第30話:決断の刻
清河八郎が企てた横浜焼き討ちという衝撃の計画。
その証拠を掴んだ主人公は、土方歳三と共に近藤勇へ真実を告げます。
しかし、信じていた師の裏切りに近藤は激昂し、事態は混迷を極めます。このまま清河に従い反逆者となるか、あるいは新たな道を切り拓くか。
浪士組の運命を左右する、重大な決断の時が訪れました。
主人公の知略が、歴史を動かしようとしています。
じっとりと汗ばんだ手の中で、懐紙に包んだ反故紙の感触だけが生々しい。夜通し続いた雨は夜明け前には上がり、東の空が白み始めていた。俺はほとんど一睡もできぬまま、その時が来るのを待っていた。
部屋を出て、まだ薄暗い廊下を進む。向かう先は、前川邸の奥、土方歳三の部屋だ。案の定、障子の向こうには既に灯りがともっていた。この男もまた、眠れぬ夜を過ごしていたに違いない。俺が足音を立てずに戸口に立つと、中から声がかかった。
「永倉か。入れ」
障子を開けると、そこにはいつものように端然と座り、手にした煙管を燻らせる土方の姿があった。その目は、獲物を待つ夜行性の獣のように、鋭く俺を射抜いている。俺は部屋に入ると、無言で障子を閉め、彼の正面に腰を下ろした。
「首尾は」
短く、鋭い問い。俺は頷き、懐から例の紙片を取り出した。
「これです。石坂の部屋から見つけ出した、建白書の草案と思われます」
土方は煙管を置くと、俺から紙片を受け取った。そこに記された文字を目で追ううちに、彼の眉間の皺が、みるみる深くなっていく。部屋に満ちる沈黙が、やがて彼の口から漏れた冷たい息によって破られた。
「…横浜、焼き討ちだと?狂気の沙汰だ」
吐き捨てるような声だった。
「これを、近藤先生にお見せしなければなりません」
俺の言葉に、土方はしばし宙を睨んでいたが、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「…そうだな。あの人が一番、清河という男を信じている。この事実を突きつけ、目を覚まさせなければ、我々は道連れだ」
土方が動くのは早かった。彼はすぐに近藤勇の部屋へ向かい、人払いをした上で俺を呼び入れた。
前川邸の一室。そこには、ただならぬ土方の様子に、いまだ状況を飲み込めていないといった顔の近藤先生と、その脇に控える土方、そして俺がいた。三畳ほどの狭い空間が、息苦しいほどの緊張に満ちている。
「永倉、近藤さんに説明しろ」
土方に促され、俺は改めて居住まいを正した。
「近藤先生。単刀直入に申し上げます。我々は、清河八郎に騙されています」
「…どういうことだ、永倉。お主、最近の行動といい、少しおかしいのではないか?」
近藤先生の声には、戸惑いと、俺に対する不信の色が滲んでいた。俺は構わず、懐から証拠の紙片を取り出し、彼の前に差し出した。
「これは、俺が清河派の浪士の部屋から見つけ出した、朝廷へ提出する建白書の草案です。お読みください」
近藤先生は、訝しげな顔でその紙片を手に取った。そして、そこに書かれた内容に目を通すうちに、その温和な表情がみるみるうちに強張っていく。
『…浪士組、速やかに江戸へ帰還し、幕府に攘夷の断行を迫るべし…』
そこまで読んだ彼の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
『…若し、幕府が逡巡するならば、浪士組は朝廷の兵として、横浜の異人館を焼き払い、天意を貫徹すべし…』
「なっ…」
近藤先生の手が、わなわなと震え始めた。
「馬鹿な…!清河先生が、このような…!これは何かの間違いだ!何かの罠だ!」
次の瞬間、彼は握りしめた紙片を畳に叩きつけ、雷鳴のような声で叫んだ。
「ふざけるなッ!!」
激昂。まさにその言葉がふさわしい姿だった。信じていた理想の師が、自分たちを幕府への反逆、そして無謀な焼き討ちの駒として使おうとしていた。その裏切りが、彼の純粋な心を激しく揺さぶっていた。
「清河先生は、我らを率いて、公方様をお守りするために京へ来られたはずだ!それが、幕府に弓を引くなどと…!ありえん!」
「近藤さん、落ち着いてくだせえ」
土方が、冷静に、しかし有無を言わせぬ強い口調で制した。
「そいつが現実だ。俺も永倉も、最初からあの男を胡散臭く思っていた。将軍警護という聞こえのいい言葉で浪士を集め、京にやって来た。だが、その実態は、俺たちを私兵として朝廷に恩を売り、江戸で事を起こすための駒集めだったのさ」
土方の冷徹な分析が、燃え盛る近藤先生の怒りに、わずかな理性の水滴を落とす。彼は、はっ、はっ、と荒い息をつきながら、俺と土方の顔を交互に見た。
「では…我々は、どうすればいいというのだ。このまま清河先生に従い、江戸へ戻るのか?それとも…」
その言葉尻を、俺が引き取った。ここが、俺の正念場だ。官僚として培ったプレゼンテーション能力、その全てをここに注ぎ込む。
「江戸へ戻る道は、ありません」
俺は、きっぱりと言い切った。
「考えてもみてください。この建白書が朝廷に渡り、我々が清河に従って江戸に戻ったとします。その時点で、我々は『朝廷の意を笠に着て、幕府に刃向かう不逞の輩』です。横浜を焼き討ちする前に、幕府によってお取り潰しになるのが関の山。よしんば事を起こせたとしても、待っているのは諸外国との全面戦争と、国内の大混乱だけです」
