第80話:近藤と土方の焦燥
新八が帝への進講で不在の続く壬生屯所。
その留守を預かる土方は、隊の運営への支障と、手の届かない場所へ仲間が行ってしまう焦燥に駆られます。
京の夜に、じっとりとした生ぬるい空気がまとわりつく。壬生屯所の表では、寝ずの番に立つ隊士たちの低い話し声と、虫の音がかすかに聞こえてくる。だが、幹部たちが詰める一室は、まるで時が止まったかのような静寂に支配されていた。
その静寂の中心にいるのは、新選組副長、土方歳三であった。
文机に広げられた隊士の名簿や経費の帳簿を、彼は鬼のような形相で睨みつけている。しかし、その視線は紙の上を滑り、焦点が合っていない。彼の意識は、ここにはなかった。
「……」
苛立ちを隠そうともしない舌打ちが、暗い部屋に響く。
その向かいで、泰然と構えて座っているのは局長の近藤勇だ。彼は愛刀の「虎徹」を手入れしながら、時折、ちらりと土方の様子を窺う。なだめるべきか、それとも気の済むまで放っておくべきか。近藤は、この幼馴染の扱い方を熟知していたが、今日の彼の「鬼」は、常にも増して厄介であることも理解していた。
やがて、沈黙に耐えかねたように、土方が持っていた筆を乱暴に投げ捨てた。
「近藤さん! いったいどういうつもりなんだ、新八の奴は!」
ついに堪忍袋の緒が切れた。その声は、怒気と、それ以上に戸惑いの色を濃く含んでいた。
「ここ数日、まともに屯所に戻ってきやしない。会津様からの御召状だかなんだか知らねえが、行き先は御所。帝に拝謁だと? 俺たち新選組は、いつから公家様のお使い走りになったんだ!」
土方の不満は、単なる感情論ではなかった。永倉の不在は、新選組の運営に実質的な支障をきたし始めていた。
「二番隊の連中がどうしてるか分かってんのか。隊長が留守続きで、訓練もままならねえ。巡察の割り振りだって、永倉隊だけ別に考えなきゃならん。あいつ一人がいねえだけで、どれだけ面倒が増えるか……!」
「まあ待て、トシ。落ち着け」
近藤は、柔らかな布で刀身を拭いながら、諭すように言った。
「永倉の行動は、すべて会津藩、ひいては帝からのご指示によるものだ。我らの独断でどうこうできる話ではない。それに、お前も分かっているだろう。新八が、意味もなく隊を空けるような男でないことは」
「分かってるさ! 分かってるからこそ、腹が立つんじゃねえか!」
土方は畳を拳で叩き、声を荒げた。
「あいつが俺たちを裏切るなんて、微塵も思っちゃいねえ。だが、何も言わずにいなくなるのは話が別だ! 俺たちは、試衛館の頃から苦楽を共にしてきた仲間じゃねえのか。水臭えにもほどがある!」
その言葉に、近藤の手がぴたりと止まった。土方の焦燥の根源が、隊の運営という実務的な問題だけでなく、もっと深い場所にあることに、彼はとっくに気づいていた。
それは、信頼しているからこそ募る不安。そして、自分たちの手の届かない場所へ、大切な仲間が行ってしまうのではないかという、一種の恐怖だった。
池田屋での大立ち回り。禁門の変での活躍。永倉新八という男の存在は、今や新選組の武威を象徴する柱の一つだ。その剣の腕と、未来を見通すかのような慧眼は、土方が描く「最強の剣客集団」という構想において、絶対に欠くことのできないものだった。
だが、最近の永倉は、その枠に収まりきらなくなってきている。
帝への進講。公家衆との交流。和宮様からの信頼。永倉が動くたびに、新選組の立場は向上し、発言力も増していく。それは、土方自身が望んでいたことでもあった。
しかし、その一方で、永倉の存在はどんどん大きくなり、自分たちの理解を超えた領域へと踏み込んでいく。まるで、急流に乗って大海へと向かう小舟のように。自分たちは、この岸辺に取り残されてしまうのではないか。
「……新八の奴、俺たちから離れていっちまう気じゃねえだろうな」
