第72話:天覧試合
帝をお守りするため、新八は絶望的な数の刺客をたった一人で迎え撃ちます。
神道無念流と近代科学のハイブリッド剣術が炸裂!
帝がご覧になる前で繰り広げられる、まさに「天覧試合」です。
絶望的な数の暴力が、ただ一点、帝の乗る鳳輦へと殺到する。その数、およそ十。主戦場から切り離されたこの場所で、彼らは死を覚悟した特攻部隊だった。目的はただ一つ、帝の弑逆。その狂気に満ちた眼は、もはや俺以外の何ものも映してはいなかった。
「永倉隊長!」
背後から、数名の二番隊士の悲鳴に近い声が上がる。彼らもまた、この絶望的な戦力差を瞬時に理解したのだろう。だが、ここで退く選択肢など、俺の辞書にはない。
「貴様ら、絶対に鳳輦から離れるな! 帝をお守りすることだけを考えろ! ここは俺が食い止める!」
振り返ることなく、俺は言い放った。それは隊長としての命令であり、一人の男としての覚悟の表明だった。刀を正眼に構える。切っ先が、突進してくる刺客たちの中心、その一点を寸分違わず捉えていた。
(来るぞ。十人。全員が手練れ。まともにやり合えば、俺一人で捌き切れる数ではない)
脳が、冷静に状況を分析する。感情に任せて斬り結べば、数合と保たずに斬り伏せられる。必要なのは、激情ではない。極限まで研ぎ澄まされた、冷徹なまでの合理性。
(思い出せ。物理法則を。運動力学を。人体構造を。俺の剣は、神道無念流と、近代科学のハイブリッドだ)
一瞬、目を閉じる。そして、再び開いた時、俺の世界から音と色が消えた。見えるのは、向かってくる刺客たちの動きが分解された、無数のベクトル。聞こえるのは、自らの心臓の鼓動と、最適な一手を計算し続ける思考の音だけ。
先頭の一人が、上段から力任せに斬りかかってきた。最短距離を、最大の威力で。素人ならば、その気迫だけで身が竦む一撃。俺はそれを、半歩だけ左に身をずらすことで、完全に回避した。空を切った刃が、俺のすぐ横を通り過ぎる。その瞬間、俺は回避に使った体の回転運動を止めなかった。むしろ、その遠心力を利用し、体をさらに半回転させる。
テコの原理。相手の振り下ろした腕を支点に、俺の体全体を作用点とする。最小限の力で、相手の巨大な体躯が、いとも簡単に体勢を崩した。がら空きになった脇腹へ、俺はまるで針を刺すように、切っ先を滑り込ませた。肉を断つ鈍い感触。男は自分が斬られたことすら理解できないまま、前のめりに崩れ落ちた。
間髪入れず、左右から二人の刺客が同時に襲いかかる。俺は後退しない。むしろ、一歩前へ踏み込んだ。二人の刃が交錯する、その一点へ。常人ならば自ら死ににいくような愚行。だが、俺には見えていた。二つの刃が互いに衝突し、その運動エネルギーが霧散する、ほんの一瞬の「死点」が。
キィン!という甲高い金属音。俺の目の前で、二本の刀が互いを阻み、刺客たちの動きが一瞬だけ停止する。そのコンマ数秒の隙を、俺は見逃さない。停止した二つの体を障害物として利用し、その背後に回り込む。そして、無防備に晒された二つの背中を、流れるような一閃で、同時に斬り裂いた。
悲鳴を上げる暇もなく、さらに二人が斃れる。
鳳輦の簾の奥。
孝明天皇は、生まれて初めて、これほど生々しい「死」の光景を目の当たりにしていた。最初は、ただ恐怖に身を震わせるだけだった。公家たちの甲高い悲鳴、刃と刃がぶつかる耳障りな音、そして、生暖かい血の匂い。全てが、清浄であるべき帝の日常とはかけ離れた、穢れた世界のものだった。
だが、いつしか恐怖は、別の感情に塗り替えられていた。
簾の隙間から見える、一人の武士の姿。浅葱色の羽織を血で汚しながら、しかし、その動きは恐ろしいほどに静かで、美しい。敵の刃を紙一重でかわし、流れるような動きで反撃に転じる。力任せに振り回すのではない。まるで、あらかじめ決められた手順をなぞるかのように、全ての動きに一切の無駄がない。
それは、戦いというよりは、死を奉納する神事の舞。
天皇は、自らの喉がごくりと鳴るのを感じた。自らのために、命を懸けて舞う男。その一挙手一投足が、脳裏に焼き付いて離れない。これは、試合だ。帝が観戦する、たった一人の武士による、真剣勝負。まさしく、「天覧試合」。
残る刺客は六人。彼らもようやく、目の前の男がただの剣客ではないことを悟ったらしい。散開し、俺を包囲するように陣形を組む。同時に、多方向から斬りかかってくる算段だ。
