それから(1985)

劇場公開日:1985年11月9日

解説・あらすじ

漱石の名作の映画化。生きるためだけに働くのは非人間的だとして“遊民”の生活を送る代助(松田)は、かつて友の本望に殉じて密かに愛し合っていた三千代(藤谷)を平岡(小林)に譲るが、三千代は代助を愛し代助を待ちながら、世俗的な平岡のもとで苦しんでいた。やがて代助は愛を告白するが、友と家からの絶縁が待っており……。明治末期の雰囲気を忠実に再現し、森田独特のリズムと映像美に貫かれた恋愛映画の傑作。国内の多くの映画賞を獲得した。

1985年製作/130分/日本
劇場公開日:1985年11月9日

スタッフ・キャスト

全てのスタッフ・キャストを見る

受賞歴

第9回 日本アカデミー賞(1986年)

受賞

最優秀助演男優賞 小林薫
最優秀撮影賞 前田米造
最優秀照明賞 矢部一男
最優秀録音賞 橋本文雄

ノミネート

優秀作品賞  
優秀監督賞 森田芳光
優秀脚本賞 筒井ともみ
優秀主演男優賞 松田優作
優秀音楽賞 梅林茂
優秀美術賞 今村力
優秀録音賞 宮本久幸
詳細情報を表示

関連ニュース

関連ニュースをもっと読む

フォトギャラリー

  • 画像1
  • 画像2
  • 画像3

(C)東映

映画レビュー

3.5 漱石の描いた世界の愛おしさ

2026年5月16日
スマートフォンから投稿

人は何故、愛に苦しむのか
創作の中に生きる人の愛。

和洋混合の時代の
日本の台詞が良い。
逃した愛に苦しむ男。
不幸な家庭に苦しむ女。

藤谷の仕草には好感を持てるが
台詞からは芯を感じられない。
芯の薄い台詞は惜しいなと思う。

所々ハッとする映像を放り込む
心留まる森田監督らしい表現。
極限に美しいが、異質もあった。

愛の本心

漱石の描いた世界。
この時代の人は皆
闇と光を抱えている。

それが愛おしい。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
星組

2.0 内容が難解な作品

2026年1月23日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

1985年作。2時間10分。
DVDで見ましたが音が小さくて声が割れているので一部聞き取れないなど話の展開が分かりませんでした。今だと配信があるので直っていると思いますが。
叫び声、濡れ場など無いのは良いですが、淡々と進み、よく分からないまま終わりました。原作を読むか数回見ないと訳が分からないと思います。
wikiで演技の答えがあらすじに全て書かれておりそういう事かと納得出来ました。
草笛さん、笠智衆さんなど松田優作と絡んだ事がない人が出てきたのは良かったですが。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
さとう

4.0 漱石文学の見事な映像化ーー未熟で美しい自己本位な生き方の挫折と孤独

2025年11月16日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1985年、昭和の最後の時期に公開された映画だ。当時、観たのかどうか記憶がない。森田芳光監督は「家族ゲーム」(1983)で僕のような一般観客にも知られるようになった。僕が初めて観たのは、次回作「メイン・テーマ」(1984)だ。10代後半だった僕が村上春樹とともに拠り所にしていた片岡義男の本の映画化だったからだ。「それから」は、この2作品の次に撮影された映画である。この3作だけでも作風や作品の方向性が全く違う。森田監督がいかにジャンルと作風と軽々と飛び越える、多彩で知性と教養に溢れた人であったかが、これだけでも証明されている。

「それから」は今回の国立映画アーカイブの特集上映で初めて見た。夏目漱石は、30代も後半になってから、僕にとって重要な作家になった。講演録「私の個人主義」で漱石が語った〝自己本位〟という言葉が、20代30代とサラリーマンを続けても、自分らしさみたいなものが確立できず鬱々としていた僕に、突破口を示してくれるように感じたからだ。
今回改めて「それから」を観て、自己本位であることの大切さと困難を、小説の中でも描いていたことが確認できたと思う。そして、それが現代の僕らにもまだ残された課題であることも痛感した。この点について整理してみたい。

