藤波寛忠
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦9年1月25日(1759年2月22日) |
死没 | 文政7年11月24日(1825年1月12日) |
官位 | 正二位、非参議 |
主君 | 後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇→仁孝天皇 |
氏族 | 藤波家 |
父母 |
父:藤波和忠、母:家女房 養父:藤波季忠、養母:藤波伊子 |
兄弟 | 伊子、駿麿ほか |
妻 | 中山砥豫子(中山愛親の娘) |
子 | 光忠、澤量行、三室戸陳光、歌橋、藤子、庸子、實ほか |
藤波 寛忠(ふじなみ ひろただ)は、江戸時代後期の日本の公卿、神宮祭主。
生涯
[編集]神宮祭主藤波和忠の子として、宝暦9年(1759年)に生まれる。和忠にとって待望の男子ではあったものの、季忠を既に養子に取っていたため、季忠の養子となった。
明和4年(1767年)、9歳で叙爵される。明和8年12月9日(1772年1月13日)、13歳で元服、昇殿を許される。安永7年(1778年)、養父より譲られて祭主となる。天明3年(1783年)、25歳で従三位となり、公卿に列せられた。寛政6年3月13日(1794年4月12日)、大殿祭への毎度の勤仕の賞により、直衣を許された。
文政7年(1825年)、神祇大副を辞任したその6日後、66歳で薨去した。
官歴
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系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『公卿補任』第五篇(黒板勝美・国史大系編輯会『新訂増補国史大系』所収)吉川弘文館、1974年。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成 上』吉川弘文館、1996a。
- 霞会館 編『平成新修旧華族家系大成 下』吉川弘文館、1996b。
- 中島正伍「大城の大上臈歌橋の墓(第一墓地)」祐天寺歴史文化館(境内散策)