下川儀太郎
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下川儀太郎 しもかわ ぎたろう | |
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生年月日 | 1904年2月1日 |
出生地 |
日本 静岡県静岡市 (現・静岡市葵区) |
没年月日 | 1961年2月6日(57歳没) |
出身校 |
日本大学芸術科中退 静岡商業学校卒業 |
前職 | 詩人 |
所属政党 |
(左派社会党→) 日本社会党 |
選挙区 | 旧静岡1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1952年10月1日 - 1958年4月25日 |
静岡県議会議員 | |
選挙区 | 静岡市選挙区 |
当選回数 | 2回 |
下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年(明治37年)2月1日[1][2] - 1961年(昭和36年)2月6日[1][2][3])は、大正から昭和期の詩人、社会事業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]静岡県[3]静岡市太田町[1][2][4](現:静岡市葵区太田町)出身。1918年(大正7年)静岡商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)を卒業し[3][4]、日本大学芸術科を中退した[1][2][4]。
1924年(大正13年)に労働詩を発表[4]。日本プロレタリア作家同盟(中央委員)、全日本無産者芸術団体協議会に加わり、詩、評論などを発表[1][3][4]。戦前、戦中の静岡県プロレタリア文化運動の中心人物として活動し、反戦容疑などで2回投獄された[4]。また、社会事業にも参画し母子ホーム託児所の建設、運営を行った[1][3][4]。
1947年(昭和22年)静岡市から静岡県議会議員に選出され2期在任し、民政労働委員長を務めた[3][4]。1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に静岡県第1区から左派社会党公認で出馬して初当選し[4][5]、その後、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続3期在任した[1][3][4]。この間、社会党再統一後には社会党文化副委員長、同静岡県連書記長、同副委員長などを務めた[3][4]。
著書
[編集]- 『ビラ:詩集』紅玉堂書店、1930年。
- 『母子寮の歌』四元社、1942年。
- 『下川儀太郎詩集:富士と河と人間と』第一書店、1948年。
- 『インドへの道』静岡新聞社出版部、1952年。
- 『陣笠三九郎都へ行く』光文社〈カッパ・ブックス〉、1957年。
- 『魔の十三号室』第二書房、1958年。
- 『人間の巣』第二書房、1958年。
- 『緋縮緬』朱雀社、1959年。
- 『陣笠三九郎西へ行く』朱雀社新社、1959年。
- 『兵六大臣行状記:漁色のこよみ』朱雀社新社、1960年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第二巻、講談社、1977年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 静岡新聞社出版局編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。