まず、小説「それから」は1909年(明治42年)に朝日新聞で連載された作品だ。主人公は、20代後半なのに定職も持たずブラブラ暮らしている代助(松田優作)だ。高等遊民と言って当時、流行したらしい。これが可能になったのは、代助が財閥系の名家に生まれた次男だからだ。近代化で、大資本家が続々生まれ、華族や官僚などと結びつき上流階級を形成していた。代助もその一員だ。映画でも、大臣などが参加する自宅でのパーティに代助も燕尾服で参加する場面がある。
なにしろ選挙権は、国税15円以上納める男子限定で、人口数パーセントしかいなかったというのだから、拝金主義的な社会でもあると言えそうだ。
代助は、そんな社会も、そして「金のために働く」ことも軽蔑している。実家からの仕送りで暮らしているにもかかわらずである。家督相続制度で、家業は長男が引き継いでいる。代助は一家にとっては、家柄の良さを証明する教養豊かな人物でもあり、家業では働かせないのだと思われる。
もう一つは、代助が学んだのは外国語や文学や西洋哲学などだろう。その教養に見合うだけの理想の職業は見つからず、そして必死に働く友人たちの、新聞記者や翻訳家の仕事などもやればできるのにやる気がない。「金のための(低俗な)仕事」はNGなのである。そして今でいう〝自分探し〟をしているとみていいだろう。
代助は〝金持ちのわがままな坊ちゃん〟とも言えるが、彼の怠惰な生活の奥底には、知的な苦悩が横たわっている。近年のFIREブームからもわかる通り、現代でも働かなくていいなら働かないというのが多数派である。高等遊民は憧れの存在とも言えるだろう。
その一方で、企業ではパーパスやミッション経営などで、崇高な目的のための仕事という定義なども進んできた。「金じゃないんだ」という形を取らざるを得なくなってきたとも言えるし、大事なことに目を向ける余裕が出てきたと言えるのかもしれない。
しかし、〝わがまま〟に自分の思う通り、なんでも追求できる代助が、まだ何もしていないのは、その我(自己)が定まっていないからだ。そしてその結果、自分が好きだった三千代を友人に譲ってしまう。義侠心などと言っているが、浅はかである。三千代の、そして自分自身の気持ちなどをしっかり考えることもなく、強引に動く友人に引っ張り込まれたに過ぎないと思う。義侠心は後付けの理屈だ。
つまり、時代は近代化が行われたにも関わらず、近代的個人という自我は確立されておらず、これが漱石の苦悩でもあり、現代の僕らにも引き継がれているものだと思う。
そして、代助は、三千代が東京にやってきたことをきっかけに気持ちを再燃させ、さらに三千代を譲った親友の平岡(小林薫)が経済的にも困窮し、三千代に冷たく当たっていることを知るに連れて、自己本位に目覚めるのである。
「愛のためなら全てを捨てる」という近代的ロマンチックラブの精神に目覚めた代助は、それを実行に移す。しかし、その自己本位を実行するには代助はあまりに未熟で戦略性がない。坊ちゃんのように無鉄砲に突き進むだけである。
そして、三千代を死の危険に晒し、自分は家族から絶縁され、そしてその家族も新聞記者・平岡の筆により、刑事告発されるかもしれない。自己本位で生きる困難が一気に立ち上がってきて、物語は終わる。
「え、それで結局どうなっちゃうの?」というハラハラを残したまま観客を宙吊りにして映画は終わる。タイトル通り「それから」こそが大問題なのに、それは描かれない。それが、消化不良感ではなく、大きな余韻となるのは、代助は未熟な自己本位により、全てを失うということがしっかり描かれているからだと思う。
ここが辛いところだ。
漱石は、イギリス留学で自分が寄って立つ思想がない、空っぽな人間である現実を突きつけられ、そして自己本位という思想を確立した。しかし、それなのに作品世界では、その自己本位がもたらす破滅や苦悩ばかりで、自己本位な生き方の方法を示すこともないし、その生き方の爽やかさも示さない。
「自己本位という言葉を手にして私は大変強くなりました」という言葉を漱石は残しているが、その強さは、決して楽観的なものではなく、現実の厳しさと対峙し続ける、孤独な倫理であることも本作は見事に描き出しているように感じた。

