丹羽高寛
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丹羽高寛 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 宝永4年(1707年)または宝永5年1月27日(1708年2月18日)とも |
死没 | 明和6年6月29日(1769年8月1日) |
改名 | 高寛、豁如(号) |
別名 | 百介、五郎左衛門 |
戒名 | 大嶽院殿豁如了然大居士 |
墓所 | 福島県二本松市の大隣寺 |
官位 | 従五位下左京大夫、従四位下 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 陸奥二本松藩主 |
氏族 | 丹羽氏 |
父母 |
父:丹羽長道、母:沢井氏 養父:丹羽秀延 |
妻 |
正室:丹羽長之の娘 側室:久保氏 |
子 | 高庸、生駒親信、津田正安、安藤定慶、阿部正右正室、稲葉正益継室、西尾忠雅正室、丹羽長裕室、小浜致隆正室、菅谷政常正室 |
丹羽 高寛(にわ たかひろ)は、江戸時代中期の大名。陸奥国二本松藩の第5代藩主。官位は従四位下・左京大夫。丹羽家第6代。長崎奉行などを務めた丹羽長守の孫。
生涯
[編集]享保7年(1722年)3月28日、旗本・丹羽長道(藩祖・丹羽長秀の6男で1500石の旗本となった丹羽長次の子孫)の嫡子として、第8代将軍・徳川吉宗に初御目見する。享保13年(1728年)6月25日、先代藩主・丹羽秀延の死により、末期養子として家督を継いだ。同年7月1日、改めて徳川吉宗に御目見する。同年9月7日、従五位下左京大夫に叙任する。享保15年6月23日、陸奥国伊達郡・信夫郡の幕領5万石を預けられる。享保19年12月18日、従四位下に昇進する。寛保2年(1742年)11月17日、預かり地を幕府に返還する。
老臣の丹羽忠亮と共に綱紀粛正と文武の奨励に取り組み、儒者の桂山彩厳の推挙により、岩井田昨非を召抱える。
延享2年(1745年)5月9日に病気のため隠居し、長男・高庸に家督を譲った。隠居後、豁如と号する。明和6年(1769年)に死去した。
逸話
[編集]寛延2年(1749年)、昨非の献策により、二本松城前に藩士たちへの戒めのため「戒石銘碑」を彫らせた。
- 爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺
- (爾の俸、爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)
と刻まれており、藩政改革と綱紀粛正の指針を示した。
系譜
[編集]父母
正室
- 丹羽長之の娘
側室
- 久保氏
- 美濃部氏
- 大谷氏
- ルノ
- チセ
- フジ
- 梅
- 稲垣氏
子女
- 丹羽高庸(長男)生母は久保氏(側室)
- 生駒親信[1](次男)生母は大谷氏(側室)
- 津田正安、生母はチセ(側室)
- 安藤定慶、生母は稲垣氏(側室)
- 阿部正右正室、生母は美濃部氏(側室)
- 稲葉正益継室、生母は稲垣氏(側室)
- 西尾忠雅正室、生母はルノ(側室)
- 丹羽長裕室、生母はフジ(側室)
- 小浜致隆正室、生母は梅(側室)
- 菅谷政常正室