劉永 (新朝)
劉永 | |
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梁 | |
皇帝 | |
王朝 | 梁 |
在位期間 | 25年(更始3年)-27年(建武3年) |
都城 | 睢陽 |
生年 | 不詳 |
没年 | 27年(建武3年) |
父 | 劉立 |
子 | 劉紆 |
劉 永(りゅう えい、? - 27年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将・政治家。豫州梁郡睢陽県の人。父は梁王劉立。弟は劉防・劉少公。子は劉紆。前漢の梁孝王劉武の八世の孫で、新代から後漢初期にかけて梁国に割拠した、漢宗室の群雄の一人である。
事跡
[編集]東方に覇を唱える
[編集]父の劉立は、平帝の外戚の衛氏と交流があったため、元始3年(3年)に王莽に誅殺された。
更始元年(23年)に劉玄(更始帝)が即位し、洛陽入りすると、劉永はこれに拝謁して梁王に封じられ、睢陽(梁郡)を都とした。その後、更始帝の統治が乱脈になったのを聞くと、劉永は独立行動をとるようになる。劉永は、弟の劉防を輔国大将軍、次の弟の劉少公を御史大夫にそれぞれ任命し、劉少公は魯王にも封じた。そして周建などの豪傑を招聘して将帥に任命し、済陰・山陽・沛・楚・淮陽・汝南の各郡を攻略して、28城を獲得している。
さらに劉永は近隣の群雄、すなわち西防(山陽郡)の佼彊を横行将軍、東海郡の董憲を翼漢大将軍、琅邪郡の張歩を輔漢大将軍にそれぞれ任命して、自らの支配下に加え、中国の東部地域を幅広く手中に収めた。更始3年(25年)、更始帝が赤眉軍に敗北すると、劉永は天子を自称している。
呉漢・蓋延に敗北
[編集]建武2年(26年)夏、光武帝(劉秀)は、虎牙大将軍蓋延と更始政権からの降将蘇茂に、劉永討伐を命じた。しかし、この2人の将軍は反目しあい、ついに蘇茂は劉永に寝返ってしまう。劉永は、蘇茂を大司馬に任命し、淮陽王に封じた。
しかし、それでも蓋延は攻勢を緩めず、劉永は睢陽を攻め落とされて、虞(梁郡)へ逃げ込んだ。さらに、そこで虞の住民に叛かれ、劉永は妻子を失い、辛うじて譙(沛郡)へ逃れる。この劉永の危地に、蘇茂・佼彊・周建が救援に駆けつけたものの、やはり蓋延に敗北を喫し、劉永は佼彊と周建に守られながら湖陵(山陽郡)へ退いた。
建武3年(27年)春、劉永は張歩を斉王、董憲を海西王にそれぞれ封じ、自陣営につなぎ止めた。漢軍には新たに大司馬呉漢が加わり、蘇茂が広楽城(梁郡虞県)で敗北して湖陵へ逃れてくるなど、劉永軍の劣勢は続いたが、旧本拠地の睢陽が再び劉永に味方したため、劉永はそこへ還る。しかし、呉漢と蓋延の軍に睢陽を包囲され、劉永・蘇茂・周建は糧食が尽きたために城を脱出したが、その逃走中、劉永は部将の慶吾に叛かれて殺された。慶吾は、劉永の首級を光武帝に献じて、列侯に封じられている。
劉永死後、蘇茂と周建が遺児の劉紆を後継に擁立して、漢への抗戦を続けたが、建武5年(29年)8月、劉紆は郯城(東海郡)を陥されて逃げ場を失い、ついに部下の兵士高扈に裏切られて殺され、梁国は漢に組み入れられた。
参考文献
[編集]- 『後漢書』列伝2 劉永伝