第86話:岩倉の焦り
永倉が帝からの信頼を得て計画を進める一方、その動きを危険視する男がいました。
蟄居中の公家、岩倉具視です。
帝が謎の浪士に心酔しているという事実は、彼の描く革命のシナリオを根底から揺るがします。
京の北、岩倉村。市中の喧騒とは隔絶されたこの地に、その男は蟄居していた。かつては帝の側近として辣腕を振るった公家の重鎮、岩倉具視。しかし、和宮降嫁を推し進めたことが尊王攘夷派の怒りを買い、「佐幕派の奸臣」の烙印を押されて朝廷から追放され、この地で雌伏の時を過ごしていた。
「……面白い」
薄暗い書院の中、文机に広げられた密書を眺めながら、岩倉は独りごちた。その頬は削げ、眼光のみが異様な鋭さを放っている。蟄居という名の雌伏は、彼の野心を削ぐどころか、むしろ研ぎ澄ませていた。
「新選組の、永倉新八。か……」
密書には、一介の浪士に過ぎないはずの男が、近頃頻繁に御所へ上がり、帝に直接何事かを奏上しているという、にわかには信じがたい噂が記されていた。それも、帝がその言葉に深く感銘を受け、心酔に近い信頼を寄せているというのだから、尋常ではない。
「一体、何者だ……」
岩倉の脳裏に、数ヶ月前の苦い記憶が蘇る。孝明天皇の参内行列を襲撃し、帝を弑し奉る――。それは、幕府の権威を完全に失墜させ、新たな国体を築くための、乾坤一擲の計画であった。しかし、全ては、実行寸前で露見し、新選組と名乗る浪士集団によって完膚なきまでに叩き潰された。
あの時、計画の指示を記した、私の花押入りの密書が奴らの手に渡ったはずだ。にもかかわらず、幕府や会津藩が、私の名を公にして糾弾してくる気配は一向にない。まるで、何者かが意図的に、私の存在を隠蔽しているかのようだ。
当初、岩倉はそれを、幕府側の失態と見ていた。公家の重鎮である私を罰すれば、朝廷との間に決定的な亀裂が生じる。それを恐れたのだろう、と。しかし、この「永倉新八」という男の出現は、その楽観的な憶測を根底から覆した。
「まさか……。あの暗殺計画を阻止し、そして私の存在を帝に知らせた上で、あえて泳がせているのも、全てはこの男の差し金だとでもいうのか……?」
ありえない、と岩倉は頭を振る。一介の剣客に、それほどの政治的な慧眼と、老獪な駆け引きができるはずがない。だが、もし、万が一そうだとしたら。その男は、私がこれまで出会ったどの公家や大名よりも、遥かに危険な存在ということになる。
「……調べよ」
岩倉は、背後に控えていた忍びに、低い声で命じた。その声は、冬の夜気のように冷え切っていた。
「新選組の永倉新八。その出自、経歴、交友関係、そして、帝に何を吹き込んでいるのか。金の流れ、女関係、いかなる些細な情報でも構わぬ。奴の全てを、白日の下に晒せ。使えるものは、全て使え。間者、金、女……手段は問わぬ」
「御意」
影のように現れた忍びは、影のように音もなく消えた。後に残されたのは、重い沈黙と、燻るような岩倉の猜疑心だけだった。
岩倉具視という男は、徹頭徹尾、現実主義者であり、同時に、日本の誰よりも強い理想を抱く革命家でもあった。彼が目指すのは、旧態依然とした幕藩体制の打破。そして、天皇を絶対的な権威として頂点に戴き、諸外国と対等に渡り合える、強力な中央集権国家の樹立である。
彼にとって、天皇は、その理想を実現するための「駒」であり、神輿に担ぐべき「象徴」であった。帝自身の意思は、二の次、三の次。重要なのは、帝という権威を、いかにして自分の意のままに動かすかであった。
しかし、その帝が、今や私のあずかり知らぬところで、得体の知れない浪士の言葉に耳を傾け、心を動かされている。これは、岩倉の描くシナリオにとって、致命的な綻びとなりかねない。帝が、自らの意思で「政治」を始めようものなら、岩倉の存在価値そのものが失われてしまう。
