入り混じった、どこか落ち着く香りに満たされていた。
その中央。窓辺から差し込む柔らかな光の中、眼鏡をかけた一人の若い女性が、椅子に腰かけ静かに本を読んでいた。
「あら、ごきげんよう、グラン。相変わらず退屈な暮らしをしているのね」
わざとらしく軽薄な声色でマリアが語りかける。
グランはゆっくりと本から顔を上げた。その表情に驚きも恐怖もなく、ただ静かな湖面のように凪いでいる。
「……これは、聖女様。このような辺鄙な場所まで、ようこそお越しくださいました」
「いいのよ、そんな堅苦しい挨拶は」
マリアはグランの向かいの椅子に、衣擦れの音を立てて優雅に腰を下ろした。
「ねえ、グラン。貴女もそろそろ素直になったらどう? 意地を張って、こんな薄暗い場所に閉じ込められて。……私に一言『助けて』と頭を下げれば、王くらい説得して差し上げなくもないのに」
あからさまな同情を装った言葉には、しかし隠しきれない微かな心配の色が滲む。グランは静かに本を閉じた。パタン、と乾いた音が響く。
「……お心遣い、痛み入ります。ですが私には、ここで読むべき本がまだ山ほどございますので。それに、時折可愛らしい『お客様』もいらっしゃいますから。退屈などしておりませんわ」
全く動じないその態度に、マリアの完璧な微笑みがぴくりと引きつった。
(……もう。相変わらず可愛げのない子)
内心の呟きを押し殺し、彼女は言葉を続ける。
「ふぅん。まあ、気が変わったら言いなさいな。……もっとも、貴女のその小難しい知識では、今の戦いの役には立てそうもないけれど」
そして、心の奥でずっと燻っていた疑問を、棘のように吐き出した。
「……何なのかしら、この世界の魔法って。『生命を傷つけることはできない』ですって? ……じゃあ、一体何のためにあるというの。……貴女の知識で、どうにかならないわけ?」
あまりに功利的で、それでいて、どこか助けを求めるような響きを帯びた言葉。
それに、グランは初めて、その静かな瞳に明確な「感情」を宿らせた。
深い、深い哀れみと、そして諭すような、微かな温かみ。
彼女は、マリアの美しい、しかし迷い子のようにも見える瞳を、まっすぐに見つめた。
「……マリアさん。この世界の魔法は、戦うためにあるのではありません」
その声は静かだが、凛として庵の空気を震わせた。
「――『生命を、育むため』に、あるのです」
「……なんですって?」
「土は芽を吹かせ、命の土台となる。水は乾きを潤し、命の源となる……。貴女様がその大いなる癒やしの力をお持ちであるならば、その意味を、誰よりもご理解されていると私は思っておりましたが」
静かだが鋭い、刃のような言葉。
マリアは一瞬、息を呑んだ。図星を突かれた子供のように、その美しい顔がわずかに歪む。
照れ隠しのように、彼女はわざと声を張り上げた。
「……まったく、綺麗事ばかり! そんな青臭い理想で、国が守れるとでも思っているの!?」
「ええ。私は、信じております」
グランは、きっぱりと答えた。
「……もう、いいわ! 貴女は一生、その役にも立たない本と一緒にここで朽ち果ててなさい! 勝手にするといいわ!」
マリアは苛立たしげに踵を返し、嵐のように庵から去っていった。
一人残されたグランは、ふぅ、と静かにため息をつき、再び閉じていた本を開く。
だが、彼女の視線はもう文字を追ってはいなかった。
窓の外、夕暮れに染まり始めた森を見つめ、誰に言うともなくぽつりと呟く。
「……いいえ、聖女様。……マリアさん。私は信じています。……この国にはまだ、貴女とは別に『もう一つの光』が残されていますから」
その脳裏に浮かぶのは、あの不器用で真っ直ぐな、若き王子の面影。
そしてグランは、ほんの少しだけ素直になれない、もう一人の同郷の友の行く末を、静かに案じていた。