第89話:京の出会い
帝から「密命」を託され、独り京の闇に潜る新八。
彼が背負うのは、新選組の隊服ではなく、日本の未来そのものとなりました。
既存の組織や藩の枠を超え、真に国を憂う「同志」を求めて、新八は動き出します。
帝から密命を拝してから、三日が過ぎた。
俺は壬生の屯所には戻らず、京の町なかに借りた隠れ家で、独り思考を続けていた。表向きは、池田屋事件の残党狩りと、不穏分子の継続調査。近藤さんや土方さんにはそう説明し、単独行動の許可を得ている。もちろん、本当の目的は口が裂けても言えない。
『朕、永倉新八を信ず』
帝の宸筆が記された紙と、守り袋。それらが収められた桐の箱は、肌身離さず懐に忍ばせている。この小さな箱が、俺の命よりも、そして下手をすればこの国の未来よりも重い。その事実が、ずしりと肩にのしかかっていた。
「さて、どうしたものか……」
独りごちながら、俺は粗末な文机に広げた京の地図を睨む。
帝の密命は二つ。一つは、帝の『教師』として、この国の真の姿を伝えること。そしてもう一つは、幕府内の『改革派』と接触し、帝が目指す真の『公武合体』への橋渡しをすること。
後者の密命を遂行するためには、まず情報が必要だ。それも、ただの噂話や聞き込みの類ではない。各藩の思惑、幕府内部の権力闘争、そして欧米列強の動向まで含めた、高度で戦略的な情報。山崎が率いる監察方の諜報網は、京の治安維持や不逞浪士の炙り出しには絶大な効果を発揮する。だが、こと政治的な駆け引き、それも国家の行く末を左右するような大局的な情報を掴むとなると、彼らの手法だけでは限界があった。
(必要なのは、カウンターパートとの接触だ)
官僚時代、省庁間の折衝や、民間企業との交渉で嫌というほど経験したことだ。公式のルートだけでは、物事は動かない。本当に重要な情報は、インフォーマルな、人間同士の繋がりの中から生まれる。重要なのは、誰がキーパーソンで、誰が信頼に値するのかを見極めること。
(会津の松平容保公は、ひとまず後回しだ。あの人は徳川への忠誠心に篤すぎる。俺の描く『徳川幕府の近代国家化』というビジョンを、果たして色眼鏡なしに見てもらえるか……)
江戸の閣僚たちは、物理的に遠すぎる。まずは、この京の都に集う者たちの中から、糸口を見つけなければならない。この時代の京は、日本の政治の中心地であり、情報の集積地だ。各藩は、国元の藩主や家老たちに情勢を報告するため、優秀な人材を京屋敷に常駐させている。彼らは、それぞれのネットワークを持ち、日夜、情報収集と工作活動に明け暮れている。
(薩摩、長州、土佐、肥前……特に、雄藩と呼ばれる藩の動向は注視する必要がある)
薩摩と長州は、池田屋事件以降、表立った動きこそ見せていないが、水面下で何を企んでいるか分からない。特に薩摩は、公武合体路線を掲げつつも、その腹の内は読めない。一筋縄ではいかない相手だ。
(となると、狙い目は……土佐か)
土佐藩。藩主・山内容堂は、幕府寄りとも勤王寄りともつかない、複雑な立ち位置の人物だ。だが、その藩士たちの中には、過激な尊王攘夷派もいれば、幕府の改革を志向する者もいる。そして何より、あの男がいるはずだ。
(坂本龍馬……)
史実では、彼はこの時期、すでに脱藩し、神戸で海軍塾を設立するなど、独自の活動を始めているはずだ。だが、彼の行動範囲は広く、神出鬼没。京の都に、ひょっこり現れていてもおかしくはない。あの男ならば、俺の持つ未来の知識や、国家戦略という概念を、面白がって受け入れる可能性がある。彼の規格外の発想力と行動力は、俺の計画にとって、強力な触媒となるかもしれない。
(他にも、中岡慎太郎、土佐勤王党の生き残り……あるいは、長州の桂小五郎や、薩摩の西郷隆盛、大久保利通……)
