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下川儀太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
下川儀太郎
しもかわ ぎたろう
生年月日 1904年2月1日
出生地 日本の旗 日本 静岡県静岡市
(現・静岡市葵区
没年月日 (1961-02-06) 1961年2月6日(57歳没)
出身校 日本大学芸術科中退
静岡商業学校卒業
前職 詩人
所属政党左派社会党→)
日本社会党

選挙区 旧静岡1区
当選回数 3回
在任期間 1952年10月1日 - 1958年4月25日

選挙区 静岡市選挙区
当選回数 2回
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下川 儀太郎(しもかわ ぎたろう、1904年明治37年)2月1日[1][2] - 1961年昭和36年)2月6日[1][2][3])は、大正から昭和期の詩人社会事業家、政治家衆議院議員

経歴

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静岡県[3]静岡市太田町[1][2][4](現:静岡市葵区太田町)出身。1918年(大正7年)静岡商業学校(現静岡県立静岡商業高等学校)を卒業し[3][4]日本大学芸術科を中退した[1][2][4]

1924年(大正13年)に労働詩を発表[4]日本プロレタリア作家同盟(中央委員)、全日本無産者芸術団体協議会に加わり、詩、評論などを発表[1][3][4]。戦前、戦中の静岡県プロレタリア文化運動の中心人物として活動し、反戦容疑などで2回投獄された[4]。また、社会事業にも参画し母子ホーム託児所の建設、運営を行った[1][3][4]

1947年(昭和22年)静岡市から静岡県議会議員に選出され2期在任し、民政労働委員長を務めた[3][4]。1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙静岡県第1区から左派社会党公認で出馬して初当選し[4][5]、その後、1955年(昭和30年)2月の第27回総選挙まで再選され[5]、衆議院議員に連続3期在任した[1][3][4]。この間、社会党再統一後には社会党文化副委員長、同静岡県連書記長、同副委員長などを務めた[3][4]

著書

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  • 『ビラ:詩集』紅玉堂書店、1930年。
  • 『母子寮の歌』四元社、1942年。
  • 『下川儀太郎詩集:富士と河と人間と』第一書店、1948年。
  • 『インドへの道』静岡新聞社出版部、1952年。
  • 『陣笠三九郎都へ行く』光文社〈カッパ・ブックス〉、1957年。
  • 『魔の十三号室』第二書房、1958年。
  • 『人間の巣』第二書房、1958年。
  • 『緋縮緬』朱雀社、1959年。
  • 『陣笠三九郎西へ行く』朱雀社新社、1959年。
  • 『兵六大臣行状記:漁色のこよみ』朱雀社新社、1960年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『新訂 政治家人名事典』309頁。
  2. ^ a b c d 『日本近代文学大事典』第二巻、189頁。
  3. ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』316頁。
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『静岡県歴史人物事典』232-233頁。
  5. ^ a b 『国政選挙総覧 1947-2016』208頁。

参考文献

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  • 日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第二巻、講談社、1977年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 静岡新聞社出版局編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
  • 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。