「永倉新八……。貴様は一体、何を目指している? 幕府の権威復興か? それとも、会津藩の走狗として、私を骨抜きにしようというのか?」
岩倉は、様々な可能性を頭の中で巡らせた。だが、どの仮説も、一介の浪士が帝に直接進講するという、異常な事態を説明するには、説得力に欠けていた。
「いや、待てよ……」
その時、岩倉の脳裏に、一つの突飛な、しかし、妙に腑に落ちる仮説が閃いた。
「奴は……私と同じものを見ているのではないか……?」
すなわち、幕府でも、薩長でもない、第三の道。帝を中心とした、新たな日本の姿。もし、永倉新八という男が、自分と同じ理想を抱き、しかし、自分とは全く異なる手法で、それを実現しようとしているとしたら。
「……だとしたら、尚のこと、生かしてはおけぬ」
岩倉の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。この国を動かす舵取りは、二人もいらない。特に、私のコントロール下にない、得体の知れない役者など、舞台に上がる前に消えてもらうのが一番だ。
岩倉は、筆を取ると、淀みない筆致で、一通の書状を認めた。宛先は、薩摩藩、京屋敷留守居役、吉井幸輔。そしてもう一通は、長州藩の桂小五郎。かつて、自らを失脚させた敵とも言える相手。しかし、今は、そんな過去の遺恨にこだわっている場合ではなかった。
『帝の側に、危険な思想を吹き込む浪士あり。名は永倉新八。このままでは、我らが目指す大義は、根底より覆されるやもしれぬ。速やかに対策を講じる必要あり』
文面は、簡潔にして、危機感を煽るに十分なものだった。敵の敵は味方。いや、この際、敵も味方もない。共通の障害を排除するためならば、誰とでも手を組む。それが、岩倉具視という男のやり方だった。
「永倉新八。お前がどれほどの切れ者か知らぬが、公家社会の、そしてこの国の政治の闇を、甘く見ない方がいい。お前が光の当たる表舞台で帝のご機嫌を取っている間に、こちらは、水面下でお前の足元を、根こそぎ腐らせてくれる」
書状を届けさせるため、再び忍びを呼ぶ。その顔には、もはや焦りの色はなかった。明確な敵を見定め、次なる一手を打ったことで、彼の心は、むしろ凪いだ湖面のような静けさを取り戻していた。
だが、岩倉はまだ知らない。彼が警戒する永倉新八という男が、彼の想像を遥かに超える知識と、未来の歴史という、いわば「神の視点」を持っていることを。そして、その男が、岩倉の謀略すらも利用して、自らの描く「最強の近代国家」への道を切り拓こうとしていることを。
数日後、岩倉の放った諜報網は、驚くべき情報を彼のもとにもたらすことになる。永倉新八が、帝に「経済学」なる、全く新しい学問を説き、国家の富について進講しているという事実を。
「けいざい……だと……?」
その報告を受けた時、さすがの岩倉も、しばし言葉を失った。それは、彼の理解を、そしてこの時代の常識を、完全に超越した概念だったからだ。富とは、領地の石高であり、蔵の中の金銀である。それが、この時代の支配者層の、揺るぎない共通認識であった。それを、根底から覆すような思想。
「やはり、ただの浪士ではない……。一体、どこで、これほどの知識を……」
岩倉の心に、再び焦燥の炎が燃え上がった。それは、未知の敵に対する、本能的な恐怖にも似た感情だった。自分がこれまで築き上げてきた価値観、そして、これから築き上げようとしていた未来図が、足元からガラガラと崩れ落ちていくような、底知れぬ不安。
彼は、まだ気付いていない。自分が今感じている焦りこそが、永倉新八という男が仕掛けた、壮大な「魔改造」の、始まりの狼煙であったことに。歴史の歯車は、岩倉の知らないところで、既に大きく、そして静かに、回り始めていた。
永倉という存在に、策謀家・岩倉具視はついに焦りを隠せなくなりました。
敵である薩長とも手を組み、永倉を排除しようと動き出します。