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ようこそ、最前線の地獄(職場)へ。 私、リナ8歳です ~軍師は囁き、世界は躍りだす~  作者: 輝夜
第五章:『忘れられた王子と蜘蛛の糸』

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第61話:『聖女の不器用と賢者の矜持』

 

 謁見の間の重い扉が、背後で音もなく閉ざされる。

 磨き抜かれた大理石の廊下に、聖女マリアの優雅な足音だけが響いた。完璧な微笑みを貼り付けたまま、彼女はまるで己の庭を歩むように悠々と進む。

 だが、その仮面の下で、心はずっとささくれ立っていた。


 原因は二つ。

 一つは、パートナーであるはずの『剣聖』ハヤト。復讐心に燃えるあの男は、もはや制御の効かぬ狂犬と成り果てた。

 そしてもう一つは、風に乗って帝国から聞こえてくる、あの忌々しい噂。


 ――『慈悲の女神』


 その伝説が、じわじわと、しかし確実に、唯一無二であるはずの『聖女』としての己の地位を、根底から侵食し始めている。


「……少し、寄り道をしますわ」


 マリアは供の者に短く告げると、馬車の行き先を王都からリューンの街へと変更させた。石畳を叩く蹄の音は、やがて土を踏む柔らかい音に変わる。

 彼女の足が向かったのは、リューン近郊の鬱蒼とした森。

 そこに、自分と同じ“あちら側”から来た唯一の同性が囚われていることを、彼女は知っていた。元王宮賢者、グラン。

 募る苛立ちの捌け口か。あるいは、あまりに頑固で融通の利かない同郷の友に、小言の一つでもくれてやりたくなったのか。


 ◇◆◇


 森の奥深く。古びてはいるが、手入れの行き届いた庵は、しんと静まり返っていた。

 退屈そうに立つ見張りの兵士を冷たい一瞥で黙らせ、マリアは何の断りもなく庵の扉を開ける。


 きぃ、と蝶番のかすかな軋む音。

 室内は、壁一面の書架と、古い紙と薬草の入り混じった、どこか落ち着く香りに満たされていた。

 その中央。窓辺から差し込む柔らかな光の中、眼鏡をかけた一人の若い女性が、椅子に腰かけ静かに本を読んでいた。


「あら、ごきげんよう、グラン。相変わらず退屈な暮らしをしているのね」


 わざとらしく軽薄な声色でマリアが語りかける。

 グランはゆっくりと本から顔を上げた。その表情に驚きも恐怖もなく、ただ静かな湖面のように凪いでいる。

「……これは、聖女様。このような辺鄙な場所まで、ようこそお越しくださいました」

「いいのよ、そんな堅苦しい挨拶は」

 マリアはグランの向かいの椅子に、衣擦れの音を立てて優雅に腰を下ろした。


「ねえ、グラン。貴女もそろそろ素直になったらどう? 意地を張って、こんな薄暗い場所に閉じ込められて。……私に一言『助けて』と頭を下げれば、王くらい説得して差し上げなくもないのに」


 あからさまな同情を装った言葉には、しかし隠しきれない微かな心配の色が滲む。グランは静かに本を閉じた。パタン、と乾いた音が響く。

「……お心遣い、痛み入ります。ですが私には、ここで読むべき本がまだ山ほどございますので。それに、時折可愛らしい『お客様』もいらっしゃいますから。退屈などしておりませんわ」


 全く動じないその態度に、マリアの完璧な微笑みがぴくりと引きつった。

(……もう。相変わらず可愛げのない子)

 内心の呟きを押し殺し、彼女は言葉を続ける。


「ふぅん。まあ、気が変わったら言いなさいな。……もっとも、貴女のその小難しい知識では、今の戦いの役には立てそうもないけれど」

 そして、心の奥でずっと燻っていた疑問を、棘のように吐き出した。

「……何なのかしら、この世界の魔法って。『生命を傷つけることはできない』ですって? ……じゃあ、一体何のためにあるというの。……貴女の知識で、どうにかならないわけ?」


 あまりに功利的で、それでいて、どこか助けを求めるような響きを帯びた言葉。

 それに、グランは初めて、その静かな瞳に明確な「感情」を宿らせた。

 深い、深い哀れみと、そして諭すような、微かな温かみ。


 彼女は、マリアの美しい、しかし迷い子のようにも見える瞳を、まっすぐに見つめた。


「……マリアさん。この世界の魔法は、戦うためにあるのではありません」


 その声は静かだが、凛として庵の空気を震わせた。


「――『生命を、育むため』に、あるのです」


「……なんですって?」

「土は芽を吹かせ、命の土台となる。水は乾きを潤し、命の源となる……。貴女様がその大いなる癒やしの力をお持ちであるならば、その意味を、誰よりもご理解されていると私は思っておりましたが」


 静かだが鋭い、刃のような言葉。

 マリアは一瞬、息を呑んだ。図星を突かれた子供のように、その美しい顔がわずかに歪む。

 照れ隠しのように、彼女はわざと声を張り上げた。

「……まったく、綺麗事ばかり! そんな青臭い理想で、国が守れるとでも思っているの!?」

「ええ。私は、信じております」

 グランは、きっぱりと答えた。


「……もう、いいわ! 貴女は一生、その役にも立たない本と一緒にここで朽ち果ててなさい! 勝手にするといいわ!」


 マリアは苛立たしげに踵を返し、嵐のように庵から去っていった。


 一人残されたグランは、ふぅ、と静かにため息をつき、再び閉じていた本を開く。

 だが、彼女の視線はもう文字を追ってはいなかった。

 窓の外、夕暮れに染まり始めた森を見つめ、誰に言うともなくぽつりと呟く。


「……いいえ、聖女様。……マリアさん。私は信じています。……この国にはまだ、貴女とは別に『もう一つの光』が残されていますから」


 その脳裏に浮かぶのは、あの不器用で真っ直ぐな、若き王子の面影。

 そしてグランは、ほんの少しだけ素直になれない、もう一人の同郷の友の行く末を、静かに案じていた。


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― 新着の感想 ―
武人は武器を持って人を殺し軍師は謀を以て人を殺す。 仮に攻撃魔法が使えても聖女には重くて使えんわ。
聖女ちゃんは頭が良い方だと思ってたけど、間違いっぽいか?あの王を見て、王を説得したところで、グランをどうやって連れ出す気なんだ?無理じゃね?
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