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本多忠良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多 忠良
本多忠良自画像
時代 江戸時代中期
生誕 元禄3年(1690年
死没 寛延4年7月15日1751年9月4日
改名 忠隆(初名)、忠良
別名 権次郎、監物(通称)
戒名 自学院殿満誉了海全性大居士
官位 従四位下侍従中務大輔
幕府 江戸幕府側用人老中
主君 徳川家宣家継吉宗家重
越後村上藩主→三河刈谷藩主→下総古河藩
氏族 本多氏(平八郎家)
父母 本多忠英錦織八郎太夫の娘
養父本多忠孝
兄弟 忠良忠方忠辰忠強花房職勝正室
正室本多政利の娘・
忠敞忠亮忠寛水野忠辰正室ら
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本多 忠良(ほんだ ただなが)は、江戸時代中期の大名。幕府では側用人老中を務めた。越後国村上藩の第2代藩主三河国刈谷藩主、下総国古河藩の初代藩主。官位従四位下侍従中務大輔忠勝系本多家宗家8代。

生涯

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本多平八郎家の分家筋にあたる播磨国山崎藩主・本多忠英の長男として誕生。宝永6年(1709年)、15万石の本家当主・本多忠孝が12歳で無嗣のまま死去し、本来であれば断絶となるところを、とくに幕命により、分家筋の忠良に継がせることとなった[1]。ただし、藩主死去後の急養子の形であるため、忠良相続後まもなく、10万石減封の上で越後村上から三河刈谷に転封となっている[1]

幕府では宝永7年(1710年)に6代将軍・徳川家宣より側用人に抜擢され、翌年には侍従に上げられて席次は老中に次ぐと定められた。正徳2年(1712年)に同じ5万石で三河刈谷から下総古河に移封となる[1]。7代将軍・家継が死去し、享保元年(1716年)に紀州藩から徳川吉宗が8代将軍に就任すると側用人を解職されて帝鑑間席に戻ったが、忠良は平八郎家の嫡流であるとして、5万石ながら逆に10万石の格式を許された[1]

享保19年(1734年)には西の丸老中、翌年には本丸老中となり[1]再び国政の表舞台に復帰した。延享3年(1746年)に老中職を退き、宝暦元年(1751年)に古河藩主在任のまま死去した[1]

年譜

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系譜

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父母

正室

子女

脚注

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  1. ^ a b c d e f 早川和見『古河藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年2月、108頁。