彼らは、史実では俺の、そして新選組の「敵」だ。だが、今の俺は、単なる新選組の一隊士ではない。帝の密命を帯びた、未来からの使者だ。敵も味方もない。あるのは、この国を救うという、ただ一つの目的だけだ。その目的を共有できるのなら、俺は誰とでも手を組む覚悟がある。
「よし……」
俺は立ち上がり、刀を腰に差した。着流しに羽織という、浪人風のいでたち。新選組の浅葱色の羽織は、あまりに目立ちすぎる。
「まずは、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ」
目的地は、木屋町。高瀬川沿いに料亭や旅籠が立ち並ぶ、京都有数の歓楽街。だが、その華やかな顔の裏で、各藩の志士たちが密かに会合を開き、熱い議論を交わす場所でもある。情報が、人が、そして何より「志」が集まる場所。そこに、俺の探している出会いが待っている気がした。
◇
夕暮れの木屋町は、提灯の明かりが灯り始め、華やいだ雰囲気に包まれていた。高瀬川を渡る涼しい風が、酒と料理の匂いを運んでくる。俺は、あえて名の知れた大店ではなく、少し路地に入ったところにある、こぢんまりとした料亭の暖簾をくぐった。こういう店の方が、人目を忍ぶ者たちが集まりやすい。
案の定、店内はさほど混んではいなかったが、客は皆、一癖も二癖もありそうな顔ぶればかりだった。藩の紋付を着た武士もいれば、俺のような浪人風の男もいる。彼らは、声を潜めて何事か話し合っており、店内にはピリピリとした緊張感が漂っていた。
俺は、店の隅にある目立たない席に腰を下ろし、熱燗を一本注文した。目的は酒ではない。この場の空気に身を浸し、有益な情報を拾い上げることだ。
酒をちびちびとやりながら、周囲の会話に意識を集中させる。
「……薩摩の動きが、どうにもきな臭い」
「長州は、池田屋の報復を狙っているとか……」
「幕府は、一体いつまで及び腰なのだ……」
聞こえてくるのは、断片的な情報ばかり。だが、それらを繋ぎ合わせることで、京の情勢が、肌感覚として伝わってくる。池田屋事件で大きな打撃を受けた長州は、復讐の機会を窺い、薩摩はそれを横目に独自の動きを見せている。そして、諸藩の志士たちは、そんな幕府の不甲斐なさに苛立ちを募らせている。まさに、一触即発。火薬庫のような状況だ。
(やはり、俺の読み通りだ。このままでは、いずれ大きな戦が起きる……)
そう確信した、その時だった。
ひときわ大きな声が、俺の耳に飛び込んできた。それは、店の奥の座敷から聞こえてくるようだった。
「じゃきに言うたろう!薩摩も長州も、結局は自分らの藩のことしか考えちょらん!このままじゃ、日本はバラバラになって、異国の思う壺じゃ!」
訛りの強い、だが妙に腹に響く声。その声に、別の、少し落ち着いた声が応じる。
「おいっ、声が大きい。少し抑えろ。じゃが、おまんの言うことにも一理ある。けんど、わしら土佐に、薩長を出し抜くだけの力があるか?」
「力がないなら、作ればえい!知恵を絞るんじゃ!金を集めるんじゃ!この日本の国を、洗濯するんじゃき!」
日本の、洗濯。
その突拍子もない言葉に、俺は思わず目を見張った。なんだ、この男たちは。ただの酔っぱらいの放言か?いや、違う。その言葉には、奇妙な熱と、そして確信がこもっている。
俺は、吸い寄せられるように、そっと席を立った。そして、声のする座敷の襖に、そっと耳を寄せる。
「……具体的に、どうするんじゃ。海軍を作るとか、商いを始めるとか、おまんの言うことは、いつも夢みたいに大きい」
「慎の字は、頭が固いのう。夢がなけりゃ、何も始まらんぜよ!ええか?これからの戦は、刀や槍だけでするもんじゃない。金じゃ!情報じゃ!そして、船じゃ!大きな船で海を駆け巡り、世界と渡り合うんじゃ!そうすりゃあ、薩摩がなんぼのもんじゃい!長州がなんぼのもんじゃい!」
船。世界。
その言葉に、俺の心臓が大きく高鳴った。間違いない。この思考、この発想は、常人ではない。そして、この独特の土佐弁。
(龍馬……坂本龍馬!)
