佐竹義真
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佐竹義真像(天徳寺蔵) | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保17年8月4日(1732年9月22日) |
死没 | 宝暦3年8月20日(1753年9月17日) |
改名 | 左吉、徳寿丸(幼名)、義真 |
別名 | 次郎(通称) |
官位 | 従四位下・侍従、左兵衛督 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重 |
藩 | 出羽久保田藩主 |
氏族 | 佐竹氏 |
父母 |
父:佐竹義堅、母:野口氏 養父:佐竹義峯 |
兄弟 | 義真、女子 |
妻 | 正室:前田吉徳の3女・揚 |
子 | 養子:義明 |
佐竹 義真(さたけ よしまさ)は、江戸時代中期の大名。出羽国久保田藩の第6代藩主。佐竹氏第24代当主。通称は次郎。官位は従四位下・侍従、左兵衛督。
略歴
[編集]享保17年(1732年)8月4日、佐竹義堅(5代藩主・佐竹義峯の養子)の長男として誕生。生母は野口氏。幼名は左吉、徳寿丸。
元文3年(1738年)5月7日、幕府に丈夫届を提出する。丈夫届では年齢を4歳上積みし、生年を偽った。また、幼名を左吉から徳寿丸に改める。「徳寿丸」とは、佐竹家の嫡子を示す幼名であった。同年4月11日、幕府に父・義堅の嫡子としての届け出を提出する。寛保2年(1742年)4月19日、祖父・佐竹義峯の世嗣になる。義峯は後継者に恵まれず、分家から父・義堅を養子に迎えた。しかし、義堅は家督を継承することなく死去した。延享元年(1744年)8月25日、通称を次郎とする。同年9月1日、8代将軍・徳川吉宗に御目見する。延享3年(1746年)12月18日、従四位下左兵衛督に叙任される。
寛延2年(1749年)10月16日、祖父・義峯の死去により、家督を相続する。同年12月18日、侍従に昇進。宝暦元年(1751年)4月15日、初めてお国入りする許可を得る。同年5月8日、初入国し、久保田城に到着する。宝暦2年(1752年)7月1日、前田吉徳の娘揚と結婚する。宝暦3年(1753年)8月20日、久保田城において死去した。享年22(官年では享年26)。体中に腫物ができて、足が麻痺して死に至った。江戸時代の講談では、義真の死因を毒殺としている。
正室は前田吉徳の三女・揚(1737-1762)。子女はいなかった。久保田藩主佐竹家は、出羽岩崎藩主・佐竹義道の長男・義明によって家督相続された。
系譜
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