司馬楚之
司馬 楚之(しば そし、390年 - 464年)は、東晋の皇族。字は徳秀。本貫は河内郡温県。東晋の武将であった劉裕と対立し、北魏に亡命した。
司馬懿の四男の司馬馗(魏の東武城侯)の末裔にあたる。玄祖父は東晋の彭城王司馬紘(司馬叔璠の祖父の河間王司馬欽の兄)。高祖父は高密王司馬俊。曾祖父は高密王司馬純之。祖父は高密王司馬恢之。父は司馬栄期。
経歴
[編集]東晋の梁益二州刺史の司馬栄期の子として生まれた。父の赴任先の益州で成長したが、義熙2年(406年)に父が参軍の楊承祖に殺されると、楚之は父の遺体を運んで丹陽に帰った。劉裕が司馬氏一族の粛清を図り、楚之の叔父の司馬宣期や兄の司馬貞之が殺害されると、楚之は逃亡して沙門たちの中にまぎれこみ、長江を渡った。歴陽から義陽・竟陵の少数民族の間に入った。義熙11年(415年)、従祖の荊州刺史司馬休之が劉裕に敗れると、汝潁の間に逃亡した。
司馬順明や司馬道恭らとともに仲間を集め、長社に拠って1万人あまりの勢力を築き、劉裕に対する報復の機会をうかがった。劉裕は楚之を暗殺するため、刺客の沐謙を楚之のもとに派遣した。沐謙は楚之に迎えられて厚遇を受けた。沐謙は病といつわって、楚之が見舞いに来たところを殺そうと計画した。はたして楚之は沐謙の病を聞きつけてやってきたが、薬湯を用意し、あまりに親身な態度を取る楚之に沐謙は感じ入ってしまい、席下に隠していた匕首を見せ、暗殺計画をすっかり自白した。以後、沐謙は楚之に仕えた。
泰常4年(419年)、楚之は北魏に使者を派遣して帰順を願い出た。泰常8年(423年)、使持節・征南将軍・荊州刺史に任じられた。楚之は率いていた戸民を豫州の汝南郡・汝陰郡・南頓郡・新蔡郡に分置した。
太武帝の初年、楚之は妻子を鄴に住まわせると、まもなく平城に召還されて入朝した。神䴥3年(430年)、南朝宋の文帝が到彦之を派遣して北伐の軍を起こすと、楚之は北魏の使持節・安南大将軍となり、琅邪王に封じられ、潁川に駐屯して南朝宋の侵攻を防いだ。
南朝宋の到彦之は大軍を北に進軍させて黄河に突き当たると西に転進し、南岸に沿って潼関まで進んだ。到彦之らが退却に転じると、楚之は南朝宋の別軍を長社で撃破した。神䴥4年(431年)、冠軍将軍の安頡とともに滑台を攻め落とし、南朝宋の将軍の朱修之・李元徳と東郡太守の申謨を捕らえ、捕虜1万人あまりを得た。散騎常侍として召還された。
太延5年(439年)、北涼に対する征戦に従軍した。太平真君3年(442年)、南朝宋の裴方明・胡崇之らが仇池に侵攻してくると、楚之は仮節を受け、淮陽公皮豹子らとともに関中の諸軍を率いて散関の西から仇池に入り、裴方明を撃破して敗走させ、胡崇之を捕らえた。仇池が平定されると、平城に帰還した。この年、使持節・侍中・都督梁益寧三州諸軍事・護西戎校尉・鎮西大将軍・開府儀同三司・揚州刺史に任じられて、寿春に駐屯した。
太平真君4年(443年)、太武帝が柔然に対して親征の軍を起こすと、楚之は済陰公盧中山らとともに物資の運搬を担当した。ときに鎮北将軍の封沓が柔然に亡命して、北魏軍の補給の遮断を図り、楚之らを攻撃してきた。楚之は柳を切って城を築き、水をかけると凍らせた。楚之の築いた氷の城は堅固で、封沓らは攻略できずに退却した。
まもなく仮節・雲中鎮大将・朔州刺史に任じられた。辺境の統治にあたること20年あまり、清廉倹約で知られた。
和平5年(464年)10月、死去。享年は75。都督梁益秦寧四州諸軍事・征南大将軍・護西戎校尉・揚州刺史の位を追贈された。諡は貞王といった。金陵に陪葬された。
妻子
[編集]妻
[編集]- 河内公主