俺は確信した。声の主は、俺が探し求めていた男、坂本龍馬に違いない。そして、もう一人の冷静な声の主は、おそらく中岡慎太郎だろう。
なんという幸運。いや、これは幸運などではない。俺が、この国の未来を変えようと行動したからこそ引き寄せた、必然の出会いなのだ。
俺はどうするべきか?このまま襖を蹴破って、乱入するか?いや、それは下策だ。彼らは、幕府の人間を、特に新選組を蛇蝎のごとく嫌っているはずだ。警戒されるだけだろう。
一度、席に戻って機会を窺うか。そう考えた、その瞬間だった。
ピタリ、と中の会話が止んだ。
そして、あの奔放な声が、襖のすぐ向こうから、俺に向かって言った。
「……そこのお方。さっきから、わしらの話に、随分と熱心に聞き耳を立てておられるようじゃが……何か、ご用でもおありかな?」
「……っ!」
気づかれていた!
俺は、自分の未熟さを恥じた。相手は、ただの夢想家ではない。幾多の修羅場をくぐり抜けてきたであろう、一流の志士。俺が放つ、わずかな殺気、あるいは異質な気配を、敏感に感じ取ったのだ。
もはや、ごまかしは効かない。
俺は、覚悟を決めた。すっと背筋を伸ばし、静かに襖を開ける。
「これは、失礼仕った。あまりにも興味深いお話をされていたもので、つい」
座敷の中には、二人の男がいた。
一人は、天然パーマの髪を無造服に束ね、着流しを着崩した、歳の頃は二十代後半か。だが、その瞳は、まるで全てを見透かすかのような、底知れない輝きを放っている。人懐っこい笑みを浮かべてはいるが、その奥に、鋭い刃のような知性を隠している。間違いなく、坂本龍馬だ。
もう一人は、対照的に、いかにも実直そうな、骨太の男。厳しい顔つきで、こちらを睨みつけている。歳は龍馬と同じくらいか。彼が、中岡慎太郎だろう。
龍馬は、俺の顔を上から下まで、品定めするように眺めると、にやりと笑った。
「ほう……。ただの聞き耳好き、というわけでもなさそうじゃのう。おんし、ただもんじゃない。その目……まるで、十年、二十年先の世を見ちょるような目をしとる」
「……!」
この男、やはり只者ではない。初対面の俺の本質を、一目で見抜くかのような洞察力。これが、あの坂本龍馬か。
「して、そんなおんしが、わしらに何の用じゃ?わしらは、しがない土佐の田舎もんで、お武家様にお聞かせするような話は、何もしちょらんぜよ」
龍馬は、わざととぼけたように言った。その隣で、中岡慎太郎が、警戒心を露わにしたまま、いつでも刀に手が伸ばせるよう、身構えている。
空気が、張り詰める。
ここで、俺がどう出るか。彼らは、それを見極めようとしている。
俺は、未来の知識を持つ官僚としての自分と、新選組の組長としての自分、そして帝の密使としての自分、その全てを総動員して、思考を巡らせた。
下手な嘘は、すぐに見破られる。かといって、全てを話すわけにもいかない。
ならば、示すべきは一つ。
俺は、彼らの目を真っ直ぐに見据え、静かに、だがはっきりと告げた。
「あんたたちが憂いていることと、俺が憂いていることは、おそらく同じだ。このままでは、この国は滅びる」
俺の言葉に、龍馬の瞳が、興味深そうにキラリと光った。中岡の眉が、ピクリと動く。
「ほう……。面白いことを言う。して、おんしは何者じゃ?名を、聞かせてもらおうか」
龍馬が、身を乗り出して尋ねる。
いよいよだ。ここが、最初の分水嶺。俺の正体を明かした時、彼らはどう出るか。敵となるか、味方となるか。
俺は、一度、ゆっくりと息を吸った。そして、腹を括って、名乗りを上げる。
その一言が、歴史の新たな交差点を生み出すことを、まだ誰も知らなかった。
木屋町の喧騒の中で巡り会ったのは、やはりあの男、坂本龍馬。
中岡慎太郎と共に語る「日本の洗濯」という壮大な夢。
その熱量に触れた新八は、覚悟を決めて彼らの前に姿を現します。
新選組の永倉新八だと名乗った時、龍馬はどう動くのか。
敵味方を超えた緊迫の心理戦と、歴史を動かす対話の行方にご注目ください。