三瓶啓二
さんぺい けいじ 三瓶 啓二 | |
---|---|
生誕 |
1954年9月13日(70歳) 日本 福島県双葉郡富岡町 |
民族 | 日本人 |
出身校 | 早稲田大学第二文学部 |
職業 | 空手家 |
団体 | 新極真会三瓶道場 |
三瓶 啓二(さんぺい けいじ、男性、1954年(昭和29年)9月13日 - )は、日本の空手家(新極真会七段)。福島県出身。NPO法人全世界空手道連盟新極真会福島支部長[1]。
来歴
[編集]福島県双葉郡富岡町出身。福島県立磐城高等学校・早稲田大学第二文学部卒。早稲田大学在学時は、極真会館早稲田大学支部(早大極真会)第3代主将となる。
1974年に極真会館の第6回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で8位入賞。
1979年11月に開催された第2回全世界空手道選手権大会では準決勝でウィリー・ウィリアムスと対戦。ウィリーの度重なる掴みからの膝蹴り、三瓶を投げた事から、ウィリーの反則負けとなる。決勝に進出した三瓶は中村誠に敗れ、準優勝。なお、この決勝戦の組み合わせ・勝敗は同年5月に行われた第11回全日本選手権の顔合わせと全く同じであった。後に1984年に中村が引退するまで、両者の名前を取り“三誠時代”と呼ばれた[2]。
1980年の第12回全日本選手権に決勝で中村と対戦。3度の延長の末、体重判定で初優勝した。さらにその後も2大会連続で優勝し、史上初の全日本3連覇を達成した。1983年には大西靖人に敗れて7位入賞。1984年に第3回全世界選手権に出場するも、決勝で中村に再び敗れて準優勝。同年の第16回全日本選手権は4回戦まで勝ち上がったが、ケガにより棄権。これが最後の大会出場となった。
1979年8月に三瓶は百人組手に挑戦したが、49人で失敗した。しかし、1990年3月に再挑戦して、完遂した。
1994年4月に大山倍達が死去。翌1995年に同調する支部と松井館長派(現極真会館松井派)から分裂。支部長協議会派(現:全世界空手道連盟新極真会)を作り、1997年から同派の代表に就任。2000年には緑健児に代表の座を譲った。
現在は、新極真会相談役・福島支部長として後進の指導に当たっている。また、ロシア、カザフスタン、ジョージア、ハンガリー、モーリシャス、デンマーク、ブルガリア、ベルギー、オランダ、ルーマニア等に遠征し、積極的に空手技術の指導にも尽力している。
主な戦績
[編集]- 1974年:第6回全日本空手道選手権大会 8位
- 1976年:第8回全日本空手道選手権大会 5位
- 1977年:第9回全日本空手道選手権大会 6位
- 1978年:第10回全日本空手道選手権大会 準優勝
- 1979年:第11回全日本空手道選手権大会 準優勝
- 1979年:第2回全世界空手道選手権大会 準優勝
- 1980年:第12回全日本空手道選手権大会 優勝
- 1981年:第13回全日本空手道選手権大会 優勝
- 1982年:第14回全日本空手道選手権大会 優勝
- 1983年:第15回全日本空手道選手権大会 7位
- 1984年:第3回全世界空手道選手権大会 準優勝
三瓶理論
[編集]三瓶啓二が唱える、骨と呼吸で生み出す身体操作による空手理論[3]。筋力に主をおいた稽古とは別の角度から強さを追求している。年齢に関係なく、自分を高めていくことができるものだという。
1.金槌の理論
- 金槌で叩く時、どの部分を握れば少ない力で大きな効果が出るのか、を実例として、これを空手の突きや蹴りに当てはめ、突きの場合は肩甲骨、蹴りの場合は骨盤の使い方によって突きや蹴りの威力を磨く。動かしにくい肩甲骨や骨盤を自在に操るには、どのような稽古が有効であるかを追求している。
2.横隔膜を落とす
- 丹田から力を発揮するため、その源となる横隔膜のコントロール方法を追求している。
3.三角形の理論
- 丹田から力を出すことを重視すると、体のバランスが三角形となり、理想的な安定した体型となる。また、腹式呼吸によって自律神経をコントロールすることができ、生命エネルギーも高められるという効果がある。肉体面だけでなく、精神面も安定し、日常生活においても、リラックスした状態で過ごすことができるようになるという[4]。
脚注
[編集]- ^ WEB秘伝. “三瓶啓二 Sampei Keiji”. 2015年6月8日閲覧。
- ^ ライバル対談 三瓶啓二 VS 中村誠 (1983年) 拳の眼
- ^ 三瓶啓二の“身体ゼロ化”の実践!「技」を「力」に転化する - Amazon.co.jp
- ^ 空手LIFE 2011.2月号 No.43「三瓶理論」
参考文献
[編集]- 第29回東北空手道選手権大会 大会パンフレット24ページ「三瓶啓二」紹介記事
主な弟子
[編集]- 増田亮一
- 平野健次
- 橋本直樹