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唐衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唐 衡(とう こう、生年不詳 - 164年)は、後漢宦官本貫潁川郡郾県

経歴

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桓帝の初年、唐衡は小黄門史となった。

ときに梁冀のふたりの妹が順帝と桓帝の皇后となったことから、梁冀が父の梁商に代わって大将軍となり、外戚として権勢を振るっていた。梁冀は太尉李固杜喬らを殺害し、梁皇后も多くの妃嬪を毒殺した。公卿や百官たちは口をつぐむようになり、梁氏一族の権勢を批判する者はいなくなった。桓帝も内心不満を抱きながら、廃殺を恐れて本心を漏らそうとしなかった。159年延熹2年)7月[1]、梁皇后が死去すると、桓帝は厠に行き、ひそかに唐衡を呼んで梁氏一族と確執のある側近がいないか訊ねると、唐衡は単超左悺徐璜具瑗を推薦した。桓帝は彼ら5人の宦官を呼び出して梁氏一族の粛清を謀議した。8月、司隷校尉の張彪が梁冀の邸を包囲して梁冀夫妻を自殺させ[1]、単超が梁氏一族を収監してことごとく処刑した。唐衡は中常侍に転じ、汝陽県侯に封じられた。単超・徐璜・具瑗・左悺・唐衡の5人は同日に封を受け、「五侯」と世間で呼ばれた。宦官たちが政権を掌握し、朝廷は乱脈を深めるようになった。

164年(延熹7年)、唐衡は死去した。車騎将軍の位を追贈された。

165年(延熹8年)、左悺と具瑗が失脚すると、唐衡の後継者は郷侯に降封され、子弟で分封を受けた者は、ことごとく爵位や封土を剥奪された。

唐衡には娘があり、同郡出身の荀彧の妻に迎えられたとされる[2]

脚注

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  1. ^ a b 後漢書』桓帝紀
  2. ^ 『後漢書』荀彧伝による。ただし裴松之三国志注』は年代が合わないと批判している。

伝記資料

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  • 『後漢書』巻78 列伝第68