度宗
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度宗 趙禥 | |
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南宋 | |
第6代皇帝 | |
王朝 | 南宋 |
在位期間 |
景定5年10月26日 - 咸淳10年7月9日 (1264年11月16日 - 1274年8月12日) |
都城 | 臨安 |
姓・諱 |
趙孟啓 趙孜 趙禥(立太子時に改名) |
諡号 | 端文明武景孝皇帝 |
廟号 | 度宗 |
生年 |
嘉熙4年4月9日 (1240年5月2日) |
没年 |
咸淳10年7月9日 (1274年8月12日) |
父 | 趙与芮 |
母 | 斉国夫人黄氏 |
后妃 | 全氏 |
陵墓 | 永紹陵 |
年号 | 咸淳 : 1265年 - 1274年 |
子 | 恭帝、端宗、祥興帝 |
生涯
[編集]嘉熙4年(1240年)、理宗の弟である栄王趙与芮の子として紹興で生まれる。理宗には嗣子が無く、幼少より節度がある言動が認められ、景定元年(1260年)6月に皇太子に立てられた。朱子学に傾倒していた理宗は後継者の養育に格別の気を配り、度宗自身も厳格な儒教的教育を受けた。景定5年(1264年)10月、理宗の崩御により第6代皇帝として即位する。
即位後の実権は理宗の治世からの外戚である丞相賈似道が掌握しており、度宗も年齢が若かったこともあり賈似道の専横を抑えられなかった。北方ではモンゴル帝国の全方位的な攻勢に直面し、国勢が危急な状況に追い込まれた。ついに咸淳9年(1273年)には南宋の重要な防衛拠点であった襄陽が元軍に陥落させられ、南宋の滅亡が決定的となった時代である。
咸淳10年(1274年)に35歳で崩御。死因は酒色による脳溢血とされる。その後は子の趙㬎(恭帝)が即位した。
人物
[編集]女性関係に節制が乏しい好色家である。宋のしきたりは、皇帝と関係をもっている後宮は翌日に宮門に参詣した。官僚は日付と人名を記録してきた。度宗の即位の初のある日に、宮門に参詣する女性の数は30人を超えた。