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河内勝幸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河内 勝幸
名前
カタカナ カワチ カツユキ
ラテン文字 KAWACHI Katsuyuki
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1955-04-27) 1955年4月27日(69歳)[1]
出身地 広島県
身長 180cm
選手情報
ポジション MF
ユース
1971-1973 日本の旗 広島工業高校
1974-1977 日本の旗 大阪商業大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1987 日本の旗 東洋工業/マツダ 121 (15)
通算 121 (15)
代表歴
1979[2] 日本の旗 日本 3 (0)
監督歴
????-1992 日本の旗 マツダSCコーチ
1992-1996 日本の旗 広島ヘッドコーチ
1997-1998  日本U-19コーチ
1997-1998  日本U-16監督
1999-2001 日本の旗 福岡管理強化・育成普及部長
2002-2009 日本の旗 吉備国際大学監督
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

河内 勝幸(かわち かつゆき、1955年4月27日 - )は、広島県出身の元サッカー日本代表選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。

来歴

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県立広島工業(通称・県工)時代は一年からレギュラーとなり1971年、徳島高校総体準優勝(0-3藤枝東)。第14回アジアユース選手権(AFCユース選手権)日本代表にも選ばれた。高校選手権には三年連続出場。二年連続で大会優秀選手に選ばれ、三年時には再びユース日本代表に選ばれた。楚輪博は1学年、金田喜稔石崎信弘は2学年下となる。木村和司は3学年下。

その後、大阪商業大学へ入学し、上田亮三郎から指導を受け、西村昭宏加藤好男中村重和らとプレー。

大学卒業後、東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)へ。日本代表として国際Aマッチ3試合0得点、Cマッチ6試合1得点。

引退後はマツダSC/サンフレッチェ広島トップチームヘッドコーチとして活躍。1997年に日本サッカー協会へ出向、代表スタッフとして活躍、1998年にはU-18日本代表コーチ兼U-16日本代表監督として第8回アジアユース(U-16)選手権に挑むも予選で敗退。1999年に広島にスカウトとして復帰予定だったが、アビスパ福岡からオファーを受け強化担当部長に就任、2001年福岡のJ2降格の責任を取り退任。

その後は吉備国際大学の監督として活躍した。 現在は広島市内の自宅に戻り、河内主計・酒・食用品店の手伝いをしている。

略歴

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所属クラブ
指導歴

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1978 東洋 17 JSL1部 10 3
1979 7 16 0
1980 14 3
1981 マツダ 16 1
1982 9 18 3
1983 18 1
1984 JSL2部 18 4 2 1
1985 11 0
1986-87 9 JSL1部 0 0
通算 日本 JSL1部 92 11
日本 JSL2部 29 4
総通算 121 15

代表歴

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試合数

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  • 国際Aマッチ 3試合 0得点(1979)[2]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1979 3 0 6 1 9 1
通算 3 0 6 1 9 1

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1979年06月16日 大韓民国の旗ソウル  韓国 ●1-4 下村幸男 日韓定期戦
2. 1979年07月11日 マレーシアの旗クアラルンプール  インドネシア △0-0 ムルデカ大会
3. 1979年07月13日 マレーシアの旗クアラルンプール  シンガポール ○3-1 ムルデカ大会

関連項目

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参考文献

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  • 広島県工サッカー部50年のあゆみ、広島県立広島工業高等学校サッカー部OB会、1996年5月
  1. ^ 『日本代表公式記録集2008』 日本サッカー協会、2008年、532頁。
  2. ^ a b “河内 勝幸”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/katsuyuki_kawachi.html 

外部リンク

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