母の願い、弟の想い
すでに血の気が引いていたイザベラの顔が、ますます青白くなっていく。
「う……嘘よ……そんな……」
「嘘などではありませんよ。なぜ今、我々魔導騎士団があなた方の前にいると思うのです? ナギの存在を面白く思わないあなた方が野に放たれては、後々面倒な事態を招きかねない。――我らが聖女に害為す恐れのあるものは、すべて確実に排除する。それが、国王陛下より聖女の護衛を任として賜った、我々魔導騎士団の使命です」
柔らかな口調で告げ、ライニールはにこりと笑う。
「イザベラ・マクファーレン。特にあなたは、ナギを私の母と混同しているところがあるようですから。グレゴリーと仲睦まじくしている彼女の姿に、母の面影でも見ましたか?」
「……っ」
図星を突かれたらしいイザベラが、顔を歪める。
ライニールの記憶にある母レイラは、とても儚げで美しい人だった。光に溶けるような淡い金髪に、白すぎるほど白い肌。健康的とはとても言い難く、どこか作りものめいた完璧な美貌の中、湖の青を映した瞳だけが幼い我が子への愛情で輝いていた。
ライニールは内心、密かに首を捻る。
(ナギの顔立ちそのものは、母上によく似ている気もするんだが……。なんというかこう、にじみ出る図太さ……じゃない、溢れ出る活力か? とにかく表情や雰囲気が違いすぎて、いまいちよくわからないんだよなあ)
彼の妹は、黙っていれば文句のつけようのない美少女だ。しかし、くるくるとよく変わる表情や、口を開くたび飛び出してくる素っ頓狂な発言のせいで、外見の愛らしさよりも元気いっぱいな印象のほうが強く残る。
一方、母を想うとき、ライニールの脳裏に甦るのは、優しく髪を撫でる指の柔らかさと、歌うように祈りを紡ぐ小さな声だ。
――大好きよ、ライニール。わたしの大事な宝物。
――あなたが生まれてきてくれて、わたしはとても幸せです。
――覚えていてね。忘れないで。
――あなたは、あなたの思うように生きていいの。
――どうか、幸せに。
――幸せになってね。
マクファーレン公爵夫人という、王族に次ぐ尊き女性の地位を手に入れていながら、かつてレイラが望んでいたのは、我が子のささやかな幸せだけだった。
幼く無力だった十六年前、最期の別れすら許されなかった母に対し、今のライニールが抱いているのは、ただひたすらに心からの感謝だ。
(ありがとう、母上。おれはあなたの望みのまま、自分の思う通りに生きていく)
ナギ。母が命と引き換えに残してくれた、たったひとりの愛しい妹。今こうして彼女を守るために生きられる人生が、本当に幸せだと思う。
そして、その幸せはライニールだけのものじゃない。
「マクファーレン公爵家の今後については、ご心配なさらずとも結構ですよ。あなた方の大切なご子息、グレゴリー・メルネ・マクファーレンが次代のマクファーレン公爵となることは、すでに国王陛下の承認を受けております。近いうちに、彼はマクファーレン公爵家当主として正式に立つことになりましょう」
「……っ何を言っているのだ、ライニール! あれはまだ、十五の子どもだぞ!?」
途端に噛みついてきたオーブリーに、ライニールは冷ややかな視線を返した。
「だから、なんだというのです? 彼はあなたなどよりよっぽど思慮深く、この国の臣下としての責任をきちんと理解している。もちろん、若年故の不安はあるでしょう。私も彼の兄として、手助けを惜しむつもりはありませんよ」
「きさま……! グレゴリーを操り人形にして、マクファーレン公爵家を乗っ取るつもりか!」
おや、とライニールは目を瞠る。そして、肩を揺らして小さく笑った。
「何をおっしゃるかと思えば、馬鹿馬鹿しい。そんな必要はありませんよ。何しろグレゴリーは、私と同じくナギの兄として、これから何が起ころうと、命に代えても必ずナギを守ると誓ってくれているのですから」
「は……?」
言葉を失ったオーブリーに、ライニールは問いかける。
「ところで、オーブリーどの。あなたは、グレゴリーの好きな食べ物は知っていますか? 彼の得意なことは? 苦手なもの、友人の名前は? ああ、イザベラどのに尋ねてみても構いませんよ。グレゴリーについて、何か私に教えられることがありますか?」
ぎくしゃくとした動きでオーブリーがイザベラを見たが、彼の妻は蒼白になってブルブルと震えるばかりだ。
予想通りとはいえ、マクファーレン夫妻のグレゴリーに対する無関心ぶりに、腹の底がじわりと煮える。それまで浮かべていた笑みを消し、ライニールは彼らに言う。
「グレゴリーの好物は、魔導学園の食堂で出されるレモンのシフォンケーキ。得意なことは乗馬で、得意科目は数学。苦手なものはきつい香水。親しい友人は、魔導学園で出会った少年少女が今のところ六名。ナギともいい友人関係を築いているようですが、彼の中では大切な妹、あるいは何をおいても守るべき我が国の聖女、と位置づけられているようですね」
この半月の間に、ライニールは何度かグレゴリーと顔を合わせる機会があった。マクファーレン公爵家を継ぐと決意した彼は、己の至らなさを理解した上で、ライニールに願ったのだ。
――ぼくの甘えだと受け取ってくださっても、構いません。
――ですが今は、次期マクファーレン公爵ではなく、同じ学び舎で学ぶクラスメイトとして、同い年の兄として、ナギのそばにいさせていただきたいのです。
――もちろん、公爵家を継ぐための努力を惜しむつもりはありません。
――ただぼくは、彼女の気持ちが弱ったときに、黙ってそばにいられる存在でありたい。
――ナギが辛いときに強がる必要のない、弱音を吐くことができる相手になりたいんです。
ナギの庇護者であり、大人であるライニールにはできないこと。
幼く頼りなく、ナギにとって決して頼るべき相手ではないグレゴリーだからこそできること。
ライニールの目をまっすぐに見て、今の自分がナギのためにできる最善を願った彼は、五年前に別れたときの子どもとは、まるで別の人間だった。その変わりようを成長と呼ぶのであれば、少し成長しすぎではないかとさえ思う。
グレゴリーは、ライニールにとってはナギと同じく、まだまだ守ってやるべき幼い子どもだ。けれどあのふたりは、決して守られるばかりの弱者ではない。その心の強さで、ときに周囲の大人たちの目をハッと醒まさせてくれる。
頼もしい、とさえ思うのだ。
「オーブリーどの。私はあなたに、たったひとつだけ感謝していることがあるんですよ。――私とナギ、そしてグレゴリーを捨ててくれて、本当にありがとうございます。お陰で私たちは、これからの人生を助け合って生きていける。魔導騎士団副団長の私と、マクファーレン公爵となるグレゴリーで協力しあって、聖女であるナギを守れる。何もかも、あなたが私たちを捨ててくれたからだ」
本当に、これだけは心から感謝している。
「そういうわけで、これからの私たちの人生に、愚かで無能なあなたは必要ないのです。あなたはどうぞおとなしく、この島でのんびりしていてくださいね。オトウサマ」
「……っ王妃、さまに……! 姉上に、お目通りを……! 頼む、ライニール! 王妃さまに、取り次ぎを!」
これが最後の頼みの綱とばかりに、王妃への直訴を願うオーブリーに、ライニールはひょいと肩を竦めて見せた。
「何をバカなことを。今回の我々の行動は、王妃さま直々のご命令だとお伝えしたはず。そうそう、この屋敷の食料庫には、向こう三十年分の戦場用携帯食を人数分ご用意してありますので、どうぞご安心ください。アンチマジックフィールドが展開されても、生活基盤に関わる魔導具だけは使用できるようになっているので、水も灯りも心配いりません」
「戦場用携帯食料……?」
オーブリーが呆然と繰り返す。マクファーレン公爵家で生まれ育った彼にとって、きっと今まで目にしたこともないものだろう。
「ええ。ほんのわずかな量で、人間の生命維持に必要な栄養がすべて補給できる、大変便利な優れものです。我々も、前線勤務の際にはよく世話になっておりますよ」
そして、ライニールは口元だけで小さく笑う。
「それは、ナギが――我が国の聖女が孤児院で育つ間、毎回の食事として与えられていたものです。彼女に倣うことができて、光栄でしょう?」
冷ややかに告げれば、オーブリーの顔が絶望に染まる。
ようやく、理解したのだろうか。この状況が覆ることは、決してないのだと。
そんな彼に、ライニールはフォルス島のゲートの鍵を示す。
「この鍵は、正当な所有者であるグレゴリーに渡しておきます。鍵を壊すかどうかは、彼次第。もしいつか、グレゴリーが再びあなた方に会いたいと思うことがあったなら、このゲートが再び開くこともあるかもしれません」
もっとも、とライニールは胸ポケットにゲートの鍵をしまって言う。
「愛人を取っかえ引っかえしてばかりの父親も、そんな父親に執着するばかりでまったく子どもを顧みない母親も――私ならば、二度と顔を見たいとは思いませんがね」
ライニールは、『上げて落とす』が得意です。