吐き捨てるように呟かれた土方の言葉には、普段の彼からは想像もつかない弱々しい響きがあった。それは、彼の本心から漏れ出た、偽らざる不安だった。
近藤は、手入れを終えた刀を鞘に収め、静かに言った。
「トシ。俺たちは、武州の片田舎から、この京に出てきた。何の後ろ盾もない、ただの浪人の集まりだった。それが今や、帝のおわす御所へ呼ばれるまでになった。その道を切り拓いたのは、誰だ?」
「……」
「永倉だ。あいつがいなければ、俺たちは今頃、まだ壬生のゴロツキ集団のままだったかもしれん。俺は、新八を信じている。あいつは、俺たち試衛館の、そして新選組の仲間だ。それは、この先何があろうと変わらん」
近藤の言葉は、力強く、揺るぎなかった。それは、土方に言い聞かせていると同時に、彼自身に言い聞かせているようでもあった。そうだ、不安なのは土方だけではない。この俺とて、同じなのだ。
その時だった。
「おや、近藤先生に土方先生。また難しいお顔をされていますね」
障子の向こうから、ひょこりと顔を覗かせたのは、一番隊組長の沖田総司だった。その屈託のない笑顔は、部屋に充満していた重苦しい空気を、一瞬で霧散させる不思議な力を持っていた。
「総司か。どうした?」
「いえ、さきほど井上先生から聞いたものですから。また永倉さんが、帝にお呼ばれしているそうですね。隊の若い者たちが噂していましたよ。『永倉先生は、もはや帝の一番のお気に入りだ』って。剣術だけじゃなく、学問でも天下一だなんて、すごいですよねえ」
沖田は、本当に感心したように、目を輝かせている。その言葉には、土方が抱くような嫉妬や焦燥のかけらは微塵も感じられなかった。ただ、仲間への純粋な尊敬があるだけだ。
「……学問、か」
沖田の無邪気な一言に、土方は毒気を抜かれたように、深く長い溜息をついた。
そうだ。永倉は今、剣ではなく、知識で戦っているのだ。俺たちが知らない、もっと大きく、もっと恐ろしい何かと。その戦いの場が、たまたま御所であったというだけの話ではないのか。
「俺たちが京の街の不逞浪士を斬っている間に、あいつは、この日ノ本そのものを蝕む見えざる敵と戦っている……そういうことなのか、近藤さん」
「おそらくはな」
近藤は、穏やかに頷いた。
「俺たちには俺たちの戦いがある。そして、永倉には永倉の戦いがある。場所は違えど、目指す先は同じはずだ。『誠』の旗の下、この国を守る。そのために、俺たちはここにいる」
沖田は、二人の深刻な会話の意味を半分も理解していないのか、こてんと首を傾げた。
「難しいことは分かりませんが、永倉さんが帰ってきたら、また一緒に剣の稽古がしたいですね。最近、ちっとも稽古に付き合ってくれないんですから」
そう言って唇を尖らせる沖田の姿に、張り詰めていた土方の口元が、わずかに緩んだ。
「……そうだな。帰ってきたら、ただじゃおかねえ。みっちりと稽古をつけて、なまった体を叩き直してやらねえと、気が済まねえ」
その声には、もはや先ほどまでの焦燥の色はなかった。それは、帰りを待つ仲間にかける、ぶっきらぼうだが、温かい響きを持っていた。
近藤は、そんな二人の様子を、安堵の表情で見守っていた。
永倉新八という男が、自分たちの想像をはるかに超える大きな存在になろうとしている。その事実は、変わらない。だが、どれだけ遠くへ行こうとも、帰る場所はここにある。この壬生の屯所が、俺たち新選組が、あいつの帰るべき場所なのだ。
今はただ、信じて待つしかない。
近藤は、窓の外に広がる京の夜空を見上げた。友の帰りを待ちわびながら、自らもまた、己の戦いに備えるのだった。
お読みいただきありがとうございます。
新八の不在は、土方の中に焦りと孤独を募らせました。
しかし、近藤の言葉と沖田の純粋さが、試衛館以来の固い絆を再確認させます。
剣ではなく知識で戦う友を信じ、待つことを選んだ仲間たちです。