藤原綱継
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 天平宝字7年(763年) |
死没 | 承和14年7月26日(847年9月9日) |
別名 | 縄継 |
官位 | 正三位、参議、贈正二位 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 |
父:藤原蔵下麻呂 母:乙訓女王(掃守王の娘) |
兄弟 | 宗継、縄主、綱継、網主、浄本、八綱、清綱、姉子、藤原真友室 |
妻 | 藤原姉子(藤原蔵下麻呂の娘) |
子 | 吉野、吉永、承吉 |
藤原 綱継(ふじわら の つなつぐ)は、平安時代初期の公卿。藤原式家、参議・藤原蔵下麻呂の五男[1]。官位は正三位・参議、贈正二位。
経歴
[編集]皇太子・安殿親王の春宮少・大進、民部大丞を経て、延暦22年(803年)41歳でようやく従五位下に叙せられるが、叙爵以降は比較的順調に昇進していく。延暦25年(806年)桓武天皇の崩御後まもなく少納言に任ぜられ、同年5月安殿親王の即位(平城天皇)に伴い従五位上に昇叙される。平城朝では少納言の他左衛門督を務めた。
大同4年(809年)嵯峨天皇が即位すると侍従に任ぜられ、翌大同5年(810年)正五位下に昇叙。嵯峨朝では民部大輔・大舎人頭・右京大夫・兵部大輔・神祇伯を歴任し、弘仁5年(814年)には従四位下に叙せられている。
弘仁14年(823年)淳和天皇の即位に伴い従四位上・左兵衛督に叙任され、翌天長元年(824年)蔵人頭、天長2年(825年)には参議に任官し公卿に列した。議政官として右京大夫・兵部卿を兼ね、天長5年(828年)正月に正四位下に叙せられるが、同年5月には子・吉野に参議の官職を譲り自らは致仕した。その後、山井里第に隠棲するが、吉野が淳和天皇の側近として昇進していく傍らで、綱継自身も天長7年(830年)従三位に叙せられている。
仁明朝の承和8年(841年)正三位に至る。その後の承和の変に伴う吉野の失脚(承和9年〔842年〕)及びその死去(承和13年〔846年〕)よりさらに長命を保ち、承和14年(847年)7月26日薨去。享年85。最終官位は致仕参議正三位。没後正二位の位階が贈られた。
官歴
[編集]注記のないものは『六国史』による。
- 延暦16年(797年) 2月9日:春宮少進(春宮・安殿親王)[2]
- 延暦17年(798年) 閏5月17日:春宮大進[2]
- 延暦18年(799年) 4月11日:民部大丞[2]
- 延暦19年(800年) 5月8日:兼播磨少掾[2]
- 延暦22年(803年) 正月7日:従五位下[2]。正月14日:播磨介[2]
- 延暦25年(806年) 2月16日:治部少輔。4月12日:少納言。5月18日:従五位上[2]
- 大同2年(807年) 6月26日:衛門督。9月5日:美濃守
- 大同4年(809年) 4月11日:侍従[2]
- 大同5年(810年)4月19日:正五位下。7月16日:因幡守[2]
- 弘仁3年(812年)8月1日:民部大輔
- 弘仁5年(814年) 正月7日:従四位下
- 弘仁6年(815年) 正月14日:左京大夫。7月13日:大舎人頭
- 弘仁13年(822年)正月11日:兵部大輔[2]。10月25日:神祇伯[2]
- 弘仁14年(823年) 4月27日:従四位上。8月19日:左兵衛督[2]
- 天長元年(824年) 6月:蔵人頭[2]
- 天長2年(825年) 7月1日:参議、左兵衛督如元[2]
- 天長3年(826年) 日付不詳:右京大夫[2]。正月21日:兼武蔵守[2]。2月3日:兼相模守[2]。9月3日:兵部卿、止左兵衛督か[2]
- 天長5年(828年) 正月7日:正四位下。5月27日:致仕[2]
- 天長7年(830年) 正月7日:従三位
- 承和8年(841年) 11月20日:正三位
- 承和14年(847年) 7月26日:薨去(致仕参議正三位)、贈正二位[2]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。