森田芳光監督は、漱石の原作を、さらにセリフを削り取り、心情を象徴的にイメージとして見せることで、忠実な映像化に成功した。現在でも人気の国民作家・夏目漱石の主要作品の映像化は相当困難だ。なにしろ内面の葛藤や思索が多く、代助もそうだけれど、映画に必要な行動(アクション)をなかなか起こさない。それに、やはり時代背景が見えてこないとなかなか本当のところがわかりきらない。文章の美しさも映像では再現困難だ。本作は、ある意味恋愛映画に振り切ることで成功したとも言えるかもしれない。
夏目漱石作品に挑戦する監督が出てきてほしいと思う。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
nonta

2.5 明治時代の話し言葉をリアルに聴かせるという目論見は…

2025年11月13日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

久しぶりに再鑑賞。ううむ、もう少し面白かったように記憶していたのだが…。今回とくに強く感じたのは、演技レベルがてんでばらばらな出演者がごった煮のように放り込まれている、ということだ。主役の松田優作は終始抑えた演技に徹しているが、ここで新境地を拓いたというほどでもない。それより気になったのは共演者の面々だ。

まず、羽賀健二は映画冒頭の第一声からして違和感がハンパない。明治特有の言い回しについていけず、台詞との折り合いの悪さを露呈する。同じことは森尾由美と藤谷美和子の二人にもいえる。森尾のアイドル全開のしゃべりも酷いが、藤谷の幼児みたいな声質も気になって仕方ない。とくに後者はヒロインとして台詞が多いだけに困ったものだ。

終始ハラハラさせられるこの三人に対し、舞台役者のような口跡で異彩を放つ一群が、小林薫とイッセー尾形だ。二人の出自はともに舞台。唐十郎率いる「状況劇場」出身の前者は、芝居がかったセリフ回しで観客の耳目を惹く。かたや、当時まだ渋谷ジァン・ジァンの舞台に立っていた後者は、松田優作と相対してなお、自らの一人芝居のスタイルを崩さない(その是非はあろうが)。

もうひとつの一群は、笠智衆、草笛光子、中村嘉葎雄といった日本映画界の重鎮たちだ。さすがにこの三者は各人の存在感そのままに日常的な所作をリアルに再現してみせる。台詞も変化する表情に寄り添うように発せられ、齟齬がない。
その中で、笠智衆だけをカメラはやたらとローアングルで捉える。それでも醸し出されるイメージは「世界のOZU」というより「寅さんシリーズの御前様」に近いのはご愛嬌か(笑)。

そんなわけで個々人の演技にかなり温度差があるため、今日び絶対に耳にすることのない時代がかった「話し言葉」を、説得力あるリアリティをもって聴かせるという目論見はもろくも崩れ去っている。

では、ほかに見どころがないかといえば、そんなことはない。たとえば豊田四郎監督の文芸作品のような日本家屋のセットなど、実に見事なものだ。手がけた日活の美術部門は大健闘である(宿屋のセットなど一部は東宝がやったようだが)。

また映像表現に目をやると、静止画ふうの雨中のショットや陽炎のように揺らめく映像は、どこか鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(1980)や『陽炎座』(1981)を想起させるし、くりかえし挿入される路面電車内の幻想的な光景は、70年代後半以降のフェリーニ作品に見られるような作りもの性が充満していて面白かった。

なお、この市電のショットに流れる「空気感」は、本作と同じ1985年に公開された杉井ギサブロー監督作品『銀河鉄道の夜』のムードにも一脈通じるように感じられた。こういうのを「時代の気分」と呼んでもいいのかもしれない。

以上、国立映画アーカイブの特集上映「映画監督 森田芳光」にて。

コメントする (0件)
共感した! 0件)
いたりきたり

他のユーザーは「それから(1985)」以外にこんな作品をCheck-inしています。