俺は一度言葉を切り、二人の顔をまっすぐに見据えた。
「我々が進むべき道は、一つしかありません。清河と袂を分かち、この京に残るのです」
「京に残るだと?」
近藤先生が、怪訝な顔で問い返す。
「だが、我々の任は将軍警護だ。その将軍が江戸へお戻りになるというのに、我々だけが京に残れば、それこそ任務放棄の脱走浪士ではないか」
「いいえ、違います」
俺は、彼の懸念を打ち消すように、さらに一歩踏み込んだ。
「我々は、新たな『任』を、この京で見つけるのです。具体的に申し上げます。我々は、京都守護職を拝命された、会津藩の庇護下に入るべきです」
「会津藩…松平容保公か」
土方が、低い声で呟いた。彼の目が、俺の真意を探るように細められる。
「その通りです」と俺は続けた。
「今の京は、どういう状況か。尊攘を叫ぶ過激な浪士たちが闊歩し、天誅と称して人斬りが横行する、まさに無法地帯です。幕府は、この京の治安を回復させることを急務と考えている。だからこそ、徳川家への忠誠心篤い会津藩を、京都守護職という重役に任じたのです」
俺は、官僚時代に政策ブリーフィングを行った時と同じように、指を折りながら論点を整理していく。
「第一に、会津藩には『実行部隊』が不足しています。一藩の兵力だけで、この広大な京の治安全てを担うのは不可能です。彼らは、腕が立ち、組織として動ける実力を持った集団を喉から手が出るほど欲しているはずです」
「第二に、我々の『強み』です。我々試衛館の一党は、個々の剣の腕はもちろん、近藤先生を頂点とした強固な組織力と統率力を持っています。これは、寄せ集めの浪士たちにはない、絶対的な強みです。我々は、『治安維持能力』という具体的な価値を、会津藩に提供できるのです」
「そして第三に、これが最も重要ですが、会津藩の庇護下に入ることで、我々は『ただの浪士』から『幕府公認の治安維持部隊』へと、その立場を劇的に変えることができます。それは、我々が長年追い求めてきた『武士になる』という夢を、最も確実かつ正当な形で叶える道に他なりません」
俺の言葉に、激昂していた近藤先生も、腕を組んで深く考え込んでいる。土方は、いつの間にか煙管を手に取り、しかし火はつけずに、じっと俺の話に聞き入っていた。
「清河に従って江戸に戻れば、我々は『反逆者』の汚名を着せられ、使い捨てにされる。しかし、京に残り、会津藩という巨大な後ろ盾を得ることができれば、我々は日の本のため、公方様のために、この京で大義の剣を振るうことができる。どちらが、我々の目指す『誠の道』か。答えは、明白ではありませんか」
熱弁を終えた俺の額には、汗が滲んでいた。沈黙が、部屋を支配する。
最初に口を開いたのは、土方だった。
「…面白い」
彼の口元に、初めて笑みが浮かんだ。それは、獰猛な肉食獣が獲物を見つけた時のような、冷たくも美しい笑みだった。
「永倉、てめえの言う通りだ。会津藩に取り入る。その手があったか。いや、俺も漠然と考えてはいた。だが、てめえほど明確な道筋は見えていなかった。お前さんの言う通りなら、これは千載一遇の好機だ」
土方は、近藤先生の方を向いた。
「近藤さん。俺は、永倉の策に乗るべきだと思う。いや、これしかねえ。こいつは、ただの剣客じゃねえ。国を動かす役人の目を持っている。俺たちの悲願を叶えるには、こいつの知恵が必要だ」
土方の力強い言葉が、最後のひと押しとなった。
近藤先生は、ゆっくりと顔を上げた。その目から、先ほどの激昂と混乱は消え、試衛館の長としての一人の武士の覚悟が宿っていた。
「…分かった」
低く、しかし、揺るぎない声だった。
「永倉、土方。お前たちの言う通りだ。俺は、清河先生という人物の器量に目が眩み、物事の本質を見誤っていた。我らが進むべき道は、江戸ではない。この京だ」
近藤先生は、畳に叩きつけた紙片を拾い上げると、今度はそれを、静かに、しかし強く握りしめた。
「我々は、京に残る。そして、会津藩の力を借り、この乱れた京に『誠』の旗を立てる。それが、我ら試衛館が成すべき真の勤王だ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身から力が抜けていくのを感じた。
歴史の大きな分岐点。その舵を、俺は、俺自身の言葉で、わずかに動かすことができたのだ。
近藤勇の決断。土方歳三の賛同。そして、俺のささやかな未来知識。
三つの意志が一つに重なったこの瞬間、後に「新選組」と呼ばれる組織の産声が、確かに上がった。
懐にあったはずの証拠の紙片は、今や近藤先生の掌中にある。それはもはや、単なる裏切りの証拠ではない。我々が過去と決別し、新たな未来を掴み取るための、決意の象徴となっていた。
俺たちの本当の戦いは、ここから始まる。俺は、固く握られた近藤先生の拳を、そしてその横で不敵に笑う土方の顔を見ながら、来るべき激動の日々に思いを馳せるのだった。
ついに近藤勇は京に残ることを決断しました。
主人公の的確な状況分析と未来への展望が、土方を動かし、そして近藤の心を決めさせたのです。
これは、後に「新選組」として知られる組織が産声を上げた、まさに歴史的な瞬間でした。
過去と決別し、新たな大義を掲げた彼らの本当の戦いはここから始まります。
京の地で「誠」の旗を掲げる彼らの次なる一歩にご期待ください。