上杉勝承
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 享保20年1月12日(1735年2月4日) |
死没 | 天明5年6月6日(1785年7月11日) |
改名 | 幸松(幼名)→勝承 |
別名 | 俳号:素嶺 |
戒名 | 大方院無外帰一大居士 |
墓所 | 東京都港区白金の興禅寺 |
官位 | 従五位下、駿河守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 出羽米沢新田藩主 |
氏族 | 上杉氏 |
父母 | 父:上杉勝周、母:片桐貞起の娘・於繁 |
兄弟 | 勝承、金田正矩 |
妻 |
正室:片桐貞音の娘 継室:安藤信尹の娘 |
子 | 養嗣子:勝定(上杉重定3男) |
上杉 勝承(うえすぎ かつよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。出羽国米沢新田藩の第2代藩主。米沢藩では俳諧でも有名で、素嶺の歌号を持つ。
経歴
[編集]享保20年(1735年)、上杉勝周の長男として誕生した。延享4年(1747年)、父の死去により家督を継いだ。駿府加番を務め、藩政では財政窮乏のために厳しい倹約令を出すと共に、産業の振興に努めた。宝暦6年(1756年)に米沢に初入国する。
本家の藩主・上杉重定は奢侈に耽り政治に無関心で、近臣の森利真が権勢を振るって藩政が混乱していた。宝暦12年(1762年)・同13年(1761年)に米沢藩の混乱を幕府に訴える箱訴まで行われ、幕閣の話題に上るに至ったため、勝承は宝暦13年12月に尾張藩家老に、重定の義兄弟である藩主・徳川宗睦に翌年の参府中、重定の引退勧告を働きかけるように依頼している。明和4年(1767年)に重定が隠居し、養嗣子治憲(鷹山)が家督相続すると、治憲や米沢藩江戸家老・色部照長と共に、白子神社に大倹実行の誓詞を奉納する。
天明5年(1785年)、死去した。享年51。跡を養嗣子の勝定(重定の三男)が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
養子