90.幕間 彼が生まれた日 前編
その日も彼は人を襲っていた。
月が出ない新月の夜。
人を襲うには絶好の機会だった。
闇にまぎれて、かすかに見えるのは松明の光。
聞こえてくるのは、馬の蹄の音と、車輪のこすれる音。
荷馬車で移動するのは、護衛もつけていない老人一人。
夜間の移動で眠いのか、手綱を握る手が僅かに緩んでいる。
金を惜しんで護衛を雇わなかったのか、整備された安全な街道だから油断したからか、はたまた別の理由か。
まあ、どうでもいい。
彼にとっては絶好の獲物だった。
音と気配を殺し、彼はゆっくりと獲物に近づく。
最初に接近に気付いたのは、荷車を運ぶ馬だった。
ヒィィン!と大きく嘶き、馬車は急停止する。
「な、なんじゃ……?」
老人も異変に気付く。
だが、もう遅い。
彼は老人の直ぐ傍まで迫っていた。
躊躇なく彼は老人に襲いかかった。
「キシャアアアアアアアアッッ!!」
「な、なんじゃ!?ぎゃあああああああああああ!!」
ガリッ、と。
何かを千切る音。そして何かが噴き出す音が響く。
馬が驚き、走り出す。
その拍子に彼と老人はそのまま地面に放り出された。
「あぎっ……ぁ―――」
老人は絶命した。
ぐちゃぐちゃと不気味な咀嚼音だけが、夜の闇へと消えてゆく。
≪経験値を獲得しました≫
彼の頭に声が響く。
だが、その意味は分からない。
知性が無いからだ。
「がぁ……?」
意味も分からず、彼は周囲を見渡す。
誰もいない。
彼はこの行為をずっと繰り返していた。
何度繰り返そうと、知性の無いゾンビには学習が存在しない。
ただ同じことを繰り返し、人を襲うだけだ。
ただ彼は他のゾンビとは少し違った。
これまで人に討伐される事無く、何度も何度も捕食に成功していたのだ。
捕食した数はゆうに百体を超えるだろう。
どうすれば効率よく狩る事が出来るか。
どうすれば獲物に反撃されないか。
どうすれば自分が狩られないのか。
学習とは違う。
このゾンビは、それを本能で理解していたのだ。
だからこそ、今まで生き延びてこれた。
「あむ……あう……んぐ」
音が止む。
どうやら“食事”が終わったようだ。
小さなゲップをして、彼が満足げに立ち上がった瞬間―――“それ”は起こった。
ズン!!!と。
突如、凄まじい揺れが彼を襲ったのだ。
「……ぁ?」
大地の怒りとしか表現できない程の激しい揺れ。
立つ事もままならず、彼はその場に倒れ込んだ。
大地の胎動に合わせて、彼は地面を転がる。
時間にして数十秒ほどだろうか。
ようやく揺れが収まった。
「がぁ……?」
何が起きたのだろうか?
彼は立ち上がって周囲を見渡す。
すると、少し離れたところに一人の人間が居た。
先ほどまで誰もいなかった筈なのに、その人間は突然現れたのだ。
「うお……随分揺れたな……」
それはメガネをかけた痩せ細った中年男性だった。
貴族が着る様な礼服に身を包み、手には四角い箱の様なものを持っている。
「ったく、こんな夜中に再開発するビルの下見なんてホントついてねぇな。部長の野郎、面倒臭ぇ仕事押しつけやがって」
何やらぶつぶつ呟きながら、中年男性はこちらに近づいてくる。
「暗くてなんも見えねぇじゃねぇか。えーっとスマホ、スマホ―――って、え?」
「がぁ?」
中年男性がスマホの光源を入れた瞬間、彼と目が合った。
「ひ、ひぃ!?な、なんだこの化け物は!?」
尻もちをつく中年男性。
「キッシャアアアアアアッッ!!」
彼は反射的にその男に襲いかかった。
彼は本能で理解していた。
この獲物は弱い、と。
狩れる、と。
事実、中年男性はあっさりと捕まった。
「うわあああああ!止めろ!離せ!離せえええええええええ!」
必死に逃げようと抵抗するも、腕力は彼の方が強かった。
中年男性は地面に倒れ、彼が馬乗りにのしかかる。
「ひぃぃぃいいいい!誰かああああああああ!助け デ ギャ……」
言葉は最後まで続かなかった。
ぐしゃり、と何かをかみ砕く音がした。
もぐもぐと彼は咀嚼する。
次の瞬間、再び頭の中に声が響いた。
≪経験値を獲得しました≫
≪カオス・フロンティアにおける最初の殺害を確認≫
≪ファースト・キル・ボーナスが与えられます≫
≪スキル『傲慢』を獲得しました≫
≪“傲慢”の獲得に伴い、それまでの経験値はリセットされます≫
≪LVが1になりました≫
今度はいつもよりも多めに声が響いた。
そして、次の瞬間、彼に『変化』が起きた。
「ガァッ……!?」
激しい痛みが全身を襲う。
まるで己の肉体が内側から作り変えられているようだった。
思わず胸を押さえ、彼はその場にうずくまる。
どれくらいそうしていただろう。
しばらくすると痛みは引いた。
立ちあがると、彼は己の変化に気付いた。
全身に力が漲っている。
失った筈の神経に大量の刺激が流れ込み、快感が駆け巡る。
そしてその瞳には、今までには無かった理性の光が宿っていた。
「…………」
彼は自分に起きた変化を理解し、笑みを深めた。
この日、この瞬間、世界は変わり、『彼』は生まれた。
【スキル:傲慢】
二つの世界が融合した新たな世界で、一番最初に人間を殺した魔物に与えられるスキル。
経験値を得る際に莫大な補正がかかる。
このスキルを手にした魔物はそれまでの経験値がリセットされ、代わりに高い知性と理性を手に入れる。
大罪を背負い、運命に導かれ、やがて魔物達を導く存在となるだろう。