第85話:経済学入門
土方との絆を再確認し、最強のパートナーシップを築いた新八。
次なる一手として、帝への進講で自身の真骨頂である「経済」を語ります。
土方さんと、腹の底から向き合ったあの日から、数日が過ぎた。屯所内の空気は、目に見えて変わった。俺と土方さんの間にあった、どこか見えない壁のようなものが綺麗に取り払われ、互いの信頼が隊士たちにも伝播したのだろう。隊の運営は、これまで以上に円滑かつ精強さを増していた。俺が御所での進講という、前代未聞の任務に集中できるよう、土方さんは新選組の全てをその双肩に背負い、完璧に差配してくれている。市中の見回りから隊士の訓練、そして幕府や会津藩との折衝に至るまで、その手腕はまさに鬼神の如し。最強の副長であり、最高の相棒。その存在が、これほどまでに心強いものだとは。
そして今日、俺は再び紫宸殿の奥、帝の待つ一室へと足を踏み入れていた。張り詰めた空気の中にも、知的な探求心に満ちた帝の視線が、俺を射抜く。テーマは、いよいよ俺の真骨頂ともいえる「経済」だ。この国の未来を左右する、極めて重要な学問。
「――永倉。此度は『富』について、そなたの考えを聞かせよ」
静寂を破る、厳かで、しかし熱を帯びた声。孝明天皇は、前回までの「国のかたち」という抽象的な議論を経て、より具体的で、国家の根幹を成すものへの理解を深めようとされている。その意欲が、ひしひしと伝わってきた。
「はっ。謹んでお受けいたします。本日は『富国強兵』における『富国』、すなわち、国を豊かにするとは具体的にどういうことなのか、その仕組み、からくりについて、わたくしめの知る全てをお話しさせていただきます」
俺は一礼し、予め用意してきた資料――と言っても、この時代で手に入る和紙と墨で自作した、簡素な図表だが――を、畳の上にゆっくりと広げた。その所作一つひとつに、全神経を集中させる。これは、未来の日本を救うための、最も重要な講義なのだ。
「陛下。まず、お伺いいたします。国の『富』とは、そもそも何であると、陛下はお考えでございましょうか?」
俺の問いかけに、陛下はしばし瞑目し、思案を巡らせる。その眉間には、一国の君主としての深い思慮が刻まれていた。
「……うむ。やはり、蔵に満ちる金銀、であろうか。あるいは、豊かに実る田畑、そこから穫れる米の量か。はたまた、諸外国との交易で得られる珍しい品々か」
「それらも、確かに国の富を構成する要素の一部にございます。ですが、陛下、それは富の『現象』であって、『本質』ではございません」
俺は、懐から静かに一枚の小判を取り出し、その黄金色の輝きを陛下の御前に示してみせた。
「例えば、この小判。これ自体は、ただの金属の塊にございます。これだけをいくら眺めていても、腹が膨れることも、寒さをしのぐことも叶いませぬ。しかし、これがあれば、市で米や魚、反物など、我々が生きるために必要な、ありとあらゆる品と交換することができる。それは何故か。市井の民から大商人まで、この国に生きる全ての者が、この小判に『それだけの価値がある』と、固く信じているからに他なりません」
「価値を、信じる……?」
陛下の声に、かすかな戸惑いの色が混じる。無理もない。これまで誰も、このような視点から貨幣を語る者は無かっただろう。
「さようにございます。貨幣とは、いわば『価値の交換』を円滑にするための、偉大な発明品であり、人々の『信用』という、目に見えぬ土台の上に成り立つ幻想のようなもの。そして、真の国の富とは、蔵に積まれた金銀の量そのものではなく、その国が一年という期間に、どれだけの『価値』を新たに生み出したか、その総量によって測られるのでございます」
俺は、財務官僚として骨の髄まで叩き込まれた「国内総生産(GDP)」という概念を、この時代の言葉で、できる限り平易に、そして情熱を込めて説き始めた。
「農民が丹精込めて米を作り、一粒の種籾から百粒の米を収穫する。これも、新たな価値を生み出す行為。職人が、ただの鉄塊に魂を吹き込み、鋭い切れ味の刀を打ち上げる。これもまた、価値の創造にございます。そして、商人が、遠く離れた土地の産物を、それを必要とする人々の元へと届ける。この『流通』という行為そのものも、新たな価値を生み出しているのでございます。これら、農工商、全ての民の働きが生み出す価値の合計こそが、真の国富。国内総生産なのでございます」
