植村家治
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植村 家治(うえむら いえさだ、1887年(明治20年)3月14日[1] - 1962年(昭和37年)10月22日[1][2])は、明治から昭和期の実業家、政治家、華族。貴族院子爵議員。元高取町長[3]。旧大和高取藩第15代当主。
経歴
[編集]子爵・植村家壷の三男として生まれる[1][4]。父の死去に伴い、1920年(大正9年)8月10日、子爵を襲爵した[1][4][5]。
1913年(大正2年)東京外国語学校仏語専修科を卒業[2][4]。1908年(明治41年)宮内省内匠寮京都派出所勤務となる[2]。以後、鉄道院書記、鉄道省嘱託などを務めた[2]。実業界では、日東化学研究所社長、満州パルプ工業監査役、昭和理化学研究所所長、東京大宮電気鉄道取締役などを務めた[2][4]。
1930年(昭和5年)8月30日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[6][7]、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで3期在任した[2]。
親族
[編集]- 先妻・昌子(生年不明)
- 米沢文平の二女[1]。
- 後妻・堵芽(1908年(明治41年)8月9日生)
- 東京女子医学専門学校卒[3]。野中藤太郎(医学博士)の妹[3]。医学博士[3]。大阪市立桃山市民病院(現:大阪市立総合医療センター)産婦人科元院長[3]。
- 長女・治子(1911年(明治44年)4月生)
- 福井県、白崎正男の妻[8]。
- 長男・家幸(1914年(大正3年)11月生)[1][9]
- 次男・家隆(1920年(大正9年)6月2日)
- 三男・家忠(1943年(昭和18年)2月16日生)
- 次女・維堵子(1946年(昭和21年)1月11日生)[3]
- 三女・貴子(1948年(昭和23年)7月28日生)[3]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 上巻』239頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』37頁。
- ^ a b c d e f g h i “人事興信所『人事興信録 第21版 上』”. dl.ndl.go.jp. p. う - 36. 2024年10月12日閲覧。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 上』ウ37頁。
- ^ 『官報』第2048号、大正9年8月11日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、38頁。
- ^ 『官報』第1103号、昭和5年9月1日。
- ^ “人事興信所『人事興信録 第15版 上』”. dl.ndl.go.jp. p. う - 12. 2024年10月12日閲覧。
- ^ “植村家治 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2024年9月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 上』人事興信所、1948年。
- 人事興信所編『人事興信録 第21版 上』人事興信所、1969年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 植村家壷 |
子爵 (高取)植村家第2代 1920年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |