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松平義方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 義方
時代 江戸時代中期
生誕 貞享3年10月9日1686年11月24日
死没 享保6年3月16日1721年4月12日[1]
改名 久太郎/求馬(幼名)、義賢(初名)、義方
戒名 晴寥院殿[1]
墓所 東京都の傅通院
官位 従五位下右近将監右近大夫従四位下出雲守侍従左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家継吉宗
陸奥梁川藩
氏族 大窪松平家
父母 松平義昌:副田氏
養母丹羽光重の娘・久勝院
兄弟 茂林院、徳雲院、稲姫、春林院、沖姫、友太郎、和姫、萬次郎、義方義武、法智院、富姫、理體院、春梢院
正室浅野綱長の娘・於三
義真、近姫
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松平 義方(まつだいら よしかた)は、江戸時代中期の大名陸奥国梁川藩の第2代藩主官位従四位下出雲守侍従左近衛権少将

経歴

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貞享3年(1686年)、初代藩主・松平義昌の5男として誕生。貞享4年12月9日(1688年)、誕生お披露目。尾張藩2代藩主・徳川光友御簾中千代姫に初対面する。元禄元年(1688年)11月15日、御髪置。同3年(1690年)1月25日、御着袴。同4年(1691年)10月14日、疱瘡を患う。同6年(1693年)4月15日、求馬義賢と改名する。同年7月1日、第5代将軍徳川綱吉に初御目見する。同13年12月12日(1701年)、前髮執。同月21日、従五位下・侍従・右近大夫に叙任される。同14年(1701年)2月16日、右近将監に転任する[2]

宝永4年(1707年)4月21日、浅野綱長の娘・於三と婚礼、4月28日に婚姻御礼に登城する。正徳3年(1713年)7月6日、父の死去で家督を継ぐ。同年12月3日、出雲守に転任する。同4年(1714年)12月18日に従四位下・左近衛権少将に昇叙・出雲守はそのまま。義方と改名する[1]。藩財政の窮乏から、父の代以上に年貢率を引き上げ、新税を設置して重税を強いるなど、農民からの収奪を強化した[3]

享保6年(1721年)3月16日、死去。享年36。跡を長男・義真が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c 『名古屋叢書三編』第一巻 尾張徳川家系譜
  2. ^ 徳川実紀
  3. ^ 『徳川・松平一族の事典』

出典

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  • 『名古屋叢書三編』第一巻 尾張徳川家系譜
  • 徳川実紀
  • 工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』(東京堂出版、2009年)