俺は、資料に描いた図を指し示した。そこには、農民、職人、商人がそれぞれ円を描き、その円が互いに矢印で結ばれ、大きな循環を生み出している様が描かれていた。
「なるほど……。朕はこれまで、富とは、どこかからか湧き出るもの、あるいは奪い取るものと考えていた。だが、そうではないのだな。民草一人ひとりの日々の営み、その働きそのものが、国を豊かにする源泉である、と。そういうことか、永倉」
「御意にございます。そして、その民の尊い働きを活かすも殺すも、貨幣の運用、すなわち『金融政策』と、税の徴収と歳出を司る『財政政策』、この二つの車の両輪を、いかに巧みに操るかにかかっておるのでございます」
いよいよ、本題の核心に触れる時が来た。俺は、もう一つ、別の銭を懐から取り出した。それは、幕府が近年、財政難を補うために発行した、見るからに質の悪い改鋳銭だった。鈍い光を放つそれを、先ほどの小判の隣に並べる。
「陛下。ここに二つの銭がございます。一つは、かつて徳川家康公が定めた、良質な慶長小判。そしてもう一つは、近年、幕府が苦し紛れに発行した、金の含有量を著しく減らした万延小判にございます」
俺は、その二つの貨幣を陛下の前に恭しく差し出した。その重さ、色艶の違いは、素人目にも明らかだった。
「幕府は、金銀の含有量を減らした貨幣を大量に発行し、その差額を利益とすることで、一時的に財政を潤そうといたしました。これを『貨幣改鋳』と申します。しかし、陛下、これは自らの身体を蝕む毒を飲むが如き、国の経済を根底から揺るがす、極めて危険な愚策にございます」
「危険な愚策……? どういうことだ。詳しく申してみよ」
陛下の声に、鋭さが増す。
「市中に、質の悪い貨幣が出回ると、人々は何を考えるか。賢い商人たちは、真っ先に、質の良い古い貨幣を自分の蔵に仕舞い込み、支払いの際には、質の悪い新しい貨幣を優先して使おうといたします。誰もが同じことを考えるため、結果として、市場からは良質な貨幣が姿を消し、悪質な貨幣ばかりが溢れかえることになる。かの有名な『悪貨は良貨を駆逐する』という言葉通りの現象が起こるのでございます。そうなれば、人々はこの国の貨幣そのものに対する価値、すなわち『信用』を失っていくのでございます」
俺の言葉に、陛下の表情がみるみる険しくなっていく。その聡明な頭脳は、俺の言葉の先に待つ、恐ろしい結末を予感しているに違いなかった。
「貨幣への信用が失われると、どうなるか。物の値段が、際限なく上がってまいります。昨日まで銭一枚で買えた大根が、明日には二枚、明後日には三枚出さねば買えなくなる。さらには天井知らずの物価高へと繋がって参ります。武士や職人たちの給金はそう簡単には変わりませぬ。しかし、物の値段だけがうなぎ登りに上がっていく。結果、最も苦しむのは、その日暮らしの民草にございます。彼らの生活は困窮を極め、その不満の矛先は、いずれ為政者、すなわち幕府へと向かうことになりましょう」
前世の歴史において、幕末の日本は、まさにこのインフレという名の悪魔に苦しめられた。度重なる無計画な貨幣改鋳は、物価の異常な高騰を招き、民衆の生活基盤を根底から破壊した。その塗炭の苦しみと、幕府への不信感が、やがて倒幕という巨大なうねりを生み出す、強力な推進力の一つとなったことは、紛れもない歴史の事実だ。
「逆に、市中から貨幣が不足し、物の値段が下がり続けることもございます。物価下落と申します。一見、物の値段が下がるのですから、民にとっては良いことのように思えるかもしれません。しかし、これもまた、国を滅ぼしかねない恐ろしい病なのでございます」
「物の値段が下がることが、何故、病なのだ?」
陛下が、初めて純粋な疑問の声を上げた。
「物の値段が下がり続ければ、商人たちは商いをしても儲けが出ませぬ。儲けが出なければ、職人たちに新たな仕事を依頼することもできなくなる。仕事がなければ、職人たちは収入の道を絶たれ、路頭に迷うことになります。そして、物が売れない商人たちも、やがては店を畳むことになるでしょう。このように、経済活動全体が縮小し、多くの失業者を生み出し、結果として民はさらに貧しくなる。この負の連鎖は、一度陥ると、なかなか抜け出すことができませぬ」
インフレとデフレ。近代経済学の基礎中の基礎。俺は、主計局で培った知識と経験を総動員し、その複雑なメカニズムと、それが社会に与える深刻な影響を、具体例を交えながら、丁寧に、そして何よりも熱を込めて説いた。それはもはや進講というより、未来の国家存亡をかけた魂の叫びに近かった。
陛下は、身じろぎ一つせず、俺の話に聞き入っておられた。その表情は、苦悩と、驚愕と、そして深い理解が入り混じった、複雑な色を浮かべていた。やがて、俺が言葉を切ると、部屋には重く、長い沈黙が訪れた。まるで、俺が放った言葉の数々が、空気中で形を持ち、その意味の重さを主張しているかのようだった。
「…………永倉。そなたの話、骨の髄まで、よく分かった」
静寂を破ったのは、陛下の絞り出すような、しかし確信に満ちた声だった。
「幕府の行いが、かえって民を苦しめ、国の礎を蝕んでいたとはな……。朕は、恥ずかしながら、これまで国の財政、経済というものについて、これほど深く考えることがなかった。ただ、天災が起こらぬように、民が飢えぬようにと、神に祈るばかりであった」
その声には、深い悔恨の念が滲んでいた。為政者として、民の暮らしの現実を知らなかったことへの、痛切な自責の念。しかし、その瞳の奥に宿っているのは、絶望ではなかった。むしろ、暗闇の中に一条の光を見出したかのような、力強い決意の光が、爛々と輝いているのを、俺は見逃さなかった。
「富国なくして、強兵はなし、か……。まこと、その通りじゃ。異国の蒸気船の脅威に抗するためには、まず、この国の内側を豊かにし、民の暮らしを安定させねばならぬ。武器を揃え、兵を鍛えるだけでは、砂上の楼閣に過ぎぬ。朕は、今、ようやくその真の道理を理解した」
陛下は、ゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩み寄り、眼下に広がる京の街並みを見やった。その視線は、もはや単なる風景としてではなく、そこで生きる一人ひとりの民の息遣い、その生活の営みそのものにまで注がれているように、俺には感じられた。
「永倉。そなたの持つ知識は、まこと、この日ノ本の宝じゃ。朕は、そなたと出会えたことを、天に感謝せねばならぬ。これからも、朕にその知恵を貸してくれ。この日ノ本を、真に豊かな、民が心から笑って暮らせる国にするために」
「はっ。この永倉新八、命に代えましても、陛下の御心を支え、我が知識の全てを捧げる覚悟にございます!」
俺は、畳に額がつくほどに、深く、深く頭を垂れた。
帝が、経済の重要性を、その本質を理解された。これは、俺がこの時代に来て成し遂げた、最も大きな成果かもしれない。政治の「かたち」を整えるだけでなく、経済という「血肉」の必要性を、この国の最高権威が、心の底から認識したのだ。
これで、俺が目指す「近代国家への魔改造」の、最も重要な土台の一つが、確固として築かれた。あとは、この帝の尊い意思を、いかにして具体的な政策として立案し、実行に移していくか。その実行部隊の要となる土方さんとの連携が、これからますます重要になってくる。
進講を終え、御所を退出する俺の足取りは、これまでにないほど力強く、そして軽やかだった。
公家の岩倉具視が、水面下でどのような策謀を巡らせていようと、もはや恐れるに足らず。俺たちの手には、孝明天皇という、この国で最も尊く、そして強力な「大義」という名の宝剣が握られているのだから。
しかし、油断は禁物だ。あの岩倉という男が、この状況を黙って見過ごすはずがない。俺という「得体の知れない浪士」の存在は、彼の描く倒幕のシナリオにとって、今や最大の障害となっているはずだ。奴が、次なる一手として何をしてくるか。それは、おそらく正面からの斬り合いではなく、もっと陰湿で、俺たちの足元を掬うような、狡猾な罠だろう。警戒の糸は、決して緩めてはならない。
京の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。だが、その空の向こうには、時代の大きなうねりが、刻一刻と迫っている。俺は、その嵐の中心に向かって、確かな一歩を踏み出した。
新八の熱のこもった進講は、見事に帝の心を動かしました。
経済の重要性を理解した帝は、新八に全幅の信頼を寄せ、富国への強い決意を固めます。