称念寺 (坂井市)
称念寺 | |
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称念寺 山門 | |
所在地 | 福井県坂井市丸岡町長崎19-17 |
位置 | 北緯36度8分38秒 東経136度15分6.1秒 / 北緯36.14389度 東経136.251694度座標: 北緯36度8分38秒 東経136度15分6.1秒 / 北緯36.14389度 東経136.251694度 |
山号 | 長林山 |
院号 | 往生院 |
宗旨 | 時宗(浄土教) |
宗派 | 遊行派 |
本尊 | 新田義貞座像 |
創建年 | 養老5年(721年) |
開山 | 泰澄 |
中興 | 他阿真教 |
正式名 | 長林山往生院稱念寺 |
別称 | 長崎道場 |
文化財 |
絹本著色他阿上人真教像(重要文化財) 巻子本浄土三部経(県文化財) |
公式サイト | 称念寺(しょうねんじ)福井県史跡 新田義貞公御墓所 |
法人番号 | 9210005004058 |
称念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。
歴史
[編集]この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老5年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって開かれたと創建され、1290年(正応3年)他阿真教によって時宗に改められたという[1]。
新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所[2]があった。
室町時代には、後花園天皇[要出典]や室町幕府3代将軍足利義満[要出典]、8代将軍足利義政[3]の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。後に、徳川将軍家の香華院となって栄えたが、明治政府による版籍奉還の影響で、無檀家無俸禄となり経済的危機にさらされた[1]。やがて寺はもぬけの殻になったが、それを救ったのは広島県尾道の海徳寺住職高尾玄師であった。1914年(大正3年)に再建を果たし、1937年(昭和12年)には新田公600回忌法要を執り行った[4]。その後も福井地震によって存続の危機にたたされるも、多くの人々の協力・支援により今尚人々に愛される寺院となっている[4]。
近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[5]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた[注釈 1]。高田城下に移転した。
門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に住んでいた[注釈 2]。これは史実とは別に『明智軍記』として脚色され、広く読まれた。妻を置いて全国武者修行した創作の物語に因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。芭蕉の句碑が境内にある[7]。
歴代住職の阿号は「薗阿」である。
文化財
[編集]参考文献
[編集]- 谷口研語、2014、『明智光秀』、洋泉社〈歴史新書y〉 ISBN 978-4800304216
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 福井県立図書館『国立資料館本 坂井郡寺院台帳2/2』福井県立図書館、2004・1・14、137頁。
- ^ “福井の文化財「新田義貞公墓所」”. 福井県. 2015年12月2日閲覧。
- ^ “『福井県史』通史編2 中世”. 福井県. 2020年6月23日閲覧。
- ^ a b “福井県史跡 新田義貞公御墓所 称念寺”. 2019年7月8日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典
- ^ 谷口研 2014, pp. 34–35.
- ^ “戦国を訪ねる旅マップ(福井・滋賀・京都三府県連携観光促進協議会)”. 滋賀県. 2023年8月21日閲覧。
- ^ “文化遺産データベース「絹本著色他阿上人真教像」”. 文化庁. 2015年12月2日閲覧。
- ^ “福井の文化財「絹本著色 他阿上人真教像」”. 福井県. 2015年12月2日閲覧。
- ^ “福井の文化財「巻子本 浄土三部経」”. 福井県. 2015年12月2日閲覧。
関連項目
[編集]- 称念寺 (上越市) - 当寺に因んだ寺