曽禰達蔵
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曽禰達蔵 | |
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日本建築学会発行「建築雑誌1938年2月号」より | |
生誕 |
1853年1月3日 江戸 |
死没 | 1937年12月6日 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 工部大学校 |
職業 | 建築家 |
所属 |
三菱合資会社 曽禰中條事務所 |
建築物 |
慶應義塾大学図書館 旧鹿児島県庁舎本館(現・県政記念館) 日本郵船神戸支店 |
曽禰 達蔵(そね たつぞう、旧字体:曾禰 達󠄁藏、1853年1月3日〈嘉永5年11月24日〉 - 1937年〈昭和12年〉12月6日)は日本の建築家。正五位。
同郷の辰野金吾とともにジョサイア・コンドルに学んだ日本人建築家の第1期生。「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱系貸事務所建築群の設計に関わった。のち後輩の中條精一郎(1868年 - 1936年)とともに設計事務所を開設し、慶応義塾図書館、鹿児島県庁舎本館、明治屋京橋ビルなどを設計した。日本造家学会(現日本建築学会)創立委員・会長。
経歴
[編集]- 1852年(嘉永5年)肥前国唐津藩士(祐筆)曾禰政乂(曽禰寸斉の子)の長男として江戸に生まれる
- 1873年(明治6年)工部省工学寮工学校(後の工部大学校)入学
- 1879年(明治12年)工部大学校造家学科(のちの東京大学建築学科)卒業、工部省入り
- 1881年(明治14年)工部大学校助教授
- 1886年(明治19年)海軍に入り、呉鎮守府の建築委員になる
- 1890年(明治23年)恩師コンドルの紹介で三菱社に入社
- 1892年(明治25年)三菱一・二号館の建設が始まる(1894年・1895年に竣工)、以後丸の内に煉瓦造のオフィス街が生まれてゆく
- 1906年(明治39年)三菱を定年退社、建築事務所を開設
- 1908年(明治41年)中條精一郎とともに曽禰中條建築事務所開設
- 1936年(昭和11年)共同経営者の中條が逝去
- 1937年(昭和12年)逝去。墓所は谷中霊園。
主な作品
[編集]建造物名 | 年 | 所在地 | 状態 | 指定 | 備考1 |
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三菱一号館 | 1894年 | 東京都千代田区 | 現存しない | 設計:ジョサイア・コンドル。曽禰は現場主任として関与。 | |
三菱二号館 | 1895年 | 東京都千代田区 | 現存しない | 共同設計:ジョサイア・コンドル | |
三菱三号館 | 1896年 | 東京都千代田区 | 現存しない | 共同設計:ジョサイア・コンドル | |
旧三菱銀行神戸支店 | 1900年 | 兵庫県神戸市 | 現存しない | 別名・ファミリアホール | |
三菱四・六・七号館 | 1904年 | 東京都千代田区 | 現存しない | ||
長崎造船所 占勝閣 | 1904年 | 長崎県長崎市 | 世界遺産 | 「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成遺産 | |
三菱五号館 | 1905年 | 東京都千代田区 | 現存しない | ||
旧東京倉庫神戸支店兵庫出張所 | 1906年 | 兵庫県神戸市 | |||
慶應義塾大学図書館 | 1912年 | 東京都港区 | 重要文化財 | 現在は斯道文庫や福澤諭吉記念慶應義塾史展示館などが入る | |
東京海上ビルディング旧館 | 1918年 | 東京都千代田区 | 現存しない | ||
旧日本郵船神戸支店 | 1918年 | 兵庫県神戸市 | 現・神戸メリケンビル | ||
日石ビルディング | 1922年 | 東京都千代田区 | 現存しない | 旧・有楽館 | |
郵船ビルヂング | 1923年 | 東京都千代田区 | 現存しない | ||
明治屋ビル | 1924年 | 大阪市中央区 | |||
旧鹿児島県庁舎本館 | 1925年 | 鹿児島市 | 鹿児島県登録有形文化財 | 現・県政記念館 | |
小笠原伯爵邸 | 1927年 | 東京都新宿区 | 東京都選定歴史的建造物 | ||
旧三井銀行小樽支店 | 1927年 | 小樽市 | 北海道重要文化財 | ||
慶應義塾大学病院予防医学教室 | 1929年 | 東京都新宿区 | |||
東京海上ビルディング新館 | 1930年 | 東京都千代田区 | 現存しない | ||
明治屋京橋ビル | 1933年 | 東京都中央区 | 中央区指定有形文化財 | ||
講談社ビル | 1933年 | 東京都文京区 | |||
慶應義塾大学日吉キャンパス | 1934年 | 神奈川県横浜市港北区 | |||
岩崎家熱海別邸 | 1935年 | 熱海市 | 静岡県|||
三井住友銀行大阪中央支店 | 1936年 | 大阪市中央区 | |||
慶應義塾幼稚舎 | 1936年 | 東京都港区 | 共同設計:谷口吉郎 | ||
田中光顕別邸 | 旧1937年 | 小田原市 | 神奈川県登録有形文化財 | 現・小田原文学館本館 |
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慶應義塾大学図書館
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慶應義塾学医学部予防医学教室
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旧鹿児島県庁舎
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長崎造船所 占勝閣
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三井住友銀行大阪中央支店
系譜
[編集]- 妻金子は高橋是清の義妹(仙台藩士高橋是忠の長女。1890年11月9日没)[1]。
- 妻(後妻)に久保田政周の実姉しん(1867年生)[2]。
- 長女ミサは、貴族院議員、法制局長官の山川端夫の妻[3]。
- 長男曾禰武は物理学博士。開成高校校長。
- 次女は株式会社東洋電機元社長の上遠野氏の妻。
- 次男曾禰修は公務員。東京都都市計画課にて関東大震災後の復興事業に従事。妻は、岩倉具視の孫。
- 三男曾禰益は外交官。アジア・アフリカ会議(バンドン会議)等に出席。旧民社党書記長。妻・春子は、東急創始者 五島慶太の一人娘。
- 三女は、理学博士・阪大教授で文化勲章受章者の仁田勇の妻。
その他
[編集]- 唐津藩主小笠原家の嗣子・長行の小姓を勤めており、戊辰戦争の際は共に会津に向かうが、長行の命で唐津へ帰っている(設計作品の小笠原伯爵邸の当主は小倉藩主の方)。
- 海軍から三菱に移ったのは海外視察をしたかったためだという。三菱入社後、1893年にシカゴ博覧会等のため渡米、1901年には岩崎久弥に随行しロンドンへ出張した。
著作・文献
[編集]- 石田潤一郎著、増田彰久写真『日本の建築 明治大正昭和7 ブルジョワジーの装飾』(三省堂、1980年)
脚注
[編集]- ^ 笠潤平「曽禰武-忘れられた実験物理学者勝木 渥著DWELL◎積文堂314頁定価(2500円+税)」『物理教育』第56巻第2号、日本物理教育学会、2008年、149頁、doi:10.20653/pesj.56.2_149、ISSN 0385-6992、NAID 110007491493。
- ^ 久保田政周 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 山川端夫 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 「去華就実」と郷土の先覚者たち 第08回 曽禰達蔵/宮島醤油株式会社
- 唐津の八偉人/唐津市
- 第4章 オフィス街の統一 曽禰達蔵の時代/株式会社三菱地所設計
- 物故者記事 曾禰達蔵/東京文化財研究所
- ウィキメディア・コモンズには、曽禰達蔵に関するカテゴリがあります。