(思考の同期。行動の連携。練度は高い。だが、それゆえに脆い)
俺は刀を下げ、自然体に構えた。一見、無防備に見えるその姿に、刺客たちが一瞬だけ躊躇する。その隙を、俺は逃さない。
「――シッ!」
短く鋭い呼気と共に、俺は地面を蹴った。向かう先は、包囲網の一番手薄な一点。敵の意図の、さらにその先を行く。虚を突かれた刺客たちが、慌てて俺の動きに合わせようとする。だが、もう遅い。
集団戦において、最も重要なのは連携だ。だが、一度その連携が崩れれば、味方はただの障害物に変わる。俺は敵の一人の懐に潜り込むと、その体を盾にした。背後から振り下ろされた味方の刃が、盾となった男の肩に深々と突き刺さる。
「ぐあっ!?」
同士討ちに混乱する刺客たち。俺はその混乱の中心で、さらに加速する。人体の急所。首、脇の下、内腿の動脈。転生前の知識が、急所の位置を正確に示してくれる。俺の刃は、的確に、そして最短距離で、それらのポイントだけを狙っていく。
一太刀ごとに、一人、また一人と、血飛沫を上げて刺客が崩れ落ちる。俺は決して深追いしない。一撃離脱。最小限の動きで、最大の効果を上げる。体力の消耗を極限まで抑えながら、確実に敵の数を減らしていく。それは、神道無念流の力強い剣とは似ても似つかない、効率と合理性だけを追求した、未来の剣術だった。
(この体のポテンシャルは、俺の想像を遥かに超えている。永倉新八が本来持っていた剣の才能と、俺が持つ現代知識。この二つが合わさった時、俺の剣は、この時代の誰にも負けない!)
確信が、全身を駆け巡る。アドレナリンが、思考をさらに加速させる。
残るは、二人。
一人は、先ほどの同士討ちで肩を負傷している。戦闘能力は低い。問題は、最後の一人だ。他の刺客とは明らかに違う、老練な空気をまとっている。おそらく、この別動隊の指揮官。
「……化物め」
指揮官の男が、初めて声を発した。その目は、俺を人間ではない何かを見るような、畏怖と憎悪に満ちていた。
「お喋りはそこまでだ」
俺は即座に距離を詰め、勝負を決めにいく。だが、男は手負いの仲間を俺の眼前に突き飛ばした。
「ぐっ……!」
咄嗟に刃を止める。非情になりきれない、俺自身の甘さ。その一瞬の躊躇を、指揮官の男は見逃さなかった。手負いの仲間を盾にしたまま、その脇から、変則的な突きを繰り出してくる。
(まずい!)
完全に体勢を崩された。回避は間に合わない。俺は咄嗟に左肩を前に出し、筋肉で刃を受け止める覚悟を決めた。ザクリ、と肉が裂ける熱い感触。激痛が全身を貫く。
だが、俺の勝ちだ。
「――もらった」
痛みで歪む顔を、俺は獰猛な笑みで塗り替えた。男の刃が俺の肩に突き刺さったまま、動きが止まっている。それはつまり、男自身もまた、完全に無防備であるということ。俺は肩に突き刺さった刀を意にも介さず、右手に持った己の刀を、がら空きになった男の心臓めがけて、全力で突き出した。
「な……!?」
男の目が見開かれる。信じられない、という表情。自らの刃が相手を捉えているのに、なぜ反撃が来るのか。なぜ、相手は痛みを感じていないのか。その疑問に答えが出る前に、俺の刃は、分厚い胸板を貫き、その心臓を確実に破壊した。
カクン、と男の体の力が抜ける。俺は肩に刺さった刀を抜き放ち、最後の力を振り絞って、盾にされた手負いの刺客の意識を、峰打ちで刈り取った。
――静寂。
三条通を支配していた怒号と刃鳴りが、嘘のように消え去っていた。残ったのは、血の匂いと、死体の山。そして、その中心に、血塗れの刀を下げて、ただ一人、仁王立ちする俺の姿だけだった。
左肩からの出血が酷い。意識が朦朧とする。だが、まだだ。まだ終わっていない。俺はふらつく足で鳳輦の前まで戻ると、その扉を守るように、再び刀を構えた。新たな敵が、いつどこから現れるか分からない。
◇
鳳輦の簾越しに、高貴な衣をまとった、一人の男性が、下々の争いを憂う神のような視線を戦いの場に投げかけていた。その顔には、恐怖も、混乱も、もはや浮かんでいなかった。ただ、目の前の血塗れの武士を、神仏を拝するような、畏敬に満ちた眼差しで、じっと見つめていた。
今上の帝。孝明天皇、その人であった。
お読みいただき、ありがとうございます。
新八はなんとか刺客を退けることができました。
この戦いは帝の目の前で繰り広げらました。
死の舞を奉納する神事のような「天覧試合」は、帝の心に何を残したのか。