紀元前305年
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世紀 | 前5世紀 - 前4世紀 - 前3世紀 |
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十年紀 |
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年 |
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紀元前305年(きげんぜん305ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルスとティベリウス・ミヌキウス・アウグリヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元449年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世初期以降、この年は紀元前305年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]- オリエントから南アジアにかけての世界は、紀元前308年から紀元前301年まで続く第四次ディアドコイ戦争の最中である。
エジプト
[編集]- プトレマイオス1世が、プトレマイオス朝エジプトの初代ファラオに即位。
- アレクサンドリアの大灯台、着工
メソポタミア
[編集]- セレウコス1世が正式にシリア王を名乗り、セレウコス朝シリアが名実ともに成立する(ただし、実質的勃興と即位は紀元前312年)。
- セレウコス1世が、チグリス川湖畔に首都としてセレウキアを建設。
- ロドス包囲戦(- 紀元前304年)の勃発
- 第四次ディアドコイ戦争の一局面。アンティゴノス1世の命で、息子のデメトリオス1世がロドス島への攻撃を開始。
ギリシア、マケドニア
[編集]ローマ
[編集]- ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルス (en) とティベリウス・ミヌキウス・アウグリヌス (de) が共和政ローマの執政官に就任。
- ボウィアヌムの戦い(Battle of Bovianum、ボヤーノの戦い)
- 第2次サムニウム戦争末期の一局面。共和政ローマの執政官であるマルクス・フルウィウス・パエティヌス (en) とルキウス・ポストゥミウス・メゲッルスが、ボウィアヌム(現・ボヤーノ)でサムニウム軍を決定的に破る。
インド
[編集]- 紀元前305年頃 - セレウコス1世率いるシリア軍がインダス川を越えて北西インドに侵入するも、マウリヤ朝マガダ国初代王チャンドラグプタはこれを圧倒、逆に押し返したところで和約を結び、インダス川以西の4州(アリア[en]、アラコシア[en]、ゲドロシア[en]、パロパミソス)の支配権を得る(第四次ディアドコイ戦争の一局面)。加えて、セレウコス1世の娘を息子ビンドゥサーラの妃に迎える。
中国
[編集]- 趙の武霊王が中山国を攻撃し、丹丘・爽陽・鴻の塞を奪い、さらに鄗・石邑・封龍・東垣を奪取した。中山国は4つの邑を差し出して講和した。
- 秦の後継者争いに敗れた公子荘は、反対勢力を結集して反乱を起こした(庶長荘の反乱、季君の乱)。この乱は魏冄らにすぐに鎮圧された。反乱に同調した悼武王后は魏に追放され、昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされた。この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった。
- 秦の樗里疾が、衛の蒲を攻めたが、胡衍の取りなしで包囲を解いた。引き返して魏の皮下を攻めたが、降伏しなかったので、引き上げた。
誕生
[編集]→「Category:紀元前305年生」も参照
- エラシストラトス、ヘレニズム期のギリシア人。宮廷医(+ 紀元前250年)
- 鄒衍(すうえん、en)、中国、戦国時代の思想家(+ 紀元前240年)
- 異説では紀元前310年 - カリマコス、ヘレニズム期のギリシア人。詩人、批評家(+ 紀元前240年)
- 異説では紀元前295年 - アルシノエ1世、プトレマイオス朝エジプトの女王(+ 紀元前247年)
死去
[編集]→「Category:紀元前305年没」も参照
脚注
[